僕の命が惜しければ、金庫の鍵を開けやがれ!③
「僕としてはね……こういう時ほど、正しいとか間違ってるとかじゃなくてさ。そもそもこの強盗が、何がしたかったのか。どうしてこんなことになったのか……そういう話をしてみたいんだよ」
クラバットの男は、目元に笑いじわを寄せ、どこか芝居がかった口調でそう言った。
わざとらしいというより、わかっている者の余裕が滲む喋り方だった。
まるで、すでに答えを知っている先生が、生徒の動きを楽しんでいるような。
「目的なんて金貨しかないじゃん」
もったいぶった言いぶりに割り込むように、アエルは口を挟んだ。
そもそも、悩むことではない。
クラバットの男は目を細め、唇の端をほんの少し吊り上げた。
ゆったりと手を掲げ、その先にいたアエルを示す。まるで品評会の出品物でも紹介するかのように。
「そうだね。金貨だ。——たしかに、強盗たちは金貨を奪うためにこの銀行に押し入った。それ自体は、誰がどう見ても否定しようのない事実だろう。……ただ、だとしたらなんだけど、君のあれ……いや、あれはちょっと、すごかった。魔法、で合ってるのかな? 教会での治癒魔法っていうのはよく耳にするけれど、あんなふうに一息で傷を塞いでしまうのは……正直、そう何度も見られるものじゃないと思うんだよね」
身振りに釣られて、いくつかの視線が集まる。
アエルは小さくうなずきかけて、それを途中でやめた。
「……べ、べつに。そんなの、どうだっていいじゃんよ」
クラバットの男は、指をひとつ振ってから、ふわりと笑った。
「いやあ……あれは、十分に称賛に値する魔法だと思うよ。そうそう見られるものじゃない。新大陸の広さを思えば、いろんな魔法があるものだと分かってるつもりだったけど――うん、君の魔法は、そう簡単に巡り合えるもんじゃないね。アエル・ホーミス君、だったか。いやはや、僕の耳も目もだいぶ鈍っていたようだ。こんな逸材を見落としていたとは……まったく、面目ない」
口を開いたが、何を言えばいいのかわからずに、閉じかける。
「……そ、そんなの、当たり前だろ。言われなくてもわかってるし。……ま、べつに……悪い気はしないけどさ。でもな、いまさらだかんな!」
手近にあった帳簿の角を撫でながら、クラバットの男は続けた。
「うん、そうなんだ。いまさら、なんだよね。君ほどの魔法なら、もうとっくに知られていておかしくない……いや、むしろ知られていない方が、おかしいってもんだ。さて――ヴァレリ氏。あなたは、たしかアエル・ホーミス君と面会の予定だったとか。……となれば、あの魔法のことも、まあ、当然ご存じだったのではないかな?」
「ふん……名だけは耳にしたことがあるな。大した価値とは思わんが、どうやらこの街では、それなりに知られてはいる」
思いのほか長く言葉が途切れる。
クラバットの男は、カストリオ・ヴァレリを一瞥して、また口を開いた。
「そう、それなんだよ。つまり……刺されても死なない、どうとでもなる人物というのは、そもそも人質としては難しかった、ということになる。ヴァレリ氏も、もちろん人質をおもんぱかるだけの情はお持ちだったろうけど……残念ながら、アエル・ホーミス君相手では、その危機感を育てることができなかった」
視線だけをアエルに向けてまた続ける。
「それに――アエル・ホーミス君も、まるで人質っていう自覚がなかったんじゃないかな。いつもの調子を、そのまま通してしまったかもしれない。……結局のところ、これはお互いの思い違いだった。どちらが悪かったというより、不幸な、行き違いさ」
まさに、大人の言い分だった。
ただ、口を開く前に、少しだけ視線を落とす。
「なんか、うまくまとめた風だけどさ。僕は騙されないからな! つまりそれ、僕は強盗じゃないってことだろ! やっぱりじじいの妄想だったじゃん!」
「ふふ、それをそう言うなら、まあ……結果的には、ね。ただ、そのあたりの整理は後回しでも、大丈夫そうだ。ちょっとだけ、僕の話を聞いてくれるかな」
