僕の命が惜しければ、金庫の鍵を開けやがれ!②
「いやあ……ははは、僕もね、こういう類の事件は初めてなもので。ちょっと待った甲斐がありましたよ――いや、ほんとに。なかなか、珍しい経験をさせてもらってます。ええ、ええ。まったく。さて、どうでしょう、ここはひとつ……穏便に。ええ、いや本当に。まったく、その通りだ」
クラバットを巻いた男は、まるで思想家たちが集うコーヒー・ハウスで、椅子に支柱を傾けたまま談笑しているように、くつろいだ調子でカストリオ・ヴァレリに相槌を打っていた。
その身振りだけが、今この場の呼吸とは別の場所にあるようで。
つまり、空気が読めていなかった。
「なあ」
「なんだよ、気安く呼ぶなよ」
アエルはもう、強盗相手でも遠慮する気なんてなかった。
友達扱いともいえる。
「あれ誰?」
アエルが顎で指し示した先には、クラバットの男。
と呼ぶと、どこかかしこまったように聞こえるが、身なりは妙にくたびれている。
上着にはくったりとしたよれがあり、黒檀色の髪も耳までくせ毛が伸び、ところどころ跳ねている。
それでも妙に場の中心にいるのは、話すたびに肩が揺れ、手が動き、声に笑いの響きが混じるからだ。
ちぐはぐで、軽薄で、でもなぜだか近寄りがたいとは思えないような。
ひとことで言えば、アエルにとっては、とても。
おじさんである。
「知らねえ。お前の友達じゃねーのか」
もちろんアエルにおじさんの友達はいない。
仕事で話をすることもあるが、そういう相手はだいたい覚えている。
たぶん。
「あの子も可愛いじゃねーか」
言われてはじめて、強盗があのクラバットの男と一緒にいた女の子のことを言っているのだと気付いた。
たしかに、友達でもおかしくないくらいの年の子だった。
身長も――は、きっとアエルの方が高いだろう。
長くて蜂蜜みたいな金髪を、空色のリボンでゆるく結んでいる。布先がぴょんと跳ねて、まるでうさぎの耳みたいだった。
そのリボンとおそろいの、膝上丈の空色のスカート。
年頃の女の子、という言葉が自然と頭に浮かんで、アエルはどこかむずがゆい気持ちになる。
けれど、やっぱり、この女の子もどこかズレていた。
たとえば、足を覆っている無骨な黒革のブーツ。
服の上から羽織っているのは、灰がかった黒の前開きの上着。これは、旅支度のようにも、あるいは誰かの借り物のようにも見えた。
でも、一番ズレているのは、その表情。
今の状況が、女の子が分け入る場面じゃないことは見ればわかるはずなのに。
まるで、お祭りの熱気を前にしたような、喧騒の中で楽しみ方を見つけたような、そんな顔をしていた。
目が離せない。
でも、目を合わせたくない。
そんな、女の子だった。
確かに可愛いのだろう。目を引くし。でも……
それを誰が言ったかが問題だ。
この強盗、思ったよりも軽いやつなのかもしれない。
たとえば、節操がなく、女に浮ついていて、酒ばかり飲んで――結局、遊ぶ金が欲しいだけなのかもしれない。
そう考えると、なんだか徒労感が倍になる。
「は? お前なんで生きてんの。年考えろよな」
「辛辣すぎんだろ! それに、俺はべつにそんなに年取ってるわけじゃねーぞ」
正直、不意打ちで後ろから拘束されたので、顔を見ていない。
というか、アエルはこの強盗の姿を見ていなかった。
他の強盗の見た目から判断していたけれども、確かに、こいつはなんだか軽いし、若いのかもしれない。
「いくつだよ」
「にじゅうは……」
「おっさんじゃん」
おっさんだった。
肩の痺れにも似た鈍痛が強くなる。
捻られた手に力を込められたのだ。意趣返しのつもりなのだろう。
おい、そういうところだぞ――そう言おうとしたときだった。
アエルの目に、意識を惹きつけるような色彩の揺れがあった。
そこでは、例のリボンの子がアエルに向かってひらひらと手を動かしていた。
……とても、自由な子である。
軽く首を傾けて「何してんだ?」と問いかけると、例のリボンの子は手を大きく広げて声をあげた。
「これが終わったら、コーヒー・ハウスに行こうよ。生クリーム付きのやつ。……あれ、食べ方がちゃんとあるんだ。ビスケットでちょっとずつ掬うの。甘くて、でもちょっと苦くて、たぶんびっくりするよ」
帳簿室の中の音が、途切れた。
しかし、クラバットの男も、カストリオ・ヴァレリも、話を続けている。
ただ、アエルは言葉を失ったままだ。
驚いたのだ。純粋に。
