エピローグ:お前がヒロインだってわからせてやる! [ オーリの場合 ]
空の彩りが薄れはじめ、町並みがやわらかく青みがかっていた。
制服姿で帯剣した海兵たちの足音が銀行に響くようになっても。
アエルは、まだ銀行の中でくすぶっていた。
探しているのは、クラバットの男だ。
一連の騒動についてアエルにわかっていることは多くなく、商談室での詰問でも、できたことは海兵の口ひげの本数を数えることだけだった。
帳簿室のドアを開けると、目当ての人物はすぐに見つかった。
高いというより長い身長、くたりとした上着に、白いクラバット。
アエルはこの男についても、詳しくは知らない。
お互い、ただ偶然銀行に居合わせただけで、とくに知り合いでもない。
だから、呼び名にも、迷ってしまう。
「えっと……先生?」
まとっている雰囲気からも、そう呼ばれていたということからも。
なんだか馴染みのある呼び方だった。
「どうしたんだい、アエル君。何か気になることでもあったかな」
この見透かしたような雰囲気が、どうにもアエルを身構えさせた。
言葉を選ばなくてはいけない。正しいことを言わなくてはいけない。
背筋に棒を突っ込まれたような、そんな気分になる。
「え、いや。気になることっていうか……。先生って呼ばれてるけど、名前はなんていうんだよ」
先生は、「うん」と拳を顎に当ててから、口を開いた。
「僕の名前か……。そうだなあ。もともと、名前というのは、記号というか、形式に関係するものなんだけれど。個人を特定する仕組みとしては、便利なものではある、でも、本来は、それがすべてではなくてね。むしろ、関係性のなかで交わされる呼び名のほうが、本質的な意味を持っていると、僕は思ってるんだ。つまり、先生という呼び方には、立場や認識――信頼や対話までもが織り込まれているわけで……」
徐々に舌の回りが滑らかになる。
いつの間にか両手を前に出して広げ、言葉の輪郭を描くように手を動かす。
それにどんな意味があるのか、アエルにはわからない。
ただ、耐えられなかった。
「いや、そうじゃなくて、海兵が事情を聞きたいからって。でも名前知らないし」
先生は、視線をアエルに戻し、ひとつ咳払いをした。
「……え。ああ、うん。……僕が、行ってくるよ」
アエルはもう、先生がどんな人物かわかった気がした。
ギィ……ズ……ズズ……カタン。ギィ……バタン。
途端に、部屋の中に静けさが広がる。
遠くで鳴っている小さな足音や風の音が、この空間が切り離されたものだと感じさせる。
アエルは、正面に目を向けることがためらわれた。
見ることで、見られる気がして、妙なくすぐったさがあった。
ちらりと見える、黒いブーツと、空色のスカート。
なんと言ってよいのかもわからず……。
こくりと、唾を飲み込んだ。
「えっと。じゃ、じゃあ……」
足が床から離れなかった。
動くには、きっかけがどこかに必要だった。
そこへ――
きゅっと、腕が引かれた。
そのまま、足が動いた。
「えっ、待って待って。 もうちょっとお話ししようよ。あ、ほら。名前! わたしの名前は聞かないの?」
無警戒に寄せられる顔に、声が詰まった。
目に、頬に、鼻に、唇に、自然と視線が吸い寄せられる。
「べ、べつに、そんなの興味ない、っていうか、知ってても意味なんてないし」
例のリボンの子は、アエルの視線を追うようにまわりこんだ。
背を向ける隙も与えず、笑いながら顔を覗いてくる。
「えー。わたしはアエルのこと知りたいよ? ねね、年はいくつなの? わたし十七。同じくらい? あ、でも、わたしの方が背も高いし、もうちょっと下だったり?」
人懐っこいとか、距離が近いとか、そんな温度じゃなかった。
この子にとっては、もう仲良しという前提があるみたいで、アエルの名前も、当然のように呼ばれていた。
視線を向ければ、すっと入り込んでくる感じがある。
そのまま、身体の奥にまで残るようで――
でも、それはただ見てるだけで、アエルはわかってはいなかった。
だからこそ、かもしれない。
まだ、足りないと思ってしまって――
「ね、わたしの名前、聞いてよ」
勝手に口が開いた。
「オ、オーリだろ! そんなの別に、聞こえてたし。覚えようとしたわけじゃないけど、ちゃんと、呼ばれてるの聞いてただけなんだからな……」
オーリを見ていたら、なんだか気勢がそがれる。
その顔は、緩んでいて、溶けかけていて。
なんでか、釣られたみたいに、アエルの声がふっと明るくなっていた気がした。
「覚えてたんだ! そうそう、オーリだよ。ね、仲良くなれそうじゃない? ていうかもう、仲良い感じしない? ということで、さっそく、いつ行くか決めよっか」
何かに気を取られていたのかもしれない。
そんな間を縫うように、問いがふいに差し込まれた。
……そのまま、考えることなく、口が開き――
「いつ……?え、どこに?」
オーリは口を閉じるでもなく続ける。
