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僕は褒められて伸びるタイプなんだぞ。もっと褒めろよばかやろう!②


「アエル。……話も盛り上がってるみたいだし。ほら、もう十分見れたでしょ? ……そろそろ戻ろ?」


 ――すっと何かが引き上げられた。

 アエルは取手を握ったまま、声の方を振り向く。


 藍色の厚い前髪に、白い一房。

 いつものように笑っている、ネルウェンの顔があった。


「寝室に入って座って待ってようよ。今日はもう疲れただろうし、寝ちゃっても、ご飯のときには起こすから」


 明かりの届かない場所へ。

 少し強引にネルウェンに腕をつかまれて止められない。

 まっすぐ進んでいるつもりでも、足元が時々、何かにぶつかる。


 アエルは食卓部屋を振り返った。

 暗がりを切り取ったように、明かりだけが漏れている。

 太陽の沈んだ空の中で、窓だけが浮かぶ。


 結局……わからなかった。


 ヴォルフガングがどんな話をしていたのか。

 どんな人物なのか。

 何をしていたのか。


 そして。


 アエルが、何をしたかったのか。


 手がざらついた何かに当たった。

 硬くて、でもしっかりふち取られている。井戸の石だった。

 ひんやりとしていて、こもった熱を和らげる。

 アエルは大きな息を吐き出した。

 なんだか一緒に、肩の力も抜けた気がする。


「ネルウェンは……わかった?」


「うん? ごめんね……アエル。何がわからなかったのか教えてくれたら、僕も答えられると思うのだけれど……」


 アエルは闇に浮かんだ白い一房を眺めて。

 何か忘れていたものを探すように、周囲を見渡した。


 暗闇が滲んだ視界。

 星明かりが少しづつ落ちてくる。

 アエルは、何かがあった気がしてきょろっと確かめる。


 ――作業場で、背を丸めた影が動く。

 もそもそと鈍くさく、でも確かな重量感があった。


「ネルウェン、あそこに熊がいる……」


 もう何度も見たことがある、短い毛で覆われた輪郭。

 だからこそ、ネルウェンは肩を震わせた。


「ふふっ。アエルってば。こほん……熊は街の外にいるものだよアエル君。もし、君が家の中で遭遇したのなら、それはきっと熊ではなく――ジェイスキンだ」


 ちょっとかしこまった声色で、聞き慣れた返事を返してくれた。


 こちらに気づいたジェイスキンは、作業場の影から顔を覗かせる。

 首のくびれを感じさせない見事な毛量。

 肌色が見えない握られた手。

 星の明かりに照らされたのは――安心感のある、ひげだるまだった。


 ジェイスキンも、故郷で一緒に育った幼馴染だ。

 つまり、アエルと同じ、十七歳ということになる。


 くすんだ鉄色の髪から、途切れることなく繋がった口と顎のひげ。

 少し下がった眉も厚みがあり、顔の半分以上は毛で覆われている。


 被って着るように作られた大きな服に、首元に開いた切れ込み。

 そこは紐で縛っているはずなのに、胸毛が隙間から飛び出している。

 さらには、背中にも毛が生えていることを知っていた。


 アエルと比べると明らかに大きな骨格で、肩幅の広さや手首の太さに明確な違いを生んでいる。

 それでも、なんだかこじんまりして見えるのは、ちょっと丸まった背のせいだろう。

 背筋を伸ばさなければ、もしかしたらアエルの方が高いかもしれない。


 いつの間にかアエルから近づいて、話しかけてしまう、拠り所で。

 言葉の数は少ないのに、必要なことが伝わっている。


 何をしていなくても、記憶には残る。


 それは、重いわけでもなく、軽いわけでもなく。

 ただ、頼るわけでもなく、救われるわけでもない。

 こういうのも、友達なのだと思う。


 アエルは作業場の中に自然と吸い込まれた。


「ジェイスキンじゃん。もう夜だぞ。巣穴におかえり」


 夜の暗がりで見るジェイスキンは、目だけが闇に浮いてるように見える。

 その目が何度かまたたいて、くるりと周囲を見回した。


「アエルか。……どこから入ってきたんだ?」


 アエルはちらりと塀に気を向ける。

 つられて、ネルウェンも、ジェイスキンも。

 ……みんなが塀を見た。


「なんか入れちゃったんだよ。……ジェイスキンはここにいていいの? ヴォルフガングいるのに」


 なんとなくジェイスキンのひげに手が伸びていた。


