箪笥の中で
「アキちゃんは、帰りたくなること、ない?」
「そうだなぁ。お母ちゃんが元気か、知りたいなぁ」
「そうねぇ。きっと、お元気よ」
「カズちゃんは?」
「私はねぇ、お友達に会いたい」
「俺も……」
「ねえアキちゃん、私、アキちゃんのお嫁さんになってあげる」
「カズちゃん……」
アキには分かっていた。カズちゃんはアキを雇ってくれている偉い人の娘さんだから、そんな事は多分、無理だって。
カズちゃんは母親譲りの美しい顔を少しだけ俯かせている。
それは多分、恥じらいからじゃない。
彼女はまだ十と少しで幼かったけれど、きっと何となく分かっている筈だ。
だから、そっと俯いている。
◆ ◆ ◆ ◆
元々、蜃気楼の様なものの上に成り立っていた日常。
そんなものだったから、力任せに打ち破られた。
悪い噂を聞き、用心に用心を重ねて窓を木の板で十字に塞ぎ、扉も固く閉ざしたのに。
獣の様な喚き声と共に、扉が音を立てて揺れている。
二重の立派な扉だったのに、一枚目は既に破られ、残りの二枚目がたわむ程の力で外側から攻撃されている。
「隠れて! アキちゃん、和子と隠れて頂戴」
「奥様……!」
「アキ、頼む」
扉がガタガタと悲鳴を上げるのを見て、アキはカズちゃんを連れて二つ奥の部屋へ行き、窓を覗いた。外にはトラックが止まっており、運転席には男がいてこちらを監視していた。
彼らは慣れている。
窓からネズミが逃げ出すのを、既に知っているのだ。
アキが反対の部屋へ移ろうとした時、異国語の喚き声が家中を震わせた。
アキは足を止め、唇を噛んでカズちゃんを部屋の箪笥へ押し込める。
「いや、いや。アキちゃんも。怖い」
「大丈夫。大丈夫」
「お願い」
必死に乞われてアキも仕方なく箪笥へ潜り込む。
奥様の衣装箪笥だったので、今の状況に不釣り合いな、とても甘い匂いが充満していた。今までの日常そのものの様な気がして、アキは切なくその匂いを嗅いだ。
カズちゃんは、震えてアキにしがみ付いている。
彼はその背をそっと撫でる事くらいしか出来ない。
奥様の悲鳴が響いて、誰かが床へ倒れ込むドンという音と、旦那様の悲痛な声がする。
その向こうから低くくぐもって聞こえて来る下卑た笑い声は、数人の男のもの。
衣服の破れる音が、妙に鋭く彼の耳に届いた。
奥様の泣き喚く声が、バシンバシンと肉を打つ音にかき消されそうだ。
「止めてくれ!! 家のものはなんでも渡す! だから!」
タタタターンッと、音がして、旦那様の声がしなくなった。
ぎゅう、とカズちゃんがアキの胴にしがみ付いて、震えている。
アキも、自分の核が分からない程震え、カズちゃんの小さな身体を抱きしめた。
奥様の泣き声が、悲鳴が、嗚咽が、男たちの嘲笑交じりのガ鳴り声と笑い声と混じり、たまにドスン、ドスンと音がした。
悪夢の様な音は、ずっとずっと止まなかった。
その内奥様の声が聴こえなくなると、何かを床にドカッと突き刺す様な音が聞こえ、再び奥様のけたたましい絶叫が響き渡った。奥様の叫び声の合間から、男達の笑い声が聴こえる。何か、楽しそうに怒鳴っている。
音が、何もかもを告げて来る。むこうには、地獄がある。
何度目かの絶叫の後、どんなに大きな音が立っても奥様の声はしなくなってしまった。
ヒュウ、と口笛が鳴った。
タタタン、と酷く残酷に乾いた音がして、あちら側で全てが終わったと彼は確信した。
家じゅうを物色する音がする。
男達は、意外にもとても静かに物色を行っていた。
物色をしているのだから、箪笥など絶対に的にされるに決まっている。
アキは喉を鳴らした。
見つかったら、男の自分は簡単に殺されるのだろう。
でも、カズちゃんは?
ヤツ等は幼い女の子でもきっと平気で―――。
アキは、震えながら息を止め、カズちゃんの細い首に、震える両手をかけた。
力をこめる。
『ごめんね』
『ごめんね』
『堪忍してね』
『ごめんね』
カズちゃんは、暴れたりしなかった。
やがてとても静かに、力を失くした。
それから箪笥は開けられて、アキは殺される事無く捕えられ、凍てつく大地へ連れて行かれた。
―――情けよ、情け。
お前にそっぽを向かれ、ああ、俺はなんて情けないのか……。




