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エピローグ:お前がヒロインだってわからせてやる! [ ヴォルフガングの場合 ]


 いつか口に入れたことがあるような……柑橘の爽やかな香りがする部屋だった。


 ――パタン。


 扉を閉めた音に、何かを断ち切られたような気がした。

 そして、しっとりと深い甘さが鼻先に漂い、ふっと力が抜ける。


 アエルは大きく息を吸って。

 ため込んだ疲労と一緒に吐き出した。


 誰もいない部屋。

 窓にかけられた薄い布が、日差しを和らげている。

 湿った風に、さらりと揺れる。

 初めて訪れたはずなのに、ここ数日のうちで一番落ち着ける場所に思えた。


 柔らかい編み目で霞む窓の向こうに、先ほどまでいた冒険者ギルドが見える。

 武骨な石造りの建物が、丁寧に整えられた中庭に繋がっていて、それはひときわ目立つ欠けを持つ銀色のピューター皿のようで、妙に雑な感じがした。


 なんだか、世の中の裏側に入り込んだみたいだった。

 ここには、港の喧騒は不思議と届いてこない。


 室内に意識を戻すと、陽の集まる場所がまず目に入った。

 キャンバスと描きかけの素描が置いてある。

 はにかむように笑う女性の顔。

 絵がうまいのか、綺麗な人に思える。


 ……見かけによらないやつだな。


 アエルをここに通した男の無表情が頭に浮かぶ。

 ヴォルフガングの執務室に満ちる空気は、彼が身にまとう冷たさとは程遠い穏やかさを帯びていた。


 煉瓦色の素焼きタイルの床は、さらりとした涼しい空気を足元に流している。

 柔らかく光を返す木張りの壁は、親しみやすさと清潔さを感じさせた。


 製本された本が詰まった本棚。

 飾り枠に収められた海図。

 鏡のように磨かれた黒檀の机。


 そして、一番目を引いたのが……


 たっぷりと綿が詰められた、深紅の布が張られた椅子。

 手彫りの蔓草模様に指をなぞらせる。つるりとした感触が腕まで伝わる。


 こくりと、唾を飲みこんだ。

 耳を澄ませ、足音が聞こえないことを確認すると、おそるおそる、腰をあずける。


 ……雲に座ったようだった。

 思わず、声が漏れそうになる。


 どこかおしりの形に合うようにへこんだ座面は、どこまでもアエルの身体を沈み込ませていく。

 背もたれに頭をのせて、目をつぶる。

 身体がふわりと浮くように、足先からじんわりと力が抜けていった。


 塩気の混じった、深みのあるにおいがした。

 なんとなく染み渡った心地よさに、口元が緩む。


 身をよじり、背もたれのてっぺんを確認すると、黒く艶めいたように色が変わった部分があった。

 鼻を近づける。

 潮と木の渋みが絡み合ったような香りが、頭の上まで通り抜けた。


 思わず嗅ぎ続けていたくなるような、なんでかわからないが、やめがたい。

 どこか、懐かしさを覚えるたぐいのにおいだった。


 目をつむる。


 咀嚼するように記憶をたどると、なぜかクライドの筋肉質な首元が浮かんだ。

 確かめるように、今度は黒檀の机に顔を近づける。


 はちみつのような甘さと、深く沈んだ木の芳ばしさ。

 そこにわずかに、先ほどの潮っぽさが溶けあっている。


 跡を追うように辿っていくと、コーヒーカップに行きついた。

 舶来物みたいな青い花柄が描かれた、白い磁器でできていて、中身がまだ少し残っている。


 ためらわずに手に取った。

 カップのふちに鼻を寄せ、くんくんと吸い込む。

 もう湯気はなく、重く溜まった焦げっぽさと、そして、わずかに漂う潮っぽさ……


 バタン。


 コーヒーの表面がわずかに揺れた。

 ――アエルの肩も揺れた。


「あんた……それ、唾液で顔洗ってんの? そこまでいくともう才能だわ……」


 扉の前には、受付嬢が立っていた。


「なんだよ。ちょっといい匂いがしたから、気になっただけじゃんかよ」


 慌ててカップをもとの皿の上に戻した。

 視線を合わせられず、思わず目を逸らす。


「ふーん?」


 コトン。と、机の上にコーヒーを二つ並べた。

 そのままアエルに顔を寄せ、まじまじと見てくる。

 長いまつげがぱちりと動く。

 頬が熱くなり、身を縮こませる。


「いくら恋愛脳だって、乗り換えるの早すぎでしょ。まあ、関係ないからどうでもいいけど。ほら、アタシにお構いなく、どうぞカップのふちでも舐めまわしなさいな。気になる男なんでしょ」