「俺はいい。ああいう場面になると、クライドがいつも前に出るだろ。責任感だって本人は言ってるが、まあ……好きなんだろ、そういうの」


 ジェイスキンは嫌がることもなく、されるがままに縮れたひげを伸ばされている。

 クライドの名前で、アエルは食卓部屋の様子が気になった。

 銀髪の男の姿が脳裏によぎる。

 しかし、振り向いたらネルウェンがいて、そっと手を取られた。


「アエル。適度な距離って人によって違うから。アエルの腕の長さじゃなくて、ジェイスキンの腕の長さで接するのが丁度いいんじゃないかな」


 ジェイスキンと手の長さを比べられる。

 甲にまで毛が生えた手はアエルの肩に当たり。でもアエルの手は、大きな肩には届かない。


「俺はいい。別に困らないからな。ただ、アエル。他の人のひげをむやみに引っ張ると怒られるかもしれないぞ。それは、礼儀じゃない。目を見て、友好的に微笑んで、そうやって相手を立てて。それが大事なんだ。ちゃんと、引っ張っていいですかと聞くんだぞ」


 なんとなく、ジェイスキンの方が腕が長いと言いたいことはわかった気がする。

 けれども、アエルにはそれよりも気になることがあった。


 ……ジェイスキンより小さい手で、ろうそくの明かりが漏れる食卓部屋に指をさす。


「それで、ジェイスキンは、今どんな話ししてるのか知ってるのかよ」


 皮膚のすぐ下がぴりぴりとむず痒いような、とにかく何かを知りたかった。


「顔を合わせる前に……出ておくように言われてな。俺は見てない。まあ、あとで本人に聞けばいい……」


 ジェイスキンは耳の後ろをなぞりながら、転がった薪材に腰を下ろす。


「今知りたいんだよ。あの銀髪のおっさんが、ヴォルフガングなんだろ。――資格持ち冒険者の、偉い人なんだろ? なんで僕たちは意地悪されてるんだよ?」


 問いかけたまま、アエルは返事を待たなかった。

 トントンと靴先で、薪材の端に向かって拍子を刻む。

 ジェイスキンは座りを確かめながら腕を組んだ。


「……アエルのそういう気持ちって大切だと思う。そうだね、なんとかしないと、いけないよね。僕もそう思う。そして……きっと。クライドも同じで、だからこそ好きでやりたがってることだから、ね? ……今は譲って、ここで待ってるのが、仲間なんじゃないかな」


 藍に混じった白い一房が、風を撫でるようにふわりと揺れた。

 アエルは靴先を地面につけて、そっとネルウェンを見上げる。

 なんだか気持ちを伸ばされて、薄く平らにされるような、そんな感覚に似ていた。


「なんか。うまくいきそうになかったんだぞ。あいつが何かやらかして――怒らせたんじゃないのかよ」


 ネルウェンは手を首元に添える。


「それじゃあ、後で。クライドに……教えてあげよっか。アエルが言えば、きっとわかって貰えるから。ね」


 伸びた雑草の先をちぎると、青草の匂いがした。

 ネルウェンは小さく息を吐く。いつものように優しげで、笑っていて。


 ――それでもアエルは、まだ見られてもいなくて、証明もできていないのかもしれない。


 ちぎった草の端を捨てて、手を払った。


「じゃあ、こんどは僕がヴォルフガングに仕事をくれって頼んでくる」


 アエルの決断は早かった。

 しかし、ネルウェンはアエルの肩をしっかりと支えて歩みを止める。


「待って。……ね、アエル。ちょっとだけ……そう、作戦。作戦を考えてみない? そのまま行って、失敗したくないでしょ? アエルにとっても、僕たちにとっても、大事なことだから。ね? それにほら、窓から見た姿が、ちょっと怖そうだったし……」


 くるりと回されて、ネルウェンと目があった。

 その瞳は微かに揺れていて、それがどんな感情かがわかる。


「なんだよ。僕ならうまくできるかもしれないじゃんか。それに、あんなおっさん、怖くなんてないんだぞ!」


 アエルは強くネルウェンを見返す。

 そのとき、硬い虫の羽音が近づいてくるのが聞こえた。

 ひょいと頭を逸らして避けると、そのままネルウェンのひたいに当たり、「あたっ」と弱い声が漏れた。

 ネルウェンは咄嗟に頭を押さえ、アエルは少し屈んで抜け出そうとした。


 そこへ――毛深い手が伸びてくる。


「アエル。――探索認可免許状だ。俺たちに資格さえあれば、仕事はなんとかなるんだ。資格を貰うために銀行に行ったんだろう。カストリオ・ヴァレリから貰えなかったのか?」


