僕は褒められて伸びるタイプなんだぞ。もっと褒めろよばかやろう!②
「アエル。……話も盛り上がってるみたいだし。ほら、もう十分見れたでしょ? ……そろそろ戻ろ?」
――すっと何かが引き上げられた。
アエルは取手を握ったまま、声の方を振り向く。
藍色の厚い前髪に、白い一房。
いつものように笑っている、ネルウェンの顔があった。
「寝室に入って座って待ってようよ。今日はもう疲れただろうし、寝ちゃっても、ご飯のときには起こすから」
明かりの届かない場所へ。
少し強引にネルウェンに腕をつかまれて止められない。
まっすぐ進んでいるつもりでも、足元が時々、何かにぶつかる。
アエルは食卓部屋を振り返った。
暗がりを切り取ったように、明かりだけが漏れている。
太陽の沈んだ空の中で、窓だけが浮かぶ。
結局……わからなかった。
ヴォルフガングがどんな話をしていたのか。
どんな人物なのか。
何をしていたのか。
そして。
アエルが、何をしたかったのか。
手がざらついた何かに当たった。
硬くて、でもしっかりふち取られている。井戸の石だった。
ひんやりとしていて、こもった熱を和らげる。
アエルは大きな息を吐き出した。
なんだか一緒に、肩の力も抜けた気がする。
「ネルウェンは……わかった?」
「うん? ごめんね……アエル。何がわからなかったのか教えてくれたら、僕も答えられると思うのだけれど……」
アエルは闇に浮かんだ白い一房を眺めて。
何か忘れていたものを探すように、周囲を見渡した。
暗闇が滲んだ視界。
星明かりが少しづつ落ちてくる。
アエルは、何かがあった気がしてきょろっと確かめる。
――作業場で、背を丸めた影が動く。
もそもそと鈍くさく、でも確かな重量感があった。
「ネルウェン、あそこに熊がいる……」
もう何度も見たことがある、短い毛で覆われた輪郭。
だからこそ、ネルウェンは肩を震わせた。
「ふふっ。アエルってば。こほん……熊は街の外にいるものだよアエル君。もし、君が家の中で遭遇したのなら、それはきっと熊ではなく――ジェイスキンだ」
ちょっとかしこまった声色で、聞き慣れた返事を返してくれた。
こちらに気づいたジェイスキンは、作業場の影から顔を覗かせる。
首のくびれを感じさせない見事な毛量。
肌色が見えない握られた手。
星の明かりに照らされたのは――安心感のある、ひげだるまだった。
ジェイスキンも、故郷で一緒に育った幼馴染だ。
つまり、アエルと同じ、十七歳ということになる。
くすんだ鉄色の髪から、途切れることなく繋がった口と顎のひげ。
少し下がった眉も厚みがあり、顔の半分以上は毛で覆われている。
被って着るように作られた大きな服に、首元に開いた切れ込み。
そこは紐で縛っているはずなのに、胸毛が隙間から飛び出している。
さらには、背中にも毛が生えていることを知っていた。
アエルと比べると明らかに大きな骨格で、肩幅の広さや手首の太さに明確な違いを生んでいる。
それでも、なんだかこじんまりして見えるのは、ちょっと丸まった背のせいだろう。
背筋を伸ばさなければ、もしかしたらアエルの方が高いかもしれない。
いつの間にかアエルから近づいて、話しかけてしまう、拠り所で。
言葉の数は少ないのに、必要なことが伝わっている。
何をしていなくても、記憶には残る。
それは、重いわけでもなく、軽いわけでもなく。
ただ、頼るわけでもなく、救われるわけでもない。
こういうのも、友達なのだと思う。
アエルは作業場の中に自然と吸い込まれた。
「ジェイスキンじゃん。もう夜だぞ。巣穴におかえり」
夜の暗がりで見るジェイスキンは、目だけが闇に浮いてるように見える。
その目が何度かまたたいて、くるりと周囲を見回した。
「アエルか。……どこから入ってきたんだ?」
アエルはちらりと塀に気を向ける。
つられて、ネルウェンも、ジェイスキンも。
……みんなが塀を見た。
「なんか入れちゃったんだよ。……ジェイスキンはここにいていいの? ヴォルフガングいるのに」
なんとなくジェイスキンのひげに手が伸びていた。
「俺はいい。ああいう場面になると、クライドがいつも前に出るだろ。責任感だって本人は言ってるが、まあ……好きなんだろ、そういうの」
ジェイスキンは嫌がることもなく、されるがままに縮れたひげを伸ばされている。