数秒遅れて、アエルは喉の奥に何かが詰まる感覚を覚える。
出てきたのはどこにも引っかからない咳払いだった。
「っんだよもー。はやくしろよ」
「うん。君は本当に、辛抱強いねえ」
アエルは前髪を払った。
「……うっせー」
クラバットの男は、眉尻を少しだけ下げると、小さく音が出るように手を重ねた。
「じゃあ……君の番、かな。話を聞かせてもらっても?」
ゆっくりと体の向きを変えた先には、拘束された強盗がいる。
強盗は歩み寄るクラバットの男を、少し怯えの混じった目で見上げた。
「……なんだよ」
クラバットの男は、じっくり観察するように、強盗の身なりや足元に意識を向けた。
「さて、この強盗の件だけどね。君にとっては――やっぱり、金貨を手に入れるのが、目的だったのかな?」
強盗の目が逃げた。
「当たり前だろ」
「それにしては、ひとつだけ気になることがあるんだ。君たちは、たしかにマスケット銃は持っていた。けれど、どうしても足りないものがあってね」
わざとらしく、抑揚を刻んでゆっくりと話す。
「……金貨は、どうやって運ぶつもりだったのかな?」
パサリと、帳簿の山が崩れた。
「なに言ってるんだ」
アエルは首をかしげた。金貨なら、そのまま運べばいい。それだけのはずだった。
「残念ながら、これは銀貨だけれど。ほら、形がいびつなぶん、けっこうかさばるし——量があると、ガチャガチャと音もする。それに……革袋に入れておかないと、角が擦れて、あっという間に破れてしまうんだ。運ぶには、あらかじめ入れ物を用意しておかないと、無理があると思うんだよ」
クラバットの男は、腰に吊り下げた革袋から銀貨を取り出して、掲げてみせた。
眉を寄せていると、例のリボンの子が、アエルに銀貨を差し出す。
手の中に銀貨が収まる。それだけなのに、指先よりも目のほうが忙しくて、つい視線を外してしまった。
銀貨の縁は確かに歪で、ざらざらとして、指がそもそも滑らない。
麻の袋では、きっと簡単に破れてしまうのだろう。
「そんなの、この銀行にあるものを使えばいいじゃねーか」
「うん、それも一理ある。この銀行にあるものを使えば――まあ、工夫次第では、運べなくもない……かもしれない。ただね、忘れちゃいけない。ここは銀行であって、両替商じゃあないんだ」
クラバットの男は、腰に吊るした革袋をポンと手にのせた。
「もしかしたら君は、両替商で手に収まる袋に入った銅貨を受け取ったことしかないかもしれないけれど、銀行というのはね、そんな小さな額を扱う場所じゃあないんだよ。人が手で持てる程度の金貨を入れる、こんな小ぶりな袋なんて……そもそも、最初から必要がない場所なんだ」
多くの視線が、クラバットの男から強盗に移った。
すっげーまばたきするじゃん。
「つーと?」
口を閉じずに喋ったような、間の抜けた声だった。
「銀行には、金貨を持ち運ぶための袋は、置いていないんだ」
クラバットの男は、肩をすくめて言った。
「……強盗、破綻してんじゃん」
突然。アエルは眼の前に現れた手に、思わず身構える。
とくに敵意もなく、指をまっすぐに揃えて、アエルを示しているだけだった。
「そう、それなんだ。破綻している――構造そのものが、ね」
クラバットの男は、やっと本題に入ったと言わんばかりに、舌を回し始める。
「つまり、これは計画的な犯行とは呼べない。あれこれ思いついたままに動いて、そのたび少しずつ何かが噛み合わなくなっていった。気づけば誰もが、少しずつ運が悪かった。――そんな感じじゃないかな」
言い終えて、そっと片手の甲を反対の掌で包みこんだ。
そして、小さくトントンと、重ねた。
「あれ……てことは、先生、そのマスケット銃――どうやって手に入れたの?」
声の調子を合わせるでもなく、例のリボンの子が尋ねた。
「そうなんだよ、オーリ。君は良いところに気づいたね。さすがというか……いやあ、ほんとうに鋭い。そう、まさにそこだよ。この強盗の一番の謎は、どうしてこれだけのマスケット銃を揃えられたのかってところなんだ。これはね、実に興味深い――」