 ジェイスキンに手をとられていた。

 少し昔の話をされて、アエルはまばたきの間だけ逡巡する。


「ああ。なんか、よくわからないけど駄目だった」


 アエルは堂々と言った。

 ジェイスキンから「は?」と掠れる声がこぼれて、手から力が抜ける。


「……そうか、それなら……仕方ない、か……」


 毛深い手がそのまま耳の後ろをひと撫でしたと思ったら。

 今度は逆の手で、アエルは掴まれていた。


「――礼儀だ! アエル。こういうときこそ礼儀……なんだ。クライドに、参加していいですかと、許可を取るべきなんだ」


 硬いはずの鉄色のひげが揺れる。

 アエルの身体も揺れた。


 その言葉で食卓部屋の様子を思い出し、窓からこぼれるろうそくの明かりに視線を戻す。

 すると、丁度勢いよく、扉が開かれるところだった。


「アエル! てめえ、こっちは真面目にやってるのに、覗いてやがったな!」


 飛び出して来たのは、クライドだった。


 星空の下で動く影はしなやかで。

 長く、力強く、内側に秘められたものが滲み出ている。


 アエルの身近にいたのはクライドだった。

 幼く、本当に赤ん坊の頃から隣にいる。


 雑に切られた粗い金色の髪は、耳元だけ短く整えられている。

 実用性重視で、本質をわかっているようでもあって、でもどこか曲がっていて。

 そういうやり方が、きっと本人すら気づいていない癖みたい。


 胸元が大きく開いた白い服は大きめで。

 でも履いている脚衣は長年使ってて少し小さくて。

 まるでそれこそがとわかっているように、知った風な口調を使う。


 めったに笑わず。でも愛想は悪くなく。

 口を開くより先に、目で言葉が交わせる。


 友達というものは、たぶんクライドなのかもしれない。


「クライド! ヴォルフガングはどうだったんだ。仕事は」


 大股の足音はすぐにアエルの前で止まる。

 上から押さえつけるような睨みつける視線に、星の輝きは映らない。


「その前に、お前は俺に言うことがあんだろ! カストリオ・ヴァレリはどうなったんだ!」


 空気を裂いた音だった。

 日干し煉瓦の壁からぱらりと砂が落ちる。

 アエルは思わずかかとに力を入れた。


「待って、待って、クライド。一旦声を落とそうよ。もう夜だし、ここは外だからさ。中でゆっくり話せないかな」


 クライドは、足元の雑草を思い切り踏みつける。

 土埃が吹き上がるように舞い上がった。




§




 食卓部屋の中は居心地が悪かった。

 見慣れた部屋は静まり返り、沈黙が重たく感じられる。


 ネルウェンは口を閉じたまま、少しだけ首を傾けている。

 その姿はいつもと変わらないように見えて。

 けれども、手は膝の上に乗っていて、助けてくれようとはしない。


 ジェイスキンはこの場にいるだけだった。

 腕を組み、目を閉じて、物思いにふけるように。

 何もせず、ただ待っているみたいで。


 クライドは立っていた。

 ひとりだけ座らず、卓に手を置いたまま。

 不機嫌そうに、眉を動かして。


「……だから、僕がその銀行強盗を倒したんだからな」


 自然に手が握られる。

 アエルは後ろめたいことなどないはずなのに、なぜか歯切れが悪くなった。


「おい待て、さっきお前が言ったよな。強盗が、金庫持って逃げたんじゃねえのかよ」


 張り詰めた弦を引っ張ったように声が響く。

 クライドは、木目の節にある穴を力任せに指で引っ掻いていた。


「それは本当のことなんだって。カストリオ・ヴァレリは負けたんだ」


 壁に塗られたしっくいは剥がれて、日干し煉瓦が顔を出している。

 風は乾いていて、いつの間にか食卓部屋の空気が冷えていた。


「なんでだよ! だったらお前が強盗倒したことになるわけ、意味わかんねえだろ!」


 クライドの声が大きくなる。

 あわせるように手が固く握られる。


「それも嘘じゃない! 僕はちゃんと強盗を倒したんだからな!」


 アエルは椅子の座面をぐっと握り、前に身体を起こした。

 湿った首元に髪の毛が張り付く。


「んなこたどうだっていいんだよ! 俺は、お前に……だ。アエル、いいか、探索認可免許状を貰うんだっただろ、カストリオ・ヴァレリと交渉してくるはずだったよな。な……んで強盗退治の話になってんだよ!」