クライドの名前で、アエルは食卓部屋の様子が気になった。
銀髪の男の姿が脳裏によぎる。
しかし、振り向いたらネルウェンがいて、そっと手を取られた。
「アエル。適度な距離って人によって違うから。アエルの腕の長さじゃなくて、ジェイスキンの腕の長さで接するのが丁度いいんじゃないかな」
ジェイスキンと手の長さを比べられる。
甲にまで毛が生えた手はアエルの肩に当たり。でもアエルの手は、大きな肩には届かない。
「俺はいい。別に困らないからな。ただ、アエル。他の人のひげをむやみに引っ張ると怒られるかもしれないぞ。それは、礼儀じゃない。目を見て、友好的に微笑んで、そうやって相手を立てて。それが大事なんだ。ちゃんと、引っ張っていいですかと聞くんだぞ」
なんとなく、ジェイスキンの方が腕が長いと言いたいことはわかった気がする。
けれども、アエルにはそれよりも気になることがあった。
……ジェイスキンより小さい手で、ろうそくの明かりが漏れる食卓部屋に指をさす。
「それで、ジェイスキンは、今どんな話ししてるのか知ってるのかよ」
皮膚のすぐ下がぴりぴりとむず痒いような、とにかく何かを知りたかった。
「顔を合わせる前に……出ておくように言われてな。俺は見てない。まあ、あとで本人に聞けばいい……」
ジェイスキンは耳の後ろをなぞりながら、転がった薪材に腰を下ろす。
「今知りたいんだよ。あの銀髪のおっさんが、ヴォルフガングなんだろ。――資格持ち冒険者の、偉い人なんだろ? なんで僕たちは意地悪されてるんだよ?」
問いかけたまま、アエルは返事を待たなかった。
トントンと靴先で、薪材の端に向かって拍子を刻む。
ジェイスキンは座りを確かめながら腕を組んだ。
「……アエルのそういう気持ちって大切だと思う。そうだね、なんとかしないと、いけないよね。僕もそう思う。そして……きっと。クライドも同じで、だからこそ好きでやりたがってることだから、ね? ……今は譲って、ここで待ってるのが、仲間なんじゃないかな」
藍に混じった白い一房が、風を撫でるようにふわりと揺れた。
アエルは靴先を地面につけて、そっとネルウェンを見上げる。
なんだか気持ちを伸ばされて、薄く平らにされるような、そんな感覚に似ていた。
「なんか。うまくいきそうになかったんだぞ。あいつが何かやらかして――怒らせたんじゃないのかよ」
ネルウェンは手を首元に添える。
「それじゃあ、後で。クライドに……教えてあげよっか。アエルが言えば、きっとわかって貰えるから。ね」
伸びた雑草の先をちぎると、青草の匂いがした。
ネルウェンは小さく息を吐く。いつものように優しげで、笑っていて。
――それでもアエルは、まだ見られてもいなくて、証明もできていないのかもしれない。
ちぎった草の端を捨てて、手を払った。
「じゃあ、こんどは僕がヴォルフガングに仕事をくれって頼んでくる」
アエルの決断は早かった。
しかし、ネルウェンはアエルの肩をしっかりと支えて歩みを止める。
「待って。……ね、アエル。ちょっとだけ……そう、作戦。作戦を考えてみない? そのまま行って、失敗したくないでしょ? アエルにとっても、僕たちにとっても、大事なことだから。ね? それにほら、窓から見た姿が、ちょっと怖そうだったし……」
くるりと回されて、ネルウェンと目があった。
その瞳は微かに揺れていて、それがどんな感情かがわかる。
「なんだよ。僕ならうまくできるかもしれないじゃんか。それに、あんなおっさん、怖くなんてないんだぞ!」
アエルは強くネルウェンを見返す。
そのとき、硬い虫の羽音が近づいてくるのが聞こえた。
ひょいと頭を逸らして避けると、そのままネルウェンのひたいに当たり、「あたっ」と弱い声が漏れた。
ネルウェンは咄嗟に頭を押さえ、アエルは少し屈んで抜け出そうとした。
そこへ――毛深い手が伸びてくる。
「アエル。――探索認可免許状だ。俺たちに資格さえあれば、仕事はなんとかなるんだ。資格を貰うために銀行に行ったんだろう。カストリオ・ヴァレリから貰えなかったのか?」
ジェイスキンに手をとられていた。
少し昔の話をされて、アエルはまばたきの間だけ逡巡する。
「ああ。なんか、よくわからないけど駄目だった」