 ちらりと、キャンバスに書かれた素描を見ながらそう言った。

 アエルは意味を理解できずに、目をまばたく。

 次いで、慌てて椅子から立ち上がった。


「そ、そんなことしてない! そんなの、勘違いなんだからな! そ、それに! あんな石膏塗ったみたいな顔したやつなんか、僕は気にしてなんて、ないんだからな!」


 言い切って、肩が上下に揺れる。


 バタン。


 窓を抜けていた風が止まった。

 ――アエルの荒い息も止まった。


「ずいぶんと楽しそうに話していたようだな」


 ヴォルフガングが袖口を整えながら、部屋の中を見回していた。

 後ずさりしそうになるアエルに対して特に怒るでもなく、「ああ、座ったままで構わない」と、椅子に押しとどめる。


「古いコーヒーは下げますね。何が入っているかわかりませんから」


 受付嬢はそう言って、置いてあった磁器のカップを手に取った。

 「では、失礼します」と言い残し、それを持って部屋を出ていく。

 ――閉まりかけた扉の隙間から、舌でふちをなぞる仕草をして、アエルを嘲笑った。


「あいつ。すっげー性格悪いじゃん」


 思わず口をついてしまい、ヴォルフガングの反応を追う。

 彼は特に気にするわけでもなく、棚から何かを取り出していた。


「ナバロ嬢のことか? 冷静で、判断を誤らない。組織にとって欠かせない人物だ」


 机の上に置かれたのは、ビスケットの乗った皿だった。


「絶対騙されてる」


 言ったアエルの頭を、大きな手がなでた。

 ぴくりと肩が動く。

 髪に伝わるしっとりとした重さが、じわりと遅れて伝わってきた。


「食べなさい。話は長くなる。――トレノ・ダ・ヴァレスタについてだ。君からも、いろいろと聞かなければならない」


 アエルはビスケットに伸ばそうとしていた手を止めた。


「勘違いしてるかもしれないから言うけれど、僕は別にトレノのことを完全に信じてたわけじゃないんだからな」


 胸をそらすように、椅子の背にもたれかかる。

 それを見て、ヴォルフガングも頷いた。


「……そうだな。それで良い。君はトレノ・ダ・ヴァレスタの策動に一番に気づき、その身柄を確保した。冒険者ギルドに来たのは、彼を引き渡すためだった。そういうことになる」


 それ以上語ることなく、窓から中庭を眺めていた。


 呼吸ふたつ。


 アエルの唇が震える。


「さくど……わ、わかってるなら、許してやってもいいんだぞ。あれは僕の……作戦だったんだ」


 ゆっくりと振り返った顔は、静かな目をしていた。


「それで良い。……今後も、発言に注意を払うことだ」


 声は、静かに途切れた


 アエルは眉を寄せかけて、結局、小さく息を吐いた。

 ビスケットに手を伸ばし二枚掴む。


「ところで――、僕はいつ資格持ちの冒険者になれるんだよ」


 大きく口を開いてかじろうとする。


 そこへ――


「どこをどう繋げればそうなるんだ……」


 こめかみを抑えて固まっているヴォルフガングが目に留まった。


 トン……と、机に指を置いた。


「結論から言うと、トレノ・ダ・ヴァレスタの詐欺の手口は、効力のない土地特許を使って権利を得るというたぐいのものだ」


 そのまま黒檀の机をなぞっていくのを見守る。


「え……偽物だったってこと?」


 ピタリと指が止まり、今度は二本に増えて体を支えるように力が入れられる。


「いや、偽造ではない。封蝋に刻まれていた印章は権威があるものだった」


 矛盾した表現に、首をかしげた。

 短く息を吐きつつも、ヴォルフガングは言葉を重ねる。


 くるくると頭を回しながら聞いた内容は、どうやら――アエルにはあずかり知らない宗教の話だった。


 原理主義派と、権威主義派。


 宗派どうしの勢力争いの中で、土地特許が使われたらしい。

 トレノが握っていた封書は、正規のものではなく。権威主義派の教皇庁が、勝手に書いたものだという。


 アエルの暮らす都市にあるのは、原理主義派の教会だった。開拓を推し進めている本土にある母国がそうなのだから、新大陸の広い範囲は自然と原理主義派が根付いていることになる。