 息継ぎすることもなく、クライドは言葉を吐き出した。

 まばたきひとつで言葉は流れ、けれども肩は揺れていない。

 アエルはその口が息を吸い込む前に声をあげた。


「しょうがないだろ! 銀行強盗が出たのは僕のせいじゃない! 先生も、運が悪かっただけだって言ってたんだぞ!」


 クライドは目をそらさない。

 何かを奪い合い、行きかい、力が撓む。


 そして――


「あー、くっそ! 誰だよ。先生って誰だよ!」


 クライドが爆ぜた。

 頭を抱え、雑に着られた粗い金髪をかきむしる。

 アエルはその様子に胸を張った。


「知らないおっさんだよ」


 頬に張り付いていた髪を耳にかける。


「知らないおっさんの言う事なんて、どうでもいいわ!」


 髪は手から滑り落ち、また首元をくすぐる。

 クライドは怒気をまとわせ、卓を平手で叩いていた。


「銀行に行ったのはなんのためだよ。忘れたのか? ほんとに、それ忘れて帰ってきたのかよ、お前!」


 直接、頭の奥に突き刺さるような声色。

 勝手に目が見開いて、腰が引く。


「……クライド。ちょっと、声……抑え……」


 部屋が。鉄みたいに、硬く、冷たく見えた。

 クライドも、ジェイスキンも。卓も。壁も。

 ネルウェンの声は浅くかすれていた。


「俺たちの仕事がなくなって、もう何週間経ってると思ってるんだ! 樹の皮でも食ってろっていうのかよ。お前は……なんで交渉すらしてきてねえんだ! 成功したのでもない。断られたのでもない。じゃあ、お前は何をしに行ったんだ!」