アエルは堂々と言った。
ジェイスキンから「は?」と掠れる声がこぼれて、手から力が抜ける。
「……そうか、それなら……仕方ない、か……」
毛深い手がそのまま耳の後ろをひと撫でしたと思ったら。
今度は逆の手で、アエルは掴まれていた。
「――礼儀だ! アエル。こういうときこそ礼儀……なんだ。クライドに、参加していいですかと、許可を取るべきなんだ」
硬いはずの鉄色のひげが揺れる。
アエルの身体も揺れた。
その言葉で食卓部屋の様子を思い出し、窓からこぼれるろうそくの明かりに視線を戻す。
すると、丁度勢いよく、扉が開かれるところだった。
「アエル! てめえ、こっちは真面目にやってるのに、覗いてやがったな!」
飛び出して来たのは、クライドだった。
星空の下で動く影はしなやかで。
長く、力強く、内側に秘められたものが滲み出ている。
アエルの身近にいたのはクライドだった。
幼く、本当に赤ん坊の頃から隣にいる。
雑に切られた粗い金色の髪は、耳元だけ短く整えられている。
実用性重視で、本質をわかっているようでもあって、でもどこか曲がっていて。
そういうやり方が、きっと本人すら気づいていない癖みたい。
胸元が大きく開いた白い服は大きめで。
でも履いている脚衣は長年使ってて少し小さくて。
まるでそれこそがとわかっているように、知った風な口調を使う。
めったに笑わず。でも愛想は悪くなく。
口を開くより先に、目で言葉が交わせる。
友達というものは、たぶんクライドなのかもしれない。
「クライド! ヴォルフガングはどうだったんだ。仕事は」
大股の足音はすぐにアエルの前で止まる。
上から押さえつけるような睨みつける視線に、星の輝きは映らない。
「その前に、お前は俺に言うことがあんだろ! カストリオ・ヴァレリはどうなったんだ!」
空気を裂いた音だった。
日干し煉瓦の壁からぱらりと砂が落ちる。
アエルは思わずかかとに力を入れた。
「待って、待って、クライド。一旦声を落とそうよ。もう夜だし、ここは外だからさ。中でゆっくり話せないかな」
クライドは、足元の雑草を思い切り踏みつける。
土埃が吹き上がるように舞い上がった。
§
食卓部屋の中は居心地が悪かった。
見慣れた部屋は静まり返り、沈黙が重たく感じられる。
ネルウェンは口を閉じたまま、少しだけ首を傾けている。
その姿はいつもと変わらないように見えて。
けれども、手は膝の上に乗っていて、助けてくれようとはしない。
ジェイスキンはこの場にいるだけだった。
腕を組み、目を閉じて、物思いにふけるように。
何もせず、ただ待っているみたいで。
クライドは立っていた。
ひとりだけ座らず、卓に手を置いたまま。
不機嫌そうに、眉を動かして。
「……だから、僕がその銀行強盗を倒したんだからな」
自然に手が握られる。
アエルは後ろめたいことなどないはずなのに、なぜか歯切れが悪くなった。
「おい待て、さっきお前が言ったよな。強盗が、金庫持って逃げたんじゃねえのかよ」
張り詰めた弦を引っ張ったように声が響く。
クライドは、木目の節にある穴を力任せに指で引っ掻いていた。
「それは本当のことなんだって。カストリオ・ヴァレリは負けたんだ」
壁に塗られたしっくいは剥がれて、日干し煉瓦が顔を出している。
風は乾いていて、いつの間にか食卓部屋の空気が冷えていた。
「なんでだよ! だったらお前が強盗倒したことになるわけ、意味わかんねえだろ!」
クライドの声が大きくなる。
あわせるように手が固く握られる。
「それも嘘じゃない! 僕はちゃんと強盗を倒したんだからな!」
アエルは椅子の座面をぐっと握り、前に身体を起こした。
湿った首元に髪の毛が張り付く。
「んなこたどうだっていいんだよ! 俺は、お前に……だ。アエル、いいか、探索認可免許状を貰うんだっただろ、カストリオ・ヴァレリと交渉してくるはずだったよな。な……んで強盗退治の話になってんだよ!」
息継ぎすることもなく、クライドは言葉を吐き出した。
まばたきひとつで言葉は流れ、けれども肩は揺れていない。
アエルはその口が息を吸い込む前に声をあげた。
「しょうがないだろ! 銀行強盗が出たのは僕のせいじゃない! 先生も、運が悪かっただけだって言ってたんだぞ!」
クライドは目をそらさない。