クラバットの男の言い回しに付き合いきれず、正面から尋ねてみた。
「……なあ、マスケット銃ってどうしたんだ?」
アエルは、仏頂面だった強盗の髭に手を伸ばし、何の前触れもなく、くい、と摘んだ。
「遊ぶな! ったく、貰ったんだよ」
顔をそむけて振りほどきながら、強盗は言った。
「そんなすぐに貰えるもんなの?」
「んなわけねーだろ。変なやつに貰ったんだよ。褐色肌で、メガネをかけてて、学者みたいな格好の男に」
アエルは、むっ、と眉根を寄せて反芻する。
「褐色肌……」
どうにも今聞いてはいけなかった響きな気がして、妙なざわめきが残る。
空気が重い。……そんな微かな違和感だけで――
「一番可能性があるとしたら、そうだね――」
声の調子が変わった。アエルは、言葉の先を確かめるように、クラバットの男を見た。
「陽動。つまりは、本命が――」
貫くような高い音。
軋むような低い音。
――そして、空気が割れた。
アエルは、そうとしか思えなかった。
跳ね上がる反射で目が見開き、何が起きたかわかる前に、両手が頭を抱え込む。
ほんの半歩先を、礫が勢いよく走り抜け、しっくいが塗られた壁に突き刺さる。
白く塗られた木片が、煉瓦色の石片が、群れ飛ぶ黒い鳥のように乱雑に行き交う。
雄叫びのような低い異音が響き渡る。
まるでその雄叫びが身体を手に入れたように、右に左に風が吹く。
視界の端が白く光っていた。
いつの間にか、帳簿室の壁に穴が空いていた。
穴と呼んでよいのかもわからない。
幼い子が壁に扉の絵を書いたように、縁取られたように穴が空いていた。
そこから光が吹き出していて――
一面の壁が、膨らんだ。そうとしか言えなかった。
ひび割れ、隙間から光が漏れ、噴き出すように粉が舞い散る。
そして、肌が焼けるような熱気が、顔の表面だけを突き抜ける。
誰も動けていない。
なにが起きたか、わかった人なんて、たぶん、いなかった。
――ガタン。
冗談のように、くり抜かれた壁が床に落ちた。
アエルには、 この出来事がどうにも、うまく言葉にできない。
たぶん――
「――爆発、……した?」
少しだけ、周囲が色を取り戻した。
そこに――
「――おいおいおい、イザル――、これはちょっち、やり過ぎっちゅーもんじゃねーの」
無遠慮で軽薄な声が、異常に包まれた銀行内に降り立った。
「壁だけ吹きとばせ――たしか、それが今回のご注文でしたよね。カノープス。ご覧の通り、壁だけが壊れてます。これ以上ないくらい、見事に。……それに、私はどの壁かまでは、指定されてませんから」
やけに冷静で、けれども粘つくような感触の声がそれに返す。
「向こうの部屋まで丸見えじゃねーかよ。……わかってねぇなあ、美学ってのはな、必要最小限でキメる――それが、冴えたやり方ってやつだろうが」
「美学をわかってないのは、むしろあなたではないですか。まとめて吹き飛ばす。これが一番美しいというのに」
まるで、じゃれ合っているような雑談で。
好奇心か、正義感か、自分でも説明できない感情に揺り動かされて。アエルは一歩を踏み出した。
ひび割れた帳簿室のしっくいの壁を横目に、開いた大きな穴に手をかけた。まだ少しだけ熱が残っている。
――たぶん、金庫室。そんな気がする。
覗き込むと、そこには――
「おいおい、プロ意識ちゅーもんを持てっての。行きずりの女とか、そのへんの安宿じゃ、構えが足りねぇんだ。結果を求めるんじゃねぇ、言わば、体験そのものを味合わせる――だろ? 高価な絨毯、柔らかな寝具、ろうそくから漂う香りまで――その瞬間、ぜんぶのラインが、……震えるくらい美しく収まる。それが、様式ってやつさ」
金庫があった。
銀行の最奥で、眠るように守られていたはずの――
黒くて、分厚い金属の塊。
大人が両手を広げたくらいの大きさで、壁から、きれいに切り離されていた。
今は、風に晒されている。
壁に空いた穴は、まるで帳簿室のそれを影写しにしたみたいに、ぴったりと重なっている。
――なのに、金庫室の中は、ほとんど壊れていない。