 お腹の中が重くなる。

 腰に落ちて、脚に広がり。けれど喉には届かない。


「僕だって、やろうとしたんだぞ。でも、それどころじゃなかったんだ……」


 アエルの言ってやりたいこと。

 たぶんそれは、言葉ではなかった。


「それどころじゃねえ? は? じゃあ何があるってんだよ。それ以外、これ以外に、これ以上に何があんだよ!」


 銀行強盗が現れたのは事実だった。

 そして、アエルが役目を果たせなかったのも事実だった。


「おい、アエル。お前、まさかこれで済むなんて思ってんじゃねえだろうな」


 クライドの目に力が入り、感情は止まらなかった。

 芯が揺れ、影が伸び、アエルを追い詰めるように広がっていく。


「そもそもお前の危機感が足りねえのが原因なんだ。お前は気づかないのか。自分ができてない人間だって、なんでまだわかってねえんだ」


 アエルには、なにが悪いのかがわからない。

 それでも、悪いのはクライドなのだと、思える方法を探したかった。


「どうなんだ。お前はやれるのか。やれないのか。はっきり言えよ!」


 鼻の奥が痛む。

 クライドは、いつものように声を荒げている。

 アエルにはそれが、昔から何も変わっていないように見えた。

 高い背丈でいつも見下ろして。

 自分勝手なことばかりで。

 家の近くの原っぱの上で。

 太い幹が立ち並ぶ木陰の中で。


「お前は能力が足りてない。見りゃわかんだろ。なんでそれがわからねーんだ!」


 アエルは聞いていた。

 強引でも。引っ掻き回されても。


「……いいか、お前が悪かったって、そろそろ納得できんだろ。指示した通りに動け! 俺たちの足を引っ張るな! 俺たちを破滅させるようなことはするな!」


 もう。手が震えている。

 にじみそうになる視界をめいいっぱい広げ。

 軋む椅子にしがみつき。

 引っ込みそうになる……


 でも、その言葉を――


 喉から、精一杯に引っ張り出そうとし。


 そして。


 勢いよく椅子を蹴立てて立ち上がった。


「僕は褒められて伸びるタイプなんだぞ。もっと褒めろよばかやろう!」


 アエルの声は確かに響く。

 粗い金髪をわずかに揺らし、日干し煉瓦の壁に跳ね返る。

 アエルと。クライド。

 食卓部屋にいる全員が、石張りの床に縫い止められた。


「ざーこ! お前なんてな、お前なんてな。……この、この、ふくろう野郎!」


 この叫びには勢いがあった。

 まるでそれは綿花畑の綿毛が一斉に飛び立つように。視界を圧倒的に埋め尽くし――


「……ふくろうやろう」


 ――まったく効果を及ぼさなかった。


「そうだぞ。みょうちくりんな髪型しやがって、膨らんで威張ってても、中身はこんなに細いくせに」


 クライドの小さな人間性を測るように、指をつまんでみせる。


「ぜんぜん、……うまいこと言えてねえからな」


 アエルの舌の回りほど、クライドの声は熱を帯びない。

 それでも、ぶつけたいものは山程あった。

 形にならない言葉でも、なんでもよいから、アエルはとにかく、投げる。


「うるせえ、言い訳すんな! お前、街中に、マリーちゃんの誕生日に蜂の巣取りに行ったときのこと、言いふらしてやんぞ!」


 これはただの感情の塊で。

 言葉であっても――意味はない!


「くっそどうでもいいわ! そんな昔のこと!」

「ほら、ムキになってんじゃん! 嫌なら謝れよ!」


 これは真剣勝負なのだ。


「もうガキじゃねーんだよ! 俺には仲間を、パーティを守る責任があんだよ!」


 息切れしそうな応酬は続き――


「なーにが仲間だ。ほんとはぼっちのくせに!」


 それが、ほんの僅かな間――途切れた。

 アエルは一度まばたきし、クライドは少しだけ足を引く。


「どこがぼっちだ! 仲間がいんだろ。それに、偉いやつと話すのも、街の人に頭下げんのも、俺がやってんだろ!」


 跳ね上がるようにクライドが叫ぶ。

 夜の冷えた空気を揺らし、熱気がゆらりと立ち上がる。

 まるでなにごともなかったように装われ。


 だがそれは――悪手だった。


「あー、あー。あの、ひとり言のことね。よくやるよね、ほんと」


 ころころと笑うように、人一倍高い声色が落とされた。


「ひとり言、……だと?」


 粗金の少年は動きを止める。


「ひとり言だろあんなもん。相手の言葉も聞かないで、一方的に喋ってるだけじゃんか。あ、さっきもやってたよね。壁に向かって喋ってるのかと思った」


 しかし、すでに悪魔は笑っていた。


 浜辺でヤドカリを見つけたように……

 水場の近くでアリの巣を見つけたかのように……


「てめー。聞いてなかったのか……」

「わかる。わかるよ。僕だって理解のある大人だ。想像の友達に話しかけることも、そりゃあるよ。でもさ、いい加減目を覚ませって。見てらんないよ」


 ゆらりと湯気が立ち昇る。

 桜色の頭は熱気を帯び、周囲はつばを飲み込んだ。


 もう、この部屋には満ちていた――


「ふっざけんな! ……俺が! どれだけ俺が!」

「すっげー必死じゃん。大丈夫だって。死にはしないよ。恥ずかしいだけで」


 嘲笑と。


「恥ずかしいわけ――」

「やーい。ぼっち!」


 無邪気さと。


「ふざっ! け――」

「気を使わせられるのも疲れるんだよね。一人で喋るなら寝室いけって」


 高笑いと。


「黙れ!」


 止められない。


「ほんと、誰に喋ってんのそれ。目みて話せよ。あ、ぼっちには無理かなー?」


 決まった。


 アエルは、緩みきった頬を引っ張って、少し気分を落ち着ける。

 クライドは血の気で満たされた顔を冷やすように、大きく息を吸い込んで、吐いていた。


「あー。くっそ! ……落ち着け、いつものアエルだ。ただのクソガキだ……」


 部屋に入り込んでいたヤモリが、小さな窓から逃げていく。

 アエルは口元に手を当てて、最後のトドメに入った。


「もう言い訳してんじゃん。負け犬かな? あははは、カッコ悪っ! あ、だから話が誰にも通じないのか。わかる」


 ――バンッ!