何かを奪い合い、行きかい、力が撓む。
そして――
「あー、くっそ! 誰だよ。先生って誰だよ!」
クライドが爆ぜた。
頭を抱え、雑に着られた粗い金髪をかきむしる。
アエルはその様子に胸を張った。
「知らないおっさんだよ」
頬に張り付いていた髪を耳にかける。
「知らないおっさんの言う事なんて、どうでもいいわ!」
髪は手から滑り落ち、また首元をくすぐる。
クライドは怒気をまとわせ、卓を平手で叩いていた。
「銀行に行ったのはなんのためだよ。忘れたのか? ほんとに、それ忘れて帰ってきたのかよ、お前!」
直接、頭の奥に突き刺さるような声色。
勝手に目が見開いて、腰が引く。
「……クライド。ちょっと、声……抑え……」
部屋が。鉄みたいに、硬く、冷たく見えた。
クライドも、ジェイスキンも。卓も。壁も。
ネルウェンの声は浅くかすれていた。
「俺たちの仕事がなくなって、もう何週間経ってると思ってるんだ! 樹の皮でも食ってろっていうのかよ。お前は……なんで交渉すらしてきてねえんだ! 成功したのでもない。断られたのでもない。じゃあ、お前は何をしに行ったんだ!」
お腹の中が重くなる。
腰に落ちて、脚に広がり。けれど喉には届かない。
「僕だって、やろうとしたんだぞ。でも、それどころじゃなかったんだ……」
アエルの言ってやりたいこと。
たぶんそれは、言葉ではなかった。
「それどころじゃねえ? は? じゃあ何があるってんだよ。それ以外、これ以外に、これ以上に何があんだよ!」
銀行強盗が現れたのは事実だった。
そして、アエルが役目を果たせなかったのも事実だった。
「おい、アエル。お前、まさかこれで済むなんて思ってんじゃねえだろうな」
クライドの目に力が入り、感情は止まらなかった。
芯が揺れ、影が伸び、アエルを追い詰めるように広がっていく。
「そもそもお前の危機感が足りねえのが原因なんだ。お前は気づかないのか。自分ができてない人間だって、なんでまだわかってねえんだ」
アエルには、なにが悪いのかがわからない。
それでも、悪いのはクライドなのだと、思える方法を探したかった。
「どうなんだ。お前はやれるのか。やれないのか。はっきり言えよ!」
鼻の奥が痛む。
クライドは、いつものように声を荒げている。
アエルにはそれが、昔から何も変わっていないように見えた。
高い背丈でいつも見下ろして。
自分勝手なことばかりで。
家の近くの原っぱの上で。
太い幹が立ち並ぶ木陰の中で。
「お前は能力が足りてない。見りゃわかんだろ。なんでそれがわからねーんだ!」
アエルは聞いていた。
強引でも。引っ掻き回されても。
「……いいか、お前が悪かったって、そろそろ納得できんだろ。指示した通りに動け! 俺たちの足を引っ張るな! 俺たちを破滅させるようなことはするな!」
もう。手が震えている。
にじみそうになる視界をめいいっぱい広げ。
軋む椅子にしがみつき。
引っ込みそうになる……
でも、その言葉を――
喉から、精一杯に引っ張り出そうとし。
そして。
勢いよく椅子を蹴立てて立ち上がった。
「僕は褒められて伸びるタイプなんだぞ。もっと褒めろよばかやろう!」
アエルの声は確かに響く。
粗い金髪をわずかに揺らし、日干し煉瓦の壁に跳ね返る。
アエルと。クライド。
食卓部屋にいる全員が、石張りの床に縫い止められた。
「ざーこ! お前なんてな、お前なんてな。……この、この、ふくろう野郎!」
この叫びには勢いがあった。
まるでそれは綿花畑の綿毛が一斉に飛び立つように。視界を圧倒的に埋め尽くし――
「……ふくろうやろう」
――まったく効果を及ぼさなかった。
「そうだぞ。みょうちくりんな髪型しやがって、膨らんで威張ってても、中身はこんなに細いくせに」
クライドの小さな人間性を測るように、指をつまんでみせる。
「ぜんぜん、……うまいこと言えてねえからな」
アエルの舌の回りほど、クライドの声は熱を帯びない。
それでも、ぶつけたいものは山程あった。
形にならない言葉でも、なんでもよいから、アエルはとにかく、投げる。
「うるせえ、言い訳すんな! お前、街中に、マリーちゃんの誕生日に蜂の巣取りに行ったときのこと、言いふらしてやんぞ!」
これはただの感情の塊で。
言葉であっても――意味はない!