まっすぐアエルを見る目には、どこか力が宿っていて。
でも、声の調子はなんだか楽しげで。
銀行強盗の最中に、強盗を無視して、人質を遊びに誘うのが、なんだかとても自由で。
そして同時に、どこか聞き覚えのある言葉でもあった。
なぜだかわからないが、アエルは、初対面の女の子だけにはよく話しかけられる方なのだ。
けれども、どんな話をすればいいのかはまったくわからず、仲良くなるのはいつも幼馴染だった。
「ほら、やっぱり友達なんじゃねーの」
たしかに、もしかしたら――そういう関係なのかもしれない。
会ったことないけど。
初対面だけれど。
「僕に女の子の友達なんていないぞ」
正確に言えば、地元のマリーちゃんは友達と呼べるかもしれない。
同年代で唯一の女の子であったマリーちゃんは、アエルたちとよく遊んでいた子である。
しかし、アエルには嫌われていた自覚があった。
「あー、お前って確かにそんな感じだな」
アエルも、だんだんこの強盗のことがわかってきていた。
この男に悪気はないのだ。
だからきっと、この言葉も良い意味で言っているに違いない。
受け取り方の問題。考えて、肯定的に捉えれば、きっと――
「もう口きいてやらないぞ」
結論は早かった。
「ちげーよ! そもそも、口きくなよ!」
このやり取りには、どこか奇妙な一体感があった。
しかし、どこか弛緩した空気を締め直すように、異音が間に割って入る。
コン、コン、と耳に残る規則的な音が鳴っていた。
厚い天板に重い金属をぶつけるような、ずしりとした鈍い響きだ。
リズムの間に乗せられているのは、苛立ち、不満、昂り。カストリオ・ヴァレリの感情を隠すことなく、金の指輪が部屋中に意思を伝えている。
「駄目だ! あいつらは全員死刑だ! なぶり殺しでも釣り合わん! 価値が釣り合うはずもない! なぜ儂が折れる必要がある、裁くのは儂なのだぞ。部外者が口を挟むな!」
その声からは支配者然とした張りが失われており、どこか子供じみた癇癪のように見えた。
それは、この飄々とした声の主が、カストリオ・ヴァレリから何かを攫っているから――
「……ええ、まったく、おっしゃるとおりです。いわば、動くべきときに動く――それ自体は、これがひとつの結論になるのではないでしょうか。たとえば、問題は何が動きえるか、という定義として。思惑の違いが起点になれば、動いた先もまた分岐する。そうなると、結果的に正しいことにしてしまえば、最も効率的だということです。ええ、あくまで傍論ではありますが」
不穏な気配を感じる言葉ではあるが、何を言っているかはわからない。
ただ、殴って終わらせようとしていることだけは伝わった。
だから――
「き、貴様も強盗の一味か」
アエルも同じ意見だった。
しかし、クラバットの男はまるで役者のように手を広げ、いい年のくせに愛嬌を乗せて片目を瞑ってみせた。
「いやいや、僕はあくまで通りすがりの第三者です。空気の読み違いには定評がありますがね……それでも、見るべきところはそれなりに見てるつもりなんですよ」
それは、一見、冗談にも聞こえた。けれど、不思議と笑えなかった。
何かがずれている。けれど、空気はそのまま進んでいく。
アエルの中では、何かがそっと、位置を変えたような気がした。
積み上げてきた砂の城を波がさらっていくように、かき乱されて、崩される。
そんな確信めいた気配だけは、感じ取ることができた。
「先生、もういい?」
待ちわびたような声があがった。
クラバットの男が振り返り、わざとらしく肩をすくめてみせる。
結局のところ、アエルにはよくわからなかった。
例のリボンの子の声は年相応に明るく、それは、この場にいてはいけない温かさだった。
じんわり広がり、冷たい緊張感にはなじまない。
だからこそ。
終わった。
なんとなく、そう感じられるものだった。
肩の力が抜ける。
静寂が広がる。
潮が引くように遠くなる。
「うん。オーリ。穏便にね」
「うん、穏便に。――任せて!」
消えるはずの温もりが――大きな瞳に宿った気がした。
静けさにも似た違和感が、アエルを掴んで離さない。
でも、例のリボンの子は、その金髪を揺らしながら、何事もなかったようにブーツの靴紐を結び直している。
引きすぎた潮が空気を止めた。そんな、予兆めいたもので――
「何をもったいぶっている! 強盗を叩きのめせるなら、さっさとそう……」
カストリオ・ヴァレリでも、最後まで言い切ることはできなかった。