椅子が倒れ、紙が舞っているくらい。
それだけなのに、あの金庫は……
はっきりと、ひしゃげていた。
扉が歪んでいて、ほんのすこし、隙間を開いて。
そして、男が二人。
――風が抜けた向こうに、立っていた。
病弱そうな細さ。頬が青白くて、そのぶん、目の下のくまがやけに浮いて見えた。
髪は灰を混ぜたような緑。ぼさぼさで、まとまりはない。
でも、前髪の隙間からのぞいた目だけは――どこか、変に光っている。
背は高い。でも猫背。
全体としては細くて、服もそれに合っていて。……なのに、なぜか。
立ち方に変な完成がある。きれいに整ってはいない。なのに――様になってる。
そういう種類の、整い方だった。
もう一人は、見ただけでわかった。
金髪に、褐色の肌。……それだけで、少し、ぞわっとする。
髪は短く整っている。活発というより、合理的というべきか。
かけていた眼鏡のせいか、なんとなく、神経質そうにも見える。
身体は、どこかむくれている感じ。でも太ってるわけでもない。
ただ、厚い。そういう風に、詰まっているような。
見た目はおとなしいのに、なんというか――中に熱を、溜め込んでる感じがする。
ぜんぶ静かなのに、でも全体がうっすら膨張してる気がする、そんな男だった。
「能無し共が! ……今何してるかわかってんのか? 見てみろ、クソガキが一匹いるじゃねえかよ! ボケが! ぼーっと突っ立って見てんぞ。 いい加減にしろよ、道端のゲロみてぇな動きしやがって。とっとと終わらせろ、クソが! クソが!」
この男が現れた。それだけで、空気が、ぴんと張った。
目を合わせてはいけない。……そういう種類の人間。
本能で、そう思ってしまった。
頭は、すっかり剃り上げられている。
後頭部の輪郭がむき出しで、だけど首が太すぎて、どこまでが頭で、どこからが首なのか、境目が、わからなかった。
うねるような線が、刺青として頭にまで伸びている。
まるで人のかたちと、獣のかたちのあいだを、塗りつぶすような線。
でも――何より異様だったのは、その男の着ているものだ。
ゆったりしているはずの法衣。けれど、肩と胸に押し上げられて、輪郭が出てしまっている。
聖印。首元に車輪の意匠の、信仰の証。
どう見ても。
この人間は、暴力だった。
暴力でできている。暴力をまとっている。
それなのに、法衣を着ていて。
……そんな矛盾が、目の前に立っていた。
「はいはい、アクルックス。血の温度、ひとまず下げとこうや。……こっちはもう仕上がるぜ? さ、幕引きは派手にキメよーじゃねぇの。」
湿気を帯びた風が、ふわりと鼻を抜けた。……海の匂いがする。
この男たちは――強盗、なんだろう。
言葉の端や、物の動かし方。……それで、だいたい、わかった。
壁の穴の向こうに、小さな荷馬車が止まっている。
街で見たことはないが、鉱山用のものだろう。
アエルでも持ち上げられそうな、小ぶりの荷台に、不釣り合いなほど大きな車輪。
御者席には、あの剃り上げた頭の男がいた。
あれだけ怒鳴られたのに――
ふたりは、どこか、のんびりとしている。
「……っ、金髪に……褐色。さっきの爆発は貴様の仕業か! よりにもよって発火魔法なんぞ使いおって……」
カストリオ・ヴァレリの怒気に、アエルは思わず一歩、押されるように足を寄せていた。
「……冗談でしょう。あれは、私の火薬と魔法を融合させた精密な設計物です。ただの発火魔法と並べられては困りますね」
言い終えた褐色肌の男と、目があった気がした。
けれど、それも一瞬で――彼は、金庫のそばにしゃがみ込み、床に何かの線を落としていく。
「待て、貴様ら。 これはなんだ。止まれ! 儂の金庫だぞ。おい、何のつもりだ!」
荒々しい声に混じって、間の抜けた音がチャキチャキ鳴っていた。
灰緑の髪の男が、拾った秤を指ではじいている。
まるで、誰の声も届いてないみたいに。
……顔を上げて。視線が集まってることくらい、わかってるはずなのに。
表情はなかった。
……と、思った次の瞬間。
まるで、別の人間みたいに、破顔してみせた。
