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6.白のストック

お待たせしました。六話です。

この話には出てきませんが、過去更新分で王都名を変更しています。

 西方文化圏に含まれるラビストネアの中で、最東端にあるリグスティという土地は少し特殊な立ち位置にある。

 東方最大の国である東邦大帝国と隣接しているからか、東方商人の出入りが頻繁にあり、それによってもたらされる東方文化が西方文化を下地にして上手い具合に融合しているのである。東方文化への造詣が深く、西方文化の基盤もある。それによって生み出された新体系は、東西のどちらから見ても異国的情緒を醸し出し、いたるところに商業都市を築かせた。

 しかしそれは、何もいいことばかりではない。自由な商売を望む商人たちは次第にそれを自治願望へと昇華させ、幾度も領主と激しく対立している。他領より自治意識の強い領民を抱えるリグスティは、ラビストネアの中でもとりわけ扱いの難しい土地だった。

 そんなリグスティだが、二年前の領主更迭以降はすっかり落ち着きを取り戻している。横暴で支配的だった前任の領主に代わって新たに着任したのは、齢二十一のまだ年若い青年だった。

 見目が良く、温厚で、理知的。威圧的で尊大な態度を隠しもしなかった前任とは天と地ほどの差がある。「比べることすら申し訳ない」とは、誰の言葉だったか。

 それほどまでに非の打ち所がない領主が三日前に五つ年下の妻を迎えていることは、──領城勤めの人間を除いてまだ領民の誰ひとり知らない事実である。



 ──丸二日、旦那さまの顔を見ていない。

 リグスティの領城に与えられた私室の窓辺で、ディズは刺繍に勤しんでいた。

 太陽が天頂を過ぎ、日差しの差し込まなくなった窓台に置かれたモチーフは白のストック──求婚騒動の翌日、ルイから見舞いにともらった花だ。

 だからだろうか。ふと、初日以降ちらりともしていない姿を思いだす。

(ラングルット様の話だと、城を空けていた間の執務に追われてるって話だったけど)

 ルイのユソル滞在期間は四日。復路にかかったのは五日。この時点で九日間分の執務が溜まっていることになる。往路の日数も考えればもっとだろう。

(リグスティに来て今日で四日目。この四日間の執務も当然あるわけで……、うわぁあブラック。どうりでイグル様が滅多に外出しなかったわけだよ)

 留守にすればするほど滞った仕事が積み上がるのだ。誰だって引きこもりになる。

 針を置いて一息つき、刺繍枠から絹のハンカチを外した。触れるのも畏れ多いほど上質な絹だ。扱いに細心の注意を払いながら折りたたみ、テーブルに広げた包装紙でできるだけ丁寧に包む。礼返しだから、見栄えにもある程度気を遣わなくてはならない。

 さて、一向に姿を見せない相手にどう渡そうか。

「誰かに預ける? ラングルット様に……いやでも家令だし、旦那さまが忙しいならラングルット様も忙しいだろうし」

 ぶつぶつ言いながら、窓台からテーブルの定位置に花瓶を移動させる。椅子も鏡台の前に戻した。

「散歩ついでに適当に探すかな」

 悩んでいても仕方ないと、ディズは包みを持って部屋を出る。運が良ければルイに一番近い家令がつかまるだろうし、つかまらないならつかまらないで他の侍従に預ければいい。

 与えられた立派な部屋にふさわしい細緻な装飾の施された扉を背に、まだ慣れない城内を進む。

 一昨日は使用人に城を案内してもらい、昨日は城内地図片手にひとりで歩き回った。配置は把握しているけれど、他人の家を歩き回っているような居心地の悪さはまだ残っている。

(広すぎて逆に狭い。こう、肩身的なものが──あ)

 回廊を進んで、エントランスホールに差し掛かったときだ。初日以降、一切姿を見せなかったルイにばったり出くわした。

 しかし邂逅は一瞬。

 予期せぬことに思わず立ち止まったディズの、飾り靴の細い踵が立てた音を拾ったのか、書簡に目を落として難しい顔をしていたルイの目がこちらを向く。無感情な群青の双眸と視線が交わった──と、思った瞬間。


