苗字が間違っているのです
私がアインスさんのお屋敷に来てから三ヶ月が経ちました。
私はまだアインスさんのお屋敷でお世話になっているのです。
本当はすぐに町で一人暮らしをしようと思っていたんですけど、アインスさんに止められてしまいました。
なんでも私は今はまだジェーシャチ国の国民で、今ディエテ国の国民になる手続きをしている最中なんだとか。
その手続きが終わるまでは、国の監視の下で暮さないといけないそうです。
やけに時間がかかるんだなーと、思ってたんですが、そういえば、私って、国から国へ売られたんでした。
きっと普通の移住手続きと違っていろいろめんどくさいのでしょう。
そいうえば、こちらに来てから、何枚か書類にサインをしました。
国民になるために必要なんだそうです。
この三ヶ月、私は毎日アインスさんと一緒に過ごしています。
朝起きて、一緒に朝食を食べた後、お城の研究所まで一緒に出勤して、仕事が終わったら一緒に帰ってきます。
研究室では、アインスさんの研究の助手をしたり、ほかの研究員さんのお手伝いをしたり、研究室の掃除をしたり……ジェーシャチ国にいたころとあまり変わりのない生活をしているのです。
そうそう、お掃除ついでに魔石の粉を沢山もらっちゃいました。
ここの研究所でも魔石の粉はそのまま捨てられていたようなのです。
再利用♪再利用♪とばかりに、久々に布や糸を染めてみましたよ。
昔何度も失敗したおかげで、なかなかの出来です。
うきうきと染めた布で作った髪飾りを使っていたら、染めた布や糸に興味を持った研究員さんがいたので、染め方を伝授したのです。
とても喜んでくれて、仕事中にもいろいろ声をかけてくれるようになったのです。
その人が仲介となってくれてほかの研究員さんともなかなか良好な関係が築けているのですよ。
ジェーシャチ国の研究所の皆と別れたのは寂しいですが、なかなか充実した日々をおくっているのです。
今日も元気にお仕事中です。
雑務の一つである、魔力量の計算をしていると、アインスさんに呼ばれました。
研究室の外へと連れ出されます。
昼休憩はさっき終わったばかりだし、帰るにはまだ早い時間なのです。
どうしたのでしょう?
連れてこられたのは何やら高そうな机と高そうな椅子に座った偉そうな人がいる部屋でした。
「えー、イチカ・アハトカさん、こちらの書類にサインをしてもらいたいのだが」
偉そうな人はそう言って書類を私に差し出したのです。
ん?
イチカ・アハトカ?
誰ですかそれ?
「私の苗字が間違っているのです。私はアハトカではないのです」
私の訂正の言葉に返事をしたのは隣にいたアインスさんでした。
「間違っていませんよ、イチカさんはこの間アハトカ家の養女になりましたので」
「えっ?」
養女?え?何の話ですか?
「君はこの書類にサインしたんじゃないのかね?」
驚いている私など気にする様子もなく偉そうな人はぴらりと一枚の紙を私に見せました。
おお、この書類はちょっと前に私がサインしたものです。
私、この世界にきて言葉をしゃべったり聞いたりするのは不自由しなかったのですが、書いてある文字はさっぱりわからなかったのです。
研究所の仕事の合間にちょこちょこ人に教えてもらったり、独学で勉強したので簡単な文章は読めるし書けます。
街に出て、お店の看板やチラシを読んだり、子供向けの絵本なんかは難なく読めます。
さらに、研究で計算などをするので、数字などはばっちりなのですが、難しい文章はさっぱりなのです。
日常生活であまり使わない言い回しや単語はまだまだ知らない物が多いのです。
これが、研究に使う魔術用語なら少しはわかるのですが。
この書類は、何やら難しい単語がたくさん書いてあったので、アインスさんに内容を聞いてサインしたのです。
でも、確かこの書類は……。
「この国の国民になるのに必要な書類だって……身元保証人みたいなものだって……」
養女だなんて一言も聞いてないのです。
「イチカさん、貴女をこの国の国民にするにあたって、我々は貴族の身分が必要だと考えたのです。アハトカ家は没落した名だけは残っている下級貴族の家です。家に縛られることもほとんど無いでしょうし、貴族の義務も私の元で研究員をやっている限りは果たせることになっています。ジェーシャチ国で生活していたころと大きく変わることはないでしょう。まあ、苗字が変わっただけと考えて問題ないですね」
大した問題ではないというようにアインスさんはおっしゃいます。
「けれど、名前が変わるんですよ!」
名前は数少ない日本と私の繋がりなのに。
「どうせまたすぐに変わるだろうから気にしなくてもいいだろう」
私の気持ちも知らずに、偉そうな人がしれっと言いました。
気にしなくてもいいなんてそんな! って
「え?すぐに変わるってどういうことですか?」
名前が変わることなんて、そうそうないと思うのです。
嫌な考えが浮かびました。
「もしかしてまた他国に売られるんですか?」
私の悲鳴を上げたような声に、アインスさんがあわてたように私の両肩をつかみ、向き合うようにして私の目を見つめました。
「イチカさん、違いますよ。他国に取られないために養子縁組をしたのです。ですから、他国に売るなんてことありません」
真剣なアインスさんの目に売られることはないとホッとします。
「じゃあ、どうして……」
「結婚したら苗字が変わるだろ」
偉そうな人の声に私は首をかしげました。
「結婚?」
「この国では結婚して嫁に行ったら相手の姓を名乗るようになっている。まあ、婿養子にしたら婿が相手の姓を名乗るのだが」
へー、この国も日本と同じように結婚したら片方の姓が変わるのですね。
夫婦別姓とかじゃないようです。
でも、わざわざ説明してくれるという事は、夫婦別姓の国もあるのでしょうか?
それにしても、結婚ですか。
今まで生きてきた中で、結婚の話が出てくるようなお付き合いをしたことがないのです。
こっちの世界に来て、ほぼ仕事に生きてきたのです。
それに……
「結婚するには年齢が……ううう。違うのです、いき遅れではないのです。結婚できなかったのではなくて、結婚しなかったのです。私は一生独身で仕事に生きるのです!」
「……」
「……」
鼻息荒くいった私の言葉に、二人は無言なのです。
気のせいでなければ、かわいそうな子を見る目で私を見ています。
静かな空間が心に痛いのです。
「あー、で、この書類なんだが」
偉そうな人が、書類に話を戻して、先ほどの私の発言は無かったかのようにされたのです。
きっと、フォローも入れられないほど私が嫁にいけない様に見えたんですね。
いいんです。一生独身でも楽しく生きるんですから!