口が動くよりも早く、目が左に振り切れた。
アエルにわかったこと。
高い位置に突き出された例のリボンの子の脚は、細くて白くて綺麗だったということ。
マスケット銃が床を滑る音は、心臓が跳ねるほど響くということ。
そして……
成人男性というものは、あんなにも吹き飛ぶことがありえるのだということだった。
「……は?」
誰のものかもわからない、乾いた声が聞こえた。
――ドサリ。
床が震える音がした。
――トンッ。と、無骨なブーツがステップを刻んだ。
音の波紋が部屋に広がり、それは人影のうねりになり、誰かの鼓動がドクンと跳ねた。
それが、合図だった。
少女の頬が、鼻歌をこぼすように緩んだ。
「ちょ、ばー……、もう! 何してんだよ!」
――助けられるはずの人質が止めた。
「おい! 撃つぞ! 来るな!」
けれども流れは連鎖し弾け飛ぶ。
誰もが声を聞かず、音だけを拾った。
スカートがはらりと風をはらむ。
しなやかな足がマスケット銃を絡め取る。
そしてまた、誰かが倒れる。
「大丈夫だよ。ほら平気だから。ちょーっと待っててね。もうすぐ終わるから」
トンットトン。
リズムの間に声が舞い込んだ。
金色の髪が揺れ、丸い瞳が優しく瞬く。
滑らかな手が髭でざらつく首元を撫でる。
柔らかい手つきで無骨な胸元が押し返される。
そして、くるりとひと回転。
いつの間にか強盗たちは倒れ伏し、板張の床の中央には金髪の少女が立っていた。
しかし、彼女がしたことは、強盗の制圧では済まなかった。
上気した頬と輝かしい瞳が、何を語るでもなく、何を恥じるでもなく。
――だからこそ。
彼女の舞台は終わっていなかった。
「おいおいおい! 来るなよ! こいつがどうなってもいいのか!」
その言葉が、少女の視線を縫い止めた。
それは劇的な変化であり、強盗は小さく息を吐き出す。
「その手、ほどけるうちにほどこうよ。言い訳は、あとからでも間に合うから」
人質が動くことはなかった。
ナイフが突きつけられていることに、そもそも気づいているのか。
柔らかい首筋に立てられた刃は震え、それでも構えは整っていた。
「構うな! 引きずり倒せ!」
巨体が発する大きな声が響く。
短く、端的な物言いは、見ているようで、今の状況が見えていないようですらある。
「こんなところで死ぬなら泥水の方がマシだ! 降伏する。降伏するからこの女を止めろ!」
その言葉は、確かに一つの結末に思えた。
強盗がナイフを置き、人質は解放される。
それで、終わるはずだった。
――しかし、状況は変わらない。
まるで眼の前の相手と刃を交えるかのように、強盗の視線は揺るがない。
その姿は、引き金を引く理由を既に確信しているようですらある。
「子供が調子に乗るからこうなるのだ! むしろ儂のために殺して死ね」
その言葉にためらいはなかった。
冗談のようにも聞こえ、しかし真実を語る重みがある。
自分の言葉の価値を理解して、信じるものにしか出せない声だった。
「いい。降伏していい。だからそれ、もうしまって!」
しかし、その願いは届かない。
かけ違いの連なりは、勢いを増して加速していく。
「まずはお前がここから出てけ!」
――誰もが自分を信じ。
「どうせ縛り首だ。構うな、やれ!」
どこにも妥協の余地がなく。
「あなたは見たでしょ、この子が何もできないこと!」
結論は――
少女と人質の間で視線が絡む。
柔らかく、温かい。
言葉はなく、確かに二人は語り合った。
そして。
人質は、これが答えだと言うように。
そっと。
一切の迷いもない静けさで。
喉を、伸ばすように差し出した。
「来るなって言ってるだろ!!!」
「待って!」
血しぶきが、少女の顔を濡らした。
――ドクンと、大きく脈打った。
自分の鼓動の音なんて、聞こえるはずがない。
でも、確かに僕は聞いた気がした。
眼の前には、例のリボンの子。
綺麗な金髪が、スルリと揺れる。
けれども、彼女は動いていなかった。
長いまつ毛で縁取られたまぶたを、大きく見開いて。
まるで油彩で閉じ込められたように揺らがない。
白い頬が血で穢れる様子は、受難を告げられた聖人画のようだった。
首に手を添えると、確かに結果を感じられた。
トクン、トクンと――
これが、人が終わる音なのだろうか。
流れ出た血は戻ることはなく。
僕にできることも多くなく。
しっかりと、血を拭い取った。
なんだ――
思ったより簡単だったじゃん。