 ふい、と。


 まるでディズなんていなかったかのように目を逸らし、興味もなさそうにその場を立ち去ったのだ。

「え」

 あまりに一瞬のことで唖然と立ち尽くしていたディズの頭は、次の瞬間には疑問符で埋め尽くされていた。

(見えてなかった? いやまさか)

 だってしっかりと目が合ったのだ。ディズの姿を遮るものなんて近くにはないし、ルイの側にも同様だった。ならば何故、と思案した頭がひとつしかない答えを弾き出す。──意図的に、無視されたのだ。

 けれど存在を黙殺される理由まではさすがにわからない。何か気に障ることをしただろうか。まったく覚えがない。

 そもそもリグスティに来てこちら、彼との関わりは初日に部屋に案内してもらったくらいで、ないと言っても過言ではないほどだ。

 それならこちらに来る旅中に何かやらかしたかと記憶を掘り起こしてみても思い当たる節がまるでない。

(ああでも旦那さま、心なしか顔色が悪かったような)

 旅中の彼の姿と、つい今しがた見た姿。それを比較して眉をひそめる。──もしや、睡眠不足ではないだろうか。

 ほんの一瞬だったが、こちらを向いたルイの目の下にはうっすらと黒いものが見えた。眉根を寄せた難しい顔は、捉え方を変えれば頭痛を堪えているときのそれに近い。思い返してみれば、あのきれいな深い群青もいささか澱んでいた気がする。

 口元に手を当て目を伏せて考え込む。考えすぎ、だろうか。

「──奥様? どうかされましたか、このような場所で」

 聞き覚えのある声に、はっと顔を上げた。見れば、気遣わしげに近づいて来るのは探していた目的の人物である。

「ラングルット様」

 ラングルット=タルタンユール。紫檀のように深く赤みの強い紫の髪に朝焼けのような黄褐色の眸を持つ彼は、この城の家令でありルイの側近でもある。

 ユソルのタリフと同じ役職でありながら、その年齢はどう見てもルイと同年ほど。使用人全員の上に立つにはまだ若い年齢だ。

 ディズと目が合うと、彼はにこりと笑う。見ていてほっとする笑みだった。

「よかった、探していたんです」

「私に何かご用でも?」

「これを旦那さまに渡していただきたくて」

 差し出した包みに黄褐色の眸がぱちりと瞬く。

「以前にいただいたお花のお礼なんです。お願いしてもいいですか?」

「構いませんが、直接お渡しにならなくてもよろしいので?」

「お忙しそうなので。うっすら隈ができてましたし顔色も悪かったので、私にお時間取っていただくくらいなら寝て欲しいなと」

「お会いになられたんですか? そのときにお渡ししたほうがよかったのでは?」

 一瞬すぎる邂逅でさらに無視されましたとは口が裂けても言えない。

 ディズは曖昧に笑って誤魔化そうとした。しかしそうは問屋が卸さない。ラングルットがすっと目を細める。

「なるほど、なにかありましたか」

「!? な、なにもないですよ……?」

「実はね、奥様。私、先ほどの光景を見てたんですよ」

「!?」

 動揺した。うろ、と視線が泳ぐ。カマをかけられたのだと知ったのは、ラングルットが顔を背けて肩を震わせたからだ。

 ディズの目が据わった。

「……。ラングルット様」

「ふふっすみません。あまりにも素直な反応が返ってきたもので。まあ状況からおおよそ察しました。主が申し訳ございません」

「別にいいです。お疲れだったんでしょうし」

 思いのほか拗ねたような声音になってしまった。それを誤魔化すように、ディズは続ける。

「余計な口出しかもしれませんが、お忙しくてもしっかり休んでほしいです。旦那さまはもちろんですけど、ラングルット様も」

 寝ている暇などない状況で、その忙しさを知らないディズのこの言葉は大きなお世話になるのかもしれない。

 けれど過度な疲労は体に毒だ。仕事の効率も悪くなる。

 そして夫が無茶をしているのなら、それを諫めるのは妻の役目。つまりこれはディズの仕事でもある。──たとえ数分前に会った夫にいっそ清々しいほどの無視をかまされていたとしてもだ。