「コーヒー・ハウスだよ? 一緒に行こって言ったじゃん、忘れてた? わたし、心配してたんだよ? というか、あんな魔法使えるなら、はやく言って欲しかったよ、もう」
コーヒー・ハウスという音が、記憶の隅に残っていた。
あのときは、ただ好き勝手言ってるように見えていた。
でも、心配してたっていうなら――そういうつもりだったのかもしれない。
……そういう考え方も、あるにはあるのかも。
ただ、あれで約束になったとは、いまでも思えない。
それに、
二人で一緒にコーヒー・ハウスに行くなんて――
やっぱりちょっと、変なことな気がする。
「そんなの、オーリが勝手に言ってただけで……」
アエルには、一緒に行ってはいけない理由がわからずに、言葉になってくれなかった。
「それはそれ、これはこれ。わたしの中では、もう一緒に行くって決めました。そういうことになったの。ね、いつがいい?」
……駄目だ、は違う。
……嫌、なわけでもなく。
アエルの口は開くが、いっこうに言葉が出てこなかった。
苦し紛れに視線を逸らすと、帳簿棚の硝子扉が目に入る。
壁が壊れるほどの爆発があったのに、硝子は砕けることも、ひび割れることもなく、アエルを映している。
薄い桜色の髪は、切る機会がないまま、ずっと伸びている。
着ている中古の白い法衣は、治癒魔法が使えるからと、幼馴染に渡されたもの。
もともとはサイズが合っていなくて、大きすぎたけれど――
繕ってもらって、どうにか形にはなっていた。
丈だけ膝上まで詰められて、足がほとんど見えていた。
袖は逆に長すぎて、手のひらが隠れるほど。
両手を少し上げれば、余りがくたんと垂れて。
身体を回すと、裾がひらひらと揺れた。
整っているわけではないその形が、誰かと違って見えるような気がして――
でも、何が違うのかは、よくわからなかった。
「あ、そうだ。アエル、ちょっとだけ手、貸して!」
貸してと言いながら、オーリはアエルの手をそっと取った。
「は? 手?」
……違うと思ったけど。
言い切るほどじゃない気がして、なんとなく、そのまま手を差し出した。
「うん。儀式の時間です。――親交の証、ってことで! 友達になってくれない?」
オーリは両手で握ったまま、手を何度か横に振った。
ぎゅっと指が絡んで――離してくれなかった。
その手に、力があったわけじゃないけれど、
どこか熱が滲んでいた気がした。
「う、ま、まあ。友達くらいなら、べつになってやっても、いいけどさ」
なんとなく、手が離せなかった。
親交の証とか、友達の儀式とか――
そういうものなら、手をつなぐのも、べつに変じゃないかもしれない。
仲良くすること自体に、特に問題があるわけでもない。
無理に振りほどいたら、友達を拒む感じになるし、さすがに、それは悪い気もする。
だから――
しょうがないし、自然な流れだし。
そのまま、手を握っていてあげる――
――オーリは案外に、すぐに手を離した。
「わたし、冒険者なんだけどさ。先生と一緒にぐるぐる旅してて、この街も今日がほぼ初めてなの! でね、この街で誰かとちゃんと喋ったの、アエルが最初なの! だからもう、なんかすごく嬉しくって!」
オーリの調子は変わっていない。
さっきまでと同じ様子で、笑っていて、喋っていて、距離も近かった。
それなのに、アエルの焦点の中でだけ、その同じが、さっきとは少し違うように感じられた。
「あれ?」
でも、こういうものであって――
「しかもさ、こんな可愛い女の子と友達になれちゃうなんて、すごくない!? もうこの街、わたし、ちょっと好きかも!」
肩が跳ねた。
――でも。
それが、どの言葉に感じたものなのか。
アエルはそっと目をつむり、言われた言葉を咀嚼して――
「か、可愛い……女の子?」
違和感の正体に目を見開いた。
それはいったい、誰のことを言っているのだろうか。
急に言葉がすれ違った気がして……
「うん、アエルってほんと可愛いよね。髪とか、なんか、これが女の子って感じかな? あー、なでたくなっちゃうけど……ちょっとだけいい?」
頭が勝手に前に出そうになって止めた。
――男なのだ。
アエルは、間違いなく男なのだ。
自分に言い聞かせるように首を振って、いつものように口を開けた。
「だ、だめ。そんなの、駄目なんだからな!」
止めたのに伸ばされた手を掴んだ。
柔らかさと滑らかさに、慌てて手を離す。
「ええ? 友達なんだから、少しだけだから、いいでしょ?」
そうだった。
アエルは友達になったのだった。
「そ、そうだぞ。友達なんだからな」
だから、こういうことも、普通のことで――
「友達だよ?」
オーリの楽しそうな顔が、コトンと傾げられる。
ともだち。そう言った唇の動きが目に焼き付く。
「ば、ばーか! ただの友達なんだからな! こんなの、普通なんだからな!」
アエルの鼓動ははやくなるばかりであった。
§
ドアを開けると、この部屋で話をする予定がなかった人物が待っていた。