「くっそどうでもいいわ! そんな昔のこと!」
「ほら、ムキになってんじゃん! 嫌なら謝れよ!」
これは真剣勝負なのだ。
「もうガキじゃねーんだよ! 俺には仲間を、パーティを守る責任があんだよ!」
息切れしそうな応酬は続き――
「なーにが仲間だ。ほんとはぼっちのくせに!」
それが、ほんの僅かな間――途切れた。
アエルは一度まばたきし、クライドは少しだけ足を引く。
「どこがぼっちだ! 仲間がいんだろ。それに、偉いやつと話すのも、街の人に頭下げんのも、俺がやってんだろ!」
跳ね上がるようにクライドが叫ぶ。
夜の冷えた空気を揺らし、熱気がゆらりと立ち上がる。
まるでなにごともなかったように装われ。
だがそれは――悪手だった。
「あー、あー。あの、ひとり言のことね。よくやるよね、ほんと」
ころころと笑うように、人一倍高い声色が落とされた。
「ひとり言、……だと?」
粗金の少年は動きを止める。
「ひとり言だろあんなもん。相手の言葉も聞かないで、一方的に喋ってるだけじゃんか。あ、さっきもやってたよね。壁に向かって喋ってるのかと思った」
しかし、すでに悪魔は笑っていた。
浜辺でヤドカリを見つけたように……
水場の近くでアリの巣を見つけたかのように……
「てめー。聞いてなかったのか……」
「わかる。わかるよ。僕だって理解のある大人だ。想像の友達に話しかけることも、そりゃあるよ。でもさ、いい加減目を覚ませって。見てらんないよ」
ゆらりと湯気が立ち昇る。
桜色の頭は熱気を帯び、周囲はつばを飲み込んだ。
もう、この部屋には満ちていた――
「ふっざけんな! ……俺が! どれだけ俺が!」
「すっげー必死じゃん。大丈夫だって。死にはしないよ。恥ずかしいだけで」
嘲笑と。
「恥ずかしいわけ――」
「やーい。ぼっち!」
無邪気さと。
「ふざっ! け――」
「気を使わせられるのも疲れるんだよね。一人で喋るなら寝室いけって」
高笑いと。
「黙れ!」
止められない。
「ほんと、誰に喋ってんのそれ。目みて話せよ。あ、ぼっちには無理かなー?」
決まった。
アエルは、緩みきった頬を引っ張って、少し気分を落ち着ける。
クライドは血の気で満たされた顔を冷やすように、大きく息を吸い込んで、吐いていた。
「あー。くっそ! ……落ち着け、いつものアエルだ。ただのクソガキだ……」
部屋に入り込んでいたヤモリが、小さな窓から逃げていく。
アエルは口元に手を当てて、最後のトドメに入った。
「もう言い訳してんじゃん。負け犬かな? あははは、カッコ悪っ! あ、だから話が誰にも通じないのか。わかる」
――バンッ!