「……そこへ現れたのが、権威主義派に連なる信徒であり、その最高権威である教皇庁との縁を持つ、トレノだ。彼は――」

「やっぱり偉い人だったってこと?」


 さえぎるように、身を乗り出した。

 ヴォルフガングは首を横に振る。


「トレノ・ダ・ヴァレスタ自身は、商人貴族の分家筋だ。格別の人物ではない。実際には正式な任命や承認を受けておらず、非公式な活動家といったところだ」


 そういい終えて。

 続く内容は、トレノと教皇庁との繋がりに戻る。


 聞いていて、思い出した。

 封蝋に押されていた印章は、車輪教の聖印だった。


 ――車輪の刻印。


 見覚えがあるはずで、着ている法衣に同じ刺繍が入っている。


 だから――土地特許の出所は確かで、偽造ではないけれど……

 本物でもない。ということになるのだろう。


「勝手に書いたって、そんなことして、意味あるの?」


 権威主義派の教皇庁というのは、偉いのかもしれない。

 しかし、それだけで土地が手に入るなら、世の中のどこの土地でも手に入る気がしてしまう。


 ヴォルフガングの答えは簡潔だった。


「いや、封蝋、印章は王室発行のものでなければ、法的執行力はない」


 若翠色の髪を揺らした、自信ありげな顔が頭に浮かぶ。


「……計画、破綻してんじゃん」


 体から力が抜けた。

 アエルは背もたれに沈み込み、ビスケットをかじる。


 ヴォルフガングは、じっと見つめたままだった。


「実は、そうとも言い切れない……」


 そこで言葉を区切り、コーヒーを手に取る。


 その様子を、目で追った。


「今この国が原理主義派であるのは、宗教的な背景ではなく、本土の戦略的な政治判断の結果だ」


 口の中を湿らせてから語られたのは、歴史の話だった。


 原理主義派というのは、新大陸が、魔法が発見されてから新しくできた宗派だということは、誰かに聞いたことがあった。


 ――祈れば魔法が手に入る。


 たったそれだけのことで、世界が二つに割れるほどの争いが起きたのだという。

 それからずいぶんと立つけれど、本土はずっと戦争が続いているのだとか。


 それで、本土にある母国は原理主義派の味方をすることにした。

 しかし、国の方針が変わったとしても、権威主義派の信徒が、ある日を境に原理主義派に鞍替えすることは難しい。

 今でも一定数の人たちが、権威主義派の教えを信じている。


「権威主義派の人物は、権威主義派の印章の入った土地特許を拒否できない」


 カチャリと、コーヒーカップが皿の上に戻される。


「しかし、一度でも公的台帳に載れば、抹消には訴訟や政治判断が必要になり、それが政治的交渉材料になりえる」


 だから、危ない橋を渡る価値があると考えたのかもしれない。と、締めくくられた。


 アエルは額に手を当て、思考に浸る。


 つまり……権威主義派が封蝋に押した印章は確かに偉かったのだから、トレノは本当に土地を手に入れるかもしれなかった。

 その考えにたどり着いた瞬間、ぱきんとビスケットが割れた。


「やっぱり。ギルドに来なければ、僕は資格持ちの冒険者になれたんじゃないか」


 ヴォルフガングは目を細める。

 そして、なぜかビスケットが乗った皿をアエルの前へ滑らせた。


「君は自覚がないな。危うく悪事に手を貸すところだったと言っている」


 色のない瞳にひやりとした。

 止めることもできず、息がそのまま言葉になる。


「そんなの、僕はただ騙され……、な、なんだよ。ばーか! ばーか!」


 湯だったように顔が熱くなった。


 続かなかった声がゆっくりと消えていく。

 チリチリと、鳥がさえずる。


「言っておくが……あのままついていけば、君は本土に連れ去られ……自由な身分ではなくなっていた」


 強い海風に乗って、潮のにおいが通り抜けた。