「やあやあ、どうもね。ほら、……見てのとおり、お仕事中っちゅーか。ほら、これが俺たちの家業でさ。また近い内に世話になるから、まあ、覚えといてくれよな」
言葉の調子は、軽かった。
でも、不穏さと異様さが一緒にあって、どこか、響きは重たかった。
――タンッと、軽い音が弾けた。
青いスカートが揺れて。長い金髪が、風を裂いて走る。
……と、
壁に空いた穴の向こう――
乾いた音が、抜けていった。
アエルは、跳ねた肩を、息を深く吐いて落ち着かせる。
気づけば、褐色の男が、マスケット銃を構えていた。
銃口の先に、白煙がふらふらと、立っていた。
「近いよ、近い。さすがにその距離はちょっと卑怯ってやつでしょ。……ま、避けるけど」
撃ったあとも――
あの男は、まるで何もなかったように、話していた。
「ああ、そうそう――前座たちはずいぶん粘ってくれたみたいで。おかげで、こっちはスムーズに仕込みができた。……この演目を作り上げたのは、俺たちだけの力じゃないんだと実感するよ。ほんと、感謝、感謝」
無遠慮に喉を触られたような嫌悪感が突き抜けた。
そのまま、既に痛みもないはずなのに、刺された箇所が疼くように熱くなる。
気づけば、声が出ていた。
「カマキリ野郎! うるさいぞ。このっ、カマキリ野郎! お前の美学は共食いなんだろ。ざーこ!」
喉から確かに熱は出た。
「なんだこいつ。一言で台無しにしてくれちゃってんの。お前すげーな。ぶっ殺してー」
空気に響いた感触は、あった、気がした。
でも――
返ってきた声は、今度は、やけに冷たかった。
……その声で、身体の震えも止まる。
あの男の顔が、変わっていた。
軽薄な皮膚の下で、何かが引っ込んで、
感情が、すべてが――抜け落ちた。
何かが、空気を切った音がした。
身を捩ると、足元に、ナイフ。
腕が痺れたと思った瞬間には、
同じ黒い刃が刺さっていた。
それを確かに見たはずが、影みたいに、溶けて消えた。
アエルは、血が垂れる前にひと撫でする。
断面の存在を否定するように緑光が傷口を埋め尽くし、そして元の肌に戻っていく。
傷の心配は必要ない。
――けど。
この感触は、好きになれないのだ。
「痛いのは痛いんだぞ! 刃物は人に向けちゃいけません。そんくらい知っとけよな!」
その間、あの男は息をしていなかった。
「っはは……すっげ、今の。……それ、魔法か? マジかよ」
距離が、すうっと詰まった気がした。
目が合うだけで、何かが胸の奥まで入り込んでくるようだった。
……と、割って入るように、ポンッと音がする。
革袋が、ふわりと宙を描いて、あの男の手に収まっていた。
「カノープス。そのあたりで止めておかないと、アクルックスに鼻の骨を折られますよ」
灰緑の髪の男は、肩の力を抜いて、すっと表情を崩した。
「いいだろ。……こういうのが、様式ってやつさ。正義の連中はさ、ギリギリでどうにもできない。なにも届かない。で、俺たちは、余裕たっぷりに――静かに立ち去る。……焼けつくような視線、うめきにもなれない声、崩れない構図。緊張と緩和が、きっちり噛み合ったまま――……たまらなく、いい……。……美しい、んだよな。こういうの」
なにかを見させられているのに、目を背けることができない。
これは、光に照らされた誰かじゃない。
舞台にぽっかり空いた、穴そのものみたいだった。
「……馬鹿め! 馬車なんぞでその金庫が運べるわけがなかろう。しっかり床に固定されておるわ」
目をふらつかせ、何かが抜けたようになっても、この男から見えない底は消えていない。
「――ふは。うん、ありが……。ご説明どーも」
そのままくるりと背を向けて、手をひらひらと振った。
褐色肌の男が、縁取るように描かれた黒い線を、かかとで叩いた。
バシュン。
腰ほどまでの赤黒い火柱が線に沿って立ち上がり、金庫の周りをインクをはこぶように滑めていく。
風もなく、燃え広がることもなく、ただ、勢いだけがそこにある。
そして。
――メリ……バシッ……ドゥン……ッ!