 亜麻布の白さが眼の前を埋める。


 熱気が後から追いついてくる。


 アエルは何が起きたかわからずに。

 ……頬に感じるあせじみた湿気に目を向けた。


 ――腕があった。

 袖をまくりさらされた。

 やたらと筋肉質な腕の先。


 視界を覆い尽くすほど近く。

 奥にあるはずの日干し煉瓦の面影も見えない。


 頭を引いても、冷たくざらついた感触に阻まれる。

 さっきの音が、クライドが壁を叩いた音だと気づいたのはその後だった。


 アエルの心臓が激しく動き出す。

 突き出されたときに感じた風が、今になって頬の感触を刺激する。


 鼻先が亜麻布に当たっていた。

 見上げても、クライドは、何も言わない。


 アエルはただ、目をそらした。

 その感情は言葉にはできない。

 ただ、怖かったなんて、思いたくはなかった。


「なんだよ……。はやくどけよな」


 腕をどかそうと、触ろうとして、その手が止まる。

 意味もわからずに引っ込めた。


「お前……、わかってんのか?」


 頭の上から声がする。

 わかりたくなんてなかった。 


 クライドの背はずっと高く。

 アエルの背はずっと低く。

 昔から、この差は変わらず続いていた。


 だから、アエルは負けたくなかったのだ。

 屈むように腕をくぐり抜けて。

 石張りの床に足を踊らせた。


「それで勝ったと思うなよ! ばーか、この、ばーか!」


 夜の食卓部屋に、その声は沈んだ。

 卓も、椅子も、戸棚も、いつもと何も変わりない。

 けれどもアエルの肌にはつぶが立ち、どこか周囲が色褪せて見える。


 クライドは、肩だけを回しながら、ゆっくりと振り返った。


「アエル。お前、冒険者やめろ」


 気負うでもなく、声を張るわけでもなく。

 夜の柔らかい空気の流れに乗るように。


 当たり前で、なんでもないこととして、言葉は消えていった。


 だから、わからなかったのだと、思う。

 アエルは、きっとそのはずだった。


 虫の音すら遠のく。

 星の瞬きすら聞こえそうで。


 唇が張り付いたように重かった。

 いや、アエルは口を開いたはずだった。

 でも、声は聞こえてこなかった。


 だから。

 クライドは、何も言い返されないから。

 自然な仕草で、倒れた椅子を直している。


「いいか。冒険者。やめろ」


 確かめるように、繰り返される。


 粗い金髪に、雑に切られた髪。

 クライドの目は真剣だった。

 これはいつも通りで、めったに笑わず、でも愛想は悪くなく。

 真っ直ぐで……


 ――アエルを見ていた。


「そういうのも、ありかもね」


 聞こえた声が、ネルウェンの声であるはずがなかった。


 藍色の厚い前髪に、白い一房が揺れる。

 いつも通り口元はほころんでいて。

 空気みたいに、風みたいに。


 ――アエルを押し返してくる。


「……生き方を変えるときがきたのかもな」


 ジェイスキンから、信じられない言葉が呟かれる。


 鉄色の髪とひげ。太い眉は少し下がり。

 でも困っているわけではないことを、アエルは知っている。

 重いわけでもなく、軽いわけでもなく。

 当たり前のように。


 ――クライドの言葉を、受け止めていた。


 息のしかたを忘れてしまったかもしれなかった。

 吸っているのに苦しくなる。


 今は、声を出さなくてはいけないのに。

 アエルはわかっているはずなのに。


 言いたいことが、わからなくなった。


 意地を張る意味を、忘れてしまった。


 二年間一緒に住んだ家だった。

 十七年間共に過ごした友達だった。


 そのすべてが、作り物だったようで。


 歪んでいた。


 軋んで、割れて。


 口を開けば嗚咽が出そうだった。

 余った袖を強く噛んでこらえた。


 冒険者をやめる。

 ――そうではないと、思う。


 アエルが言いたいことは、きっと違うことだった。


 友達とは、こういうもののはずで。

 でも、何かが違っていたようで。

 だから、こんな別れ方は……

 考えてもいなくて。


 どんなことがあっても一緒にいると思っていた。

 信じていたものは、そんな器みたいなものだった気がする。

 割れるなんて、想像しても、いなかった。


 アエルは、気がついたら、星空の下にいた。

 日干し煉瓦の壁のあいだ。

 隙間だらけの石畳の上を走っていた。


 できることは、何もなかった。


 アエルには、確かに力があるはずだったのに……


 新大陸の夜空は遠く果てまであり、人の生活の火が宿り始めていた。




アエル「うるせえ、言い訳すんな! お前、ブクマ・評価しないとな、街中に、はじめて井戸に水汲みに行ったときのこと、言いふらしてやんぞ!」

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