 ドクン……と、鼓動が脈打つ。

 首筋に汗が垂れ、なのに肩が震えた気がした。


 小さく息を吐きながら、ヴォルフガングは核心から外れたことを語りだす。


「トレノ・ダ・ヴァレスタは、ただの活動家であって実業家ではない」


 遠くなった音を掴むように、身体を前に倒し、耳を傾けた。


 トレノは、土地を手に入れることだけが目的で、本当に開拓をするつもりはなかった。

 冷たくなる指先を温めるように握りながら、そういった話を聞いた。


 技術もなく、資金もなく、人手もなく。

 そんな状態でできるほど、開拓というのは甘くない。

 それは、アエルも知っていることだった。


「人が住まなければ、土地というものは価値はそれほどない」


 でも、トレノにはそれを価値に変える方法があった。

 それが、権威主義派とのつながり、だったということだ。


 ヴォルフガングが言うには、本土から武器や兵士を送り出して、まわりの開拓された土地を奪い取るための足がかりにもできる。

 実際にはやらなくても、「できる」ということが――価値、ということだった。


 いつの間にか閉じていたまぶたを上げると、ヴォルフガングは頷いた。

 結論が、告げられる。


「つまり、事業を起こすのではなく、教皇庁への報告で地位や利益を得ることが狙いだった」


 まっすぐに、見つめられる。


「そして、君はそうなれば一緒に連れ去られていたということになる」


 アエルは両手を開いた。

 いつ見ても、小さい手だった。

 それが今は、震えている。


「トレノ・ダ・ヴァレスタにとっては、君は権威の箔付けの道具として価値は十分にある」


 聖人について話を聞いたはずだった。

 熱っぽく説得された意味が、やっとわかった気がした。


「新大陸に植民地を多く持たない権威主義派にとって、魔法の力は絶大だからだ」


 信じられない話に、気持ちが抑えられなかった。

 今すぐ声を張り上げて……


 ――飛び上がりたかった。


「たしかに、僕は強いから、箔が付くもんな」


 緩む頬を無理やり抑える。

 けれど、どうにも声が浮ついてしまう。


 ヴォルフガングはそんなアエルの姿を見て、咳ばらいをひとつ。

 落ち着き払った様子で言った。


「君は、聖女の力を過小評価しすぎている」


 アエルの動きが止まる。

 ゆっくりと手をひざの上に乗せ、ヴォルフガングを見上げた。


 ……聖女って、だれ?


 褒められたのは、てっきり自分のことだと思っていた。


「聞きなさい。トレノ・ダ・ヴァレスタが今後どう動くかはわからない。君はまた会うことになるかもしれないのだ」


 ヴォルフガングの顔は微動だにしていない。

 焦点の定まった目を向けてくる。


「トレノは捕まったんじゃないのかよ」


 目を逸らすこともできず、顔だけを静かに遠ざける。


「二度と同じことをしたいと思わないように教育は施すが、彼がどう理解するかは私の責任範囲外だ」


 そう言って、ヴォルフガングは手を差し出した。

 意味もわからず、おそるおそるその上に指を重ねる。


 まばたき三つ。

 見上げる姿は動きを止めていた。


「土地特許を……」


 やけに上ずった声でそう呟かれる。

 言われて、トレノから土地特許を受け取ったままだったことを思い出した。


 取り出してみると、赤い封蝋は傷一つなく残っていた。

 聞いたとおり、車輪の印が確かに押されている。


 封書を受け取ったヴォルフガングは、躊躇することなく紙をたたみ、折り目に沿ってナイフを走らせる。


 一息で、切れた。


「土地特許を失った今となっては、トレノ・ダ・ヴァレスタは教皇庁の期待を裏切った形となり、罰や追及を受ける立場になる。新大陸に居場所はなく、本土でも追われるのだ。大きなことは二度とできないだろう」