「お心遣いありがとうございます。主にもしっかり伝えておきますね」

 まぶしそうに目を細めたラングルットが、そう穏やかに微笑んだ。




***




「いやびっくりするぐらい聖女でした。めちゃくちゃ癒し系でした」

 ノックもなしに執務室に入ってきた家令は、扉を閉めるなり大仰な動作で膝から崩れ落ちた。

 万年筆片手に書類の山を崩していたルイは、大の男が床に手をついてぶつぶつ何かを吐き出している異様な光景を冷めた目で見下ろす。しかしそれに、当の本人は気づかない。

「さすが聖女ですよ。〝癒し〟の力が半端じゃない。あのイグル=マガサウィン伯爵が大事に隠していたのも納得だわ。──って違う主!」

「……うるさい」

 唐突な大声に、眉をひそめる。軽い頭痛を覚えて眉間を揉めば、その間に近寄ってきていたらしい家令が顔を覗き込んできた。その勢いにのけぞるルイを意にも介さず、ラングルットは感嘆したような声を出す。

「ああなるほど。たしかにほんのうっすらとですが隈ができてますねぇ。しっかしよく気づいたな、奥様」

「なんの話だ」

「あなた様が睡眠不足って話ですよ。昨日何時間寝ましたか」

「……、日付が変わる前には寝た」

「へー、ほーん。で、起きたのは何時で? ついでにそれ何日続いてます?」

「……」

「あ、いいです。なんとなく察しました。ついでに答える気がないというのも察しました」

 はー、やれやれと肩を竦めるその大げさな仕草が鼻につく。

 苛々を発散するように大きく息を吐き出したルイは、そのまま首を俯けてゆっくりと左右に傾けた。ついでと言わんばかりに肩を軽く回して顔を上げると、書類の広げられた執務机に先ほどまではなかった包みがちょこんと居座っている。

「? これは?」

「奥様から渡してくれと頼まれました。あなた様から以前に貰った花のお返し、らしいです」

「ああ、なるほど」

 特に何も考えず、鈍った思考のまま包みを開いて、ルイは固まった。不躾にも執務机に手をついて身を乗り出したラングルットが、「うわぉ」と感嘆の声を上げる。

「すっごいですねぇ、この刺繍。どこから仕入れたんでしょう」

「……いや、おそらく彼女の手縫いだ」

「ほっ? え、奥様は職人だった……?」

 困惑したような視線がハンカチに注がれる。それもそうだ。ハンカチに施された刺繍は、おおよそ素人のものとは言い難い出来なのである。

 特徴的な太い茎に、新雪のように真っ白な花弁。花が数本生けられているのは職人の意匠を凝らした花瓶で、窓枠に切り取られた春の穏やかな青空がその向こうに広がっている。

 思わず息を呑むほど繊細なその刺繍はまるで時間を切り取ったようで、彼女が見たのであろう景色をそのままルイとラングルットに共有させた。──それほどに、写実的なのである。

(そうか、サハルベーヌか)

 窓台に置かれた花が、そよ風にそっとその花弁を揺らす。縫い取られたその場面に見入っていたルイは、ふとそう思い至る。

 それはわざわざこちらに回り込んできた家令も同じだったようで、黄褐色の目をついと細めて興味深げに口を開いた。

「そういえば奥様の育て親は服飾工房を経営するサハルベーヌ商会の人間でしたっけ」

「元、だけどな」

「いやだったとしてもさすがですよ、この技術力。──それにしても」

 によっと、ラングルットの口元が歪んだ。

「なぁんで白のストックなんでしょうねぇ?」

 によによ。によによ。

 わざわざルイの顔を覗き込むようにしながら揶揄うような顔を見せてくる家令に、目をすがめる。思わず舌打ちが漏れた。

「……顔がうるさい」

「ひっっどい! それっ! ただの! 悪口!」

 喚くラングルットを放置してハンカチに目を戻し、ルイはそっとため息をつく。

 おそらくこの繊細な白のストックに、ラングルットが気色の悪い笑みを晒すほどの意味は込められていない。

 ルイが渡した花に対する礼だから、その花を刺繍した。ただそれだけだろう。

(これは下手をしたら、渡した花の意味すら知らない可能性があるな)