亜麻布の白さが眼の前を埋める。
熱気が後から追いついてくる。
アエルは何が起きたかわからずに。
……頬に感じるあせじみた湿気に目を向けた。
――腕があった。
袖をまくりさらされた。
やたらと筋肉質な腕の先。
視界を覆い尽くすほど近く。
奥にあるはずの日干し煉瓦の面影も見えない。
頭を引いても、冷たくざらついた感触に阻まれる。
さっきの音が、クライドが壁を叩いた音だと気づいたのはその後だった。
アエルの心臓が激しく動き出す。
突き出されたときに感じた風が、今になって頬の感触を刺激する。
鼻先が亜麻布に当たっていた。
見上げても、クライドは、何も言わない。
アエルはただ、目をそらした。
その感情は言葉にはできない。
ただ、怖かったなんて、思いたくはなかった。
「なんだよ……。はやくどけよな」
腕をどかそうと、触ろうとして、その手が止まる。
意味もわからずに引っ込めた。
「お前……、わかってんのか?」
頭の上から声がする。
わかりたくなんてなかった。
クライドの背はずっと高く。
アエルの背はずっと低く。
昔から、この差は変わらず続いていた。
だから、アエルは負けたくなかったのだ。
屈むように腕をくぐり抜けて。
石張りの床に足を踊らせた。
「それで勝ったと思うなよ! ばーか、この、ばーか!」
夜の食卓部屋に、その声は沈んだ。
卓も、椅子も、戸棚も、いつもと何も変わりない。
けれどもアエルの肌にはつぶが立ち、どこか周囲が色褪せて見える。
クライドは、肩だけを回しながら、ゆっくりと振り返った。
「アエル。お前、冒険者やめろ」
気負うでもなく、声を張るわけでもなく。
夜の柔らかい空気の流れに乗るように。
当たり前で、なんでもないこととして、言葉は消えていった。
だから、わからなかったのだと、思う。
アエルは、きっとそのはずだった。
虫の音すら遠のく。
星の瞬きすら聞こえそうで。
唇が張り付いたように重かった。
いや、アエルは口を開いたはずだった。
でも、声は聞こえてこなかった。
だから。
クライドは、何も言い返されないから。
自然な仕草で、倒れた椅子を直している。
「いいか。冒険者。やめろ」
確かめるように、繰り返される。
粗い金髪に、雑に切られた髪。
クライドの目は真剣だった。
これはいつも通りで、めったに笑わず、でも愛想は悪くなく。
真っ直ぐで……
――アエルを見ていた。
「そういうのも、ありかもね」
聞こえた声が、ネルウェンの声であるはずがなかった。
藍色の厚い前髪に、白い一房が揺れる。
いつも通り口元はほころんでいて。
空気みたいに、風みたいに。
――アエルを押し返してくる。
「……生き方を変えるときがきたのかもな」
ジェイスキンから、信じられない言葉が呟かれる。
鉄色の髪とひげ。太い眉は少し下がり。
でも困っているわけではないことを、アエルは知っている。
重いわけでもなく、軽いわけでもなく。
当たり前のように。
――クライドの言葉を、受け止めていた。
息のしかたを忘れてしまったかもしれなかった。
吸っているのに苦しくなる。
今は、声を出さなくてはいけないのに。
アエルはわかっているはずなのに。
言いたいことが、わからなくなった。
意地を張る意味を、忘れてしまった。
二年間一緒に住んだ家だった。
十七年間共に過ごした友達だった。
そのすべてが、作り物だったようで。
歪んでいた。
軋んで、割れて。
口を開けば嗚咽が出そうだった。
余った袖を強く噛んでこらえた。
冒険者をやめる。
――そうではないと、思う。
アエルが言いたいことは、きっと違うことだった。
友達とは、こういうもののはずで。
でも、何かが違っていたようで。
だから、こんな別れ方は……
考えてもいなくて。
どんなことがあっても一緒にいると思っていた。
信じていたものは、そんな器みたいなものだった気がする。
割れるなんて、想像しても、いなかった。
アエルは、気がついたら、星空の下にいた。
日干し煉瓦の壁のあいだ。
隙間だらけの石畳の上を走っていた。
できることは、何もなかった。
アエルには、確かに力があるはずだったのに……
新大陸の夜空は遠く果てまであり、人の生活の火が宿り始めていた。
アエル「うるせえ、言い訳すんな! お前、ブクマ・評価しないとな、街中に、はじめて井戸に水汲みに行ったときのこと、言いふらしてやんぞ!」