 肩の力が抜けた。


 ヴォルフガングは満足そうに頷き、アエルもそれに返す。


「僕が見つけたら、ぎったんぎったんにしてやるんだからな」


 昼の光が筋を描くように差し込んでいた。


 窓際に立つ銀色の髪が、輝きに包まれるように白くふちどられる。

 逆光で影に沈んだ表情が、わずかに緩んだような気がした。


「これが、有資格の冒険者としての務めだと思っている」


 言い淀んだように、喉が動いた。

 彼を見上げて続きを促す。


「聞かせて欲しい。私は君を……守れただろうか」


 伏し目がちになった横顔は、どこか痛々しかった。

 アエルは胸のうずきのまま声にした。


「そうだ、僕はすごい迷惑だったんだぞ。絶対許してやるもんかよ」


 ヴォルフガングは眉間にしわが寄るほど、目をきつくつぶる。

 何かに耐えているようだった。

 そして、決意を宿した動きで、ゆっくりとアエルに向き直った。


「すまなかった。謝罪しよう。君が家を追い出されるとは思ってもいなかった」


 背中が震えた。

 強く握ったはずなのに、指先に力が入らなかった。

 声がかすれないように、息を深く吐き出す。


「勘違いするなよな。僕は追い出されたんじゃなくて、追い出されてやったんだからな」


 確かに微笑んでいるのに、不思議と嫌ではなかった。

 色のない瞳に、自分が映っている気がした。


「そうだな。君は、私が思っていた以上に、ずっと強い人だ」


 いつの間にか、低い声は柔らかくなっていた。


「なんだよ。わかってんじゃん……」


 緩やかな風が流れ、窓辺に小鳥が止まった。

 照らされた黄緑色の羽毛が、とことこ歩く。


 チーチュルチュル……。そんな音とともに、沈黙が続く。


「これからも、君を守る役目を私に担わせてはくれないか。……君は私にとって特別な存在だ。繋がりを深めることを、私は望んでいる」


 息を飲んだ。


 小鳥が飛び立っていく。

 その羽音を、アエルは聞くことができなかった。


「……ああ、いや。突然すまない。私は君に迷惑をかけていた。こんなことを言われても、困るだろうが」


 言葉をさえぎるように。

 椅子から立ち上がった。


「いいの?」


 目が見開かれた。


「今、君は……」


 彼の様子に構いもせず。

 銀髪を見上げる距離に歩み寄る。


「僕を特別扱いしてくれるんだろ。全然構わないんだぞ。なんだよ、やっと僕の魅力がわかったんじゃん」


 伸ばされた手が、止まった。

 髪を撫でるように、弧を描いて降ろされる。


 小さな息遣いが、消える。


「……ずっとそばにいたい。君を守れる場所に、私がいたい。と考えている。住む場所のことだって、私にできることなら力になりたい」


 柑橘の爽やかな香りの中に混じる、しっとりと深い甘さ。

 木張りの壁が呼吸をするように、溶けていく。


 ヴォルフガングが向かったのは、陽が集まる場所に置かれた棚だった。

 キャンバスに描かれた、桜色の髪をした女性が目に留まる。

 まるで宝物を扱うように取り出されたのは、小さな木箱だった。


 アエルの前でひざをつく。


 何かが、変わろうとしている気がした。


「……気が早いと思うかもしれない。だが、この日のために備えだけはしてきた」


 箱の留め金に指がかかる。


 カチ……と、音が鳴る。


 ゆっくりと蓋が持ち上がり、藍色の内張りが現れる。


 そこに――


 ひとつの、指輪。


「君に無理強いをしたいわけではない。だから、考えを聞きたい」


 丁寧に磨かれた銀色の輪が、部屋の光を反射する。

 床には二人分の影が濃く落とされる。


 そして、その輪郭が……揺れる。


「アエル・ホーミス。私は君のために人生を懸ける覚悟がある。君を守ると誓おう。自由も、笑顔も、日々の安らぎも……そのすべてを、共に支えていきたい」


 涼し気な空気が止まる。


 視線が交じり。


 像を結びあう。


「どうか、結婚して欲しい」


 鼓動の音が聞こえた気がした。

 体温が胸から広がり、顔まで上がる。

 抑えきれない思いが、頭の中で繰り返される。


 ……すっげー、変なことになったじゃん。


「お前、頭の中に卵でも詰まってんのかよ! そんなの無理なことくらい、誰だって知ってるぞ。もちろん僕は知ってるぞ! お前と結婚なんか、できるわけないんだからな! ……ばーか!」


 叫んだせいで、息が切れる。

 喉の奥が熱くなる。


 そこに、ヴォルフガングの落ち着いた声が、響いた。


「安心して欲しい。このような地位にはいるが、私たちに身分の差はない。気にする必要はないんだ」


 しっとりと、声が空気に染み渡る。

 アエルは後ろに引きたいのに、動くことができなかった。


 ……あれ? もしかして、本当に結婚できるの?


 混乱した思考を、首を振って否定する。


「嘘だ! そんなの信じられるわけないじゃん。 おかしいこと言ってるって気づけよ! ざこ! ざーこ! ざこ!」


 真剣な瞳を見ていられなくなる。

 髪から伝ったしずくが、目尻を通って頬を流れる。

 涼しい海風に当たりたかった。 


「確かにおかしいかもしれない。しかし、これは、君の力を守るためにも、最善の方法だと私は考えている」


 泣き出したかった。

 認められたかった。

 強くなりたかった。


 だからアエルは、叫んだのかもしれない。


「結婚は、好きな人とするものなんだからな! 僕は、お前なんか、好きじゃないんだからな!」


 歯を食いしばりながら、駆けだした。

 呼び止められはしなかった。


 石畳を踏む足音が、人が減った室内に響いていた。

 影は遠くなっていく。

 ヴォルフガングは何も言わず、ただその場に立ち尽くした。


 広い空の中に鳥が舞う。

 海を越えた帆船が、大きな港に集まってくる。


 ――水平線はどこまでも先にあった。






アエル「弁解なんて必要ないんだよ! 評価もブクマも押さずに閉じようとしたことが悪いんだ。はい論破! ざこの言い訳なんて聞いてられるか!」


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