白い煙と埃が立ち上がる中、金庫が、一段、落ちた。
「ゴミ虫ども! 行くぞ!」
剃り上げた頭の男が声をあげる。
短い掛け声が終わる前に、灰緑の髪の男も、褐色肌の男も、金庫の上に飛び乗った。
「神よ。クソみたいに金貨の山を貯め込んだ、幸運だけで生きてる口ばかりのウジ虫どもから、どうか我らにお恵みを」
それが祈りだと気づいたのは、最後の一節を聞いてからだった。
馬鹿げた言葉のはずなのに、
――まるで、何かに届いたように、馬がいなないた。
ズグッ……ゴゴ……バゴン! ゴン……! ギシ……ッ
金庫が跳ね、鉄の塊が地面を滑りはじめる。
振り落とされることもなく、二人は乗ったまま、そのまま前へ。
遠ざかるあの男が、口に手をあてて、声を響かせた。
「ヨーホロー!」
陽気に手を振る姿が、すこしずつ遠くなる。
石畳に弾かれて、金庫がぎこちなく滑っていた。
路面には、ぽつり、ぽつりと、金色のものが散っていく。
それに気づいた誰かが、息をのんで駆け出した。
次いで、もう一人。
道の上は、すぐに人で埋まってしまう。
強盗たちの姿は見えなくなり、ただ、遠くで床板の擦れる音だけが――まだ、耳に残っていた。
マスケット銃の発砲音も、もう掠れるほどの響きしかなかった。
「なにをしているッ! 追え! なにを……このっ見送るな! 追えと言っておるッ!」
カストリオ・ヴァレリの叫びは、誰にも届かず、空気に沈んでいった。
アエルは崩れた煉瓦のかけらをひとつ拾って、ぽいと外へ投げ捨てる。
からりと音を立てながら、瓦礫の山を転がり落ちた。
このまま帰れるのだろう。
結局なんだったのか飲み込みきれてはいなかったが、間違っている気はしなかった。
アエルは強盗ではない。
それだけは、もう誰にも否定されない気がした。
自分の手を見つめてみる。
小さな手だった。
この手は、何をしたのだろうか。できたのだろうか。
アエルは、冒険者だったのだろうか。
どこにも向かわないままの疼きが、胸の奥に、くすぶっている気がした。
頭の上に影が差す。
見上げると、クラバットの男がいつもと変わらぬ調子でアエルの横に立ち、壁に空いた穴をのぞき込んだ。
「いやあ、これはまいった。一本とられちゃったなあ」
飄々とした態度はまったく悔しそうではなかった。
また空気読めてないじゃん。
「そんなことで済むはずが……くそ……。どうすれば……取り返すしかないぞ……くそ……」
態度が気に入らないから噛みついた。
いや、噛みつこうとした。
でも、そんな元気はもうなかった。
そんな感じだった。
アエルはそんなカストリオ・ヴァレリの姿を見ていたら、言われた言葉を思い出した。
「……ほとんどないって言ってた気がするけど、金貨入ってたじゃん」
クラバットの男はなぜか嬉しそうに頷いてから、口を開いた。
「多少は入ってたのかもね。ただ、アエル君。これはね、盗まれた金貨の量の問題じゃなくて、金貨を盗られたって事実が問題なんだよ」
長くなりそうな話に多少うんざりしながらも、首を傾けて先を促す。
「この銀行はね、本土に送る金貨の集積地になってたんだ。……本土の、王家からね、ここなら安心だってことで預けられてた。でも、一度でも金庫ごと盗まれた銀行のことを――もう一度、同じように信用できると思う?」
もう金貨は集まらないのだろう。
その先のことは、だいたいわかった。
アエルは、カストリオ・ヴァレリを改めて見る。
鮮やかな色彩の服に、膨れた身体。
……それが、勝利の証だったのかもしれない。
でも、今は、床に崩れて頭を抱えている。
――カストリオ・ヴァレリは、負けたのだ。
なんだか、それで腑に落ちた気がした。
アエルはこの場にいたけれど。
きっと、アエルはこの場に立っていなかったのだ。
クラバットの男に目を移すと、もう崩れた壁の穴には興味がないと言わんばかりに、例のリボンの子と話している。
例のリボンの子も、崩れた煉瓦に気を止めるでもなく、アエルに手を振ってきた。
カストリオ・ヴァレリに意識を戻した。
アエルにできることは明白だった。
好きか嫌いかでいえば、嫌いな男だ。
でも、幼馴染から、礼儀を尽くすことの大切さを教え込まれてきたのだ。
戦いの前の儀礼。
戦いの終わりの儀礼。
アエルはなるべく優しくなるように、カストリオ・ヴァレリの肩を叩いた。
「なあ」
泣いてはいないようだが、目が半分閉じていた。
「今度はなんだ」
会ったときには表情がなかった顔には、嫌悪がはっきりと浮かんでいる。
でも。
もう。
アエルは、そんな小さなことを気にしなくてもよくなっていた。
だから。
口角をめいいっぱい上げて、心をこめてこう言った。
「ざまあ!」
アエル「ブクマ・評価ができないからって、そんな顔するなよ。大丈夫だって、ナメクジだって生きてるんだ」