「これはこれは、ヴァレリ氏。強盗騒ぎの後始末で、お忙しいのではと思っていましたが……まさか、聴取の場にまでお越しいただけるとは。いやはや、予想外でしたよ」
歓迎のように手を広げると、銀行主は椅子の上で一瞥し、小さく鼻を鳴らす。
それから、ゆっくりと座り直し、中指の指輪を軽く回すと、口を開いた。
「ふん、お前の聴取はいい」
銀行主はそう言って、一枚の紙を机へと放る。
そして、その書類の一段に、指を静かに置いた。
「儂が聞きたいのは事実だ。……この書類が示している通り、貴様は冒険者――それも、有資格とある」
視線が書類の紙面に落ち着く。
銀行主の指は、たしかに資格提供者の名前が記載されている箇所へ向けられていた。
顎に手を当て、つま先で床を叩き、思考の中で言葉を転がす。
そして、銀行主の顔を見た。
「ええ、確かに私は有資格の冒険者です。……ただ、それは。――そうですね、私は、積極的に新大陸を探索しているというよりも、いわば、活動のための身分証として活用している。といったほうが、より近いでしょうか。実際、冒険者というのは、制度という点で見ると、かなり曖昧で、いくつかの解釈の仕方が存在する。たとえば――」
銀行主はこめかみを押さえたまま、指先が小さく震えている。
それでも耐えられなくなったのか、大きく手を叩いた。
「いい、いい! それ以上は要らん!」
空気を振り払うような仕草――
「それは、ちょっと残念ですね」
――しかし、それも慣れたものであり、肩を竦めるようにして、主導権を譲った。
「それで――」
銀行主の動きが止まり、視線は書類へ向いた。
「先生と……呼んでいただければ」
ゆっくりと顔がこちらに向く。物言わぬ気配が目の圧に含まれていた。
「……正気で言っておるのか」
手を胸に添えて、敬意を表しても、銀行主は目を細めるばかりだ。
「ええ、これはですね……職位なんです。いわば、牧師と同じようなものですよ。ですから、先生と呼ばれても、それは敬称というより、役割を示す呼び方――そういうことなのです」
視線だけが交わる無言の会話。
少しだけ顎を引いて合図とすると、銀行主は息を吐きながら小さく顔を振る。
そのまま、どちらが折れることもなく、銀行主が口を開いた。
「はん、気に食わん。お前は……まあよい。問題は強盗だ。奴らを追えるか」
言葉に圧はあるが、命令には足りない。
いわば、飾り気のない、ただの要請だった。
「ええ、そうでしょう。……お気持ちはよくわかります。――ですが、それは道理が通らないのでは?」
銀行主の拳が少し振られ、机に置かれた。
動きは言葉を遮るほどではなく、会話の流れに留まっていた。
「だから儂は、こうして直接、頼みに来た」
肉のついた指が握られ、より一層膨れて見える。
目に映っているものは、どうやらこの小さな部屋をすり抜けて、遠くの何かを見据えている。
軽く息を吐き出して、腹に力を入れた。
「はあ。よく勘違いされますが、冒険者は便利屋ではありませんよ。ましてや私は有資格の冒険者だ。目的があって、仕事があって、契約がある。ヴァレリ氏こそ、あなたは著名で、実力があって、立派な方だ。他人の持ち物に手を出さずに、誰かに資格を発行してあげればいい。たとえば――」
来たばかりの街で知り合いは限られている。
ただひとりの思い浮かぶ顔に、表情がごくわずかに緩んだ。
「アエル・ホーミス。彼女の魔法は一級品だ。あの子と契約すればよかった」
銀行主の肩に力が入り、背筋がわずかに張る。
返答の気配は、口が開くよりも先に、表情の端に現れている。
言葉はすぐに返された。
「あんな小娘など誰が――!」
腰が半ばまで上がったところで、手が膝を掴む。
それきり、身体が沈黙した。
大きく空気を揺らす吐息が聞こえる。しかし指先はまだ食い込んでいる。
「……いいか、お前はわかっておらん。あの娘は、――他人のものだ」
その声は大きくはなかった。
「聖女アエルですか」
名前を告げたところで、銀行主の片眉が上がり、頬の筋が引きつった。
「やはり知っておったか。……よくもぬけぬけと、あんなことを口にしたものだ。だが違う――それではない」
否定の言葉だけ残し、身じろぎひとつしないまま、大きく息を吐き出した。
口を開くこともなく、視線も交わらず、お互いに呼吸音を聴き続ける。
銀行主は、都市の思惑を動かすひとりでもあり、都市の思惑に踊らされるひとりにも見える。
ひとまず、何かを探すことをやめて、つま先に力を入れた。
「なるほど、そうでしたか。まあ、それでは、残念ですが、ご縁がなかったということで」
開けた扉から流れ込んできた空気は、新鮮なものだった。
この部屋の空気も、簡単に洗い流してしまうのだろう。
「ああ、そうそう。しばらくこの街でお世話になります。どうにも、忙しくなりそうなので。どうぞ、よしなに」
アエル「ば、ばーか! ただの友達なんだからな! ブクマ・評価なんて、普通なんだからな!」