霞んだ視界に映るすべてが、間違いなく、僕が望んだものだった。
みんなが動きを止めている。
時間は流れてるはずなのに。
世界はピタリと固まったままだ。
望まれていたわけじゃなかった。
貶され、罵倒されて、見向きもされなくて。
でも、確かに僕にはできた。
僕が、刺されただけで――
――みんなが、僕を見た。
もう、肩から重さは抜けていた。
痺れが薄まるように。
熱になって身体に広がっていく。
もう、立ち上がることができた。
湿って張り付いたような皮膚が剥がれて。
よろつく足で床の感触を確かめた。
僕は、自由だった。
自分で勝ちとった――自由だった。
カストリオ・ヴァレリはまだ喚いているだろうか。
確かに僕は怒らせた。
でも、だからこそ僕には今がある。
――なんで……
例のリボンの子の口が、そんな風に動いた気がした。
なんでなんだろう。
わからない。
なぜ、こんなことになったのか。
本当に、わからない。
ただ、僕には、選択肢なんて初めからなくて。
こうするしかなかった。
そのことに、思うことなんてない。
僕は、冒険者で。
確かに、簡単に人質になったけれども。
間違いなく冒険者だったから。
やることは――
できることは――
決まっていた。
汗ばんだ無骨な手を握っていた。
何度か声を交わしたけれど、僕はこいつの顔を見ていなかった。
どんな人なのかも、知りはしなかった。
逃れようとするのを、止めた。
精一杯掴んで、握りしめる。
どうすればいいのか、わからなかった。
でも、僕は、冒険者で――
だから。
きっと。
気づけば腕を引き寄せていた。
まるで抱き寄せるように。
強く。
飛び込むように、足で挟んだ。
「いでででで、いでで、取れる、取れる! 取れる!」
「よくも、散々腕を捻りまわしてくれたよな! 痛かったんだぞ! おい! おい!」
飛び込み腕ひしぎ三角絞めである。
§
「……え、ちょっと待って? へ? へえ? ほんとに……平気だったの……?」
例のリボンの子の声は、裏返っていた。
ぎこちなく、確かめるように。そして、無遠慮に。
アエルのなめらかな首に手を伸ばし、ピタリと止めた。
「カストリオ・ヴァレリ……! この強盗は、僕が……倒したんだからな! 僕の手柄だ! ……ちゃんとやったんだぞ……貸しひとつだかんな!」
だが、アエルの足はまだ首に絡まったままだった。
今も強盗の肘を極めていて、それを床についた肩で支えている。
いや、普通に苦しい。
「黙れ! 儂がそう決めたんだ。アエル・ホーミス――お前は処刑だ! もはや覆らん!」
カストリオ・ヴァレリは、素直に認めなかった。
アエルが手繰り寄せた成果を、ただの感情だけで塗りつぶしている。
「なんでだよ! 僕は……お前を助けたんだぞ! お礼くらい言えよ!」
強盗を倒せなかったから、役に立たないとされた。
銃弾を止められないから、無価値だと決めつけられた。
でも、アエルはちゃんと体を張ったのだ。
「お前が居なくても助かったわ! なんだそのみっともない戦いっぷりは。 そこの娘を少しは見習え!」
距離は変わっていないのに。
声が、近く――大きくなっていく。
「ばーか! お前、ばっかだろ! 僕は人間だ! それならお前がやってみろ!」
耳元で怒鳴られているように。
顔のすぐ前で怒鳴り返しているように。
「そこの娘は人間だ! お前こそ人外みたいなことしておいて、よくもぬけぬけと!」
そこに――
「えっと……もしかして、二人って、知り合いで、結構……仲良いの?」
黒いカラスの群れの中に、青い蝶が迷い込むような一声。
だけどそれは、色違いであり、見当違いであり。
――勘違いである。
「はあ!? んなわけあるか! 金のことしか考えてないくせに、新大陸のことなんも知らないロートルじじいなんか、僕は会いたくなかったんだぞ!」
「そんなわけあるか! こんな、力の使い方もろくにわかっておらん、口ばっかりのクソガキなんぞ、儂は会いたくなかったわ!」
あまりにも大人げのない剣幕な態度に、例のリボンの子も項垂れる。
声の割れた瞬間が生まれ。
――だからこそ。
「……痛えんだよ……! 頼むから暴れんな……! 大人しくする、大人しくするからよ。……もう離してくれよ」
悲痛な声は、静かに空気に溶け込んだ。
そのどこか滑稽な調子が緊張をほぐし――喧騒は、これ以上続かなかった。
アエル「ブクマ・評価してくれないとな、もう口きいてやらないぞ」