 見舞いにと渡したストックだが、それ以前にルイがユソルを訪れた理由として彼女への求婚がある。数ある花言葉の中でも、その状況なら誰だって、込められた意味は『求愛』だと思うだろう。あるいは見舞いの花だからと、白という色に限定された『思いやり』か。

 そのどちらで捉えられていても構わない。むしろ都合よく捉えてもらうために選んだ花だ。ルイの真意を隠しつつ、相手が勝手に解釈してくれる、そんな花を。

「もしかしてその刺繍、主が奥様に贈った花を縫ったものだったりして」

「そうだな」

「えっ……マジで?」

 にやにやしながら聞いてきたくせに、あっさり認めてやると家令は絶句する。

「いずれは枯れる花を? 刺繍して? 絶対に枯れない花にして? さらに花を贈った相手に渡す? それって一種の告白への返事ですよね? 最上級のやつですよね?」

「そうだな。彼女は知らないだろうが」

「知らない? 知らないでやったんですか? え、なにそれ。それはそれでときめく」

「なんでだ」

 想いを込めた花を想い人に渡すのは、実は情緒的で甘美なだけではない。いずれは枯れる花に想いを託すということは、花が枯れると同時に込められた心も枯れるというある種の時間制限(タイムリミット)が設けられているということだ。

 だからその想いが不要だと思う人間は何の手入れもせず早々に枯らすだろうし、長く心を留めおきたいと思う人間は大事に慈しむだろう。それは何も恋愛ごとに限ったことではないけれど、花が咲いているうちに返事をという恋愛ごとの駆け引きに最も多用されているのもまた事実だ。

 それを。それを、である。

 ラングルットの言ったように、絶対に枯れない花として、彼女は刺繍を施したハンカチを渡してきた。そこに純粋な返礼以外の他意がまったくないことがわかっているからこそ、頭が痛い。

(そういえば、彼女の部屋の花もまだきれいに咲いてたな。……本当は早々に枯らしてほしかったんだが)

 そんなことを思いながら眉間を揉み、空いた手を白磁のコーヒーカップに伸ばしかけたルイは、そこですでに飲み干していたことを思い出した。

「ラングルット。コーヒーを」

「主がとるべきなのはカフェインではなく睡眠ですよ。あなた様が無視した奥様も心配なさってたんですからね」

「……、彼女がなにか言ったのか」

「いいえ、忙しくても休んでほしいとだけ。無視されたのに主を気遣って、お心が広いったらないですよまったく」

 ルイからカップを取り上げ、ラングルットがぐちぐち言う。

「なんで無視したんですか。娶ったくせに執務を言い訳に引きこもって。もう四日目ですよ」

「言い訳じゃなくて事実だ」

「んなこと今はどうだっていいんですよ。慣れない場所で三日も放置されて可哀想じゃないですか」

「俺は、彼女と必要以上に関わる気はない」

 ラングルットの文句をそう一蹴して、ルイは椅子から立ち上がった。くらりと一瞬目が眩んだが、気にせず入口に向かう。

「一時間ほど寝る。その脇に避けてある書簡、歓迎するとお前から返しておいてくれ。ついでに日程の調整も頼む」

「あ、ちょ、主!」

「パンシオン事業に関しての書類はまとめて二番目の引き出しに入ってるから、それで通してくれてかまわない」

 伝えるべきことだけを伝えて部屋を後にしたルイは、呼び止めるラングルットの声を黙殺して寝室のある私室に直行した。

 寝心地の良い寝台に体を沈めて目を閉じれば、疲労の蓄積した体はすぐさま微睡み始める。

 その眠りの波に身を委ねる直前、真っ白なストックの花弁に似た綺麗な聖色が瞼裏に浮かんだのは、──きっと気のせいなのだろう。


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