5.苦い〈幸せ〉
ルイとの朝食は、庭園の四阿で摂る予定だ。
「おはようございますフィズリーブルー様。今日は唐突にお誘いしてしまって申し訳ございません」
軽く膝を折って礼を取りながら嫣然に笑って見せたディズは、ひとまず第一関門を突破したことを心の中で褒めたたえた。
(よし。すらすら言えたし笑顔も引き攣らなかった……と思いたい。何もおかしなところはなかったはず……!)
いまいち断言できないが、それでも昨日のような異常な緊張がないだけ幾分かマシだ。それに今日は、レクルが後ろに控えてくれている。それだけで充分心強い。
そんな心の余裕から、綺麗に張り付けた上辺だけの笑みが少しだけ剥がれてしまったことにディズは気づかなかった。
「……随分と機嫌がいいな」
「フィズリーブルー様?」
昨日と変わらず隙のない笑顔を作るルイが口の中で何事かを呟く。聞き取れずに首を傾げれば、彼の笑みが深まった気がした。
「体調を崩されたと聞いたのですが大丈夫ですか?」
八割方あなたのせいですけどね、とはもちろん言えず。
「はい、もうすっかり。ご心配をおかけしたこと、並びに昨夜の晩餐会を欠席してしまったことを心よりお詫び申し上げます」
「お気になさらず。こうして朝食に誘っていただけましたので。ああ、それと、本当は見舞いにと用意したのですが」
そう言って差し出されたのは白い花弁を誇らしげに開かせたストックのブーケだった。
「こちらにあるものと被ってしまうのはどうかと思ったのですが、昨日あなたに庭園を案内していただいたときに見せていただいたものがとても見事だったもので。ああ、こちらから頂いたものではないのでご安心ください」
演技、なのだろうけれど。貴公子然とした笑みを浮かべる彼の軽い冗談に、ディズの頬は意図せず緩んだ。
「ありがとうございます。白はユソル城にもなかったので嬉しいです」
「……よかった」
(え)
心の底からほっとしたような声音に、ディズは弾かれたように顔を上げた。しかし見上げた先にあるのは相変わらず隙のない仮面のような笑顔だ。
聞き間違いだろうかと内心首を傾げたとき、後ろに控えていたレクルから声がかかった。
「ディジリアお嬢様。朝餐の支度が整ったようです」
(あ、そうだ。朝ご飯)
ルイがいる手前、いつものように気安く振る舞えないレクルの口調は固く、声もあまり抑揚がない。普段なら少し寂しく思うそれも、今は程よく気を引き締めてくれる材料のひとつになっている。
四阿に移動して席につき、朝食の用意をしてくれた使用人に礼を言ったディズは視線をレクルに移した。
「レクル、あの」
「承服しかねます」
まだ何も言っていない。
あからさまに不機嫌どころか、紫水晶の眸に冷たい色を宿して拒絶する彼にディズの頬が引き攣った。
ちょいちょいと手招いて耳元に唇を寄せ、ルイに聞こえないよう声量を落とす。
「別にいじめられてないですよ?」
「昨日あんな顔しておいてそれを信用しろって?」
「うっ。……昨晩この席を設けてくれることには賛成してくれたのに」
「賛成はしてない、了承しただけ」
「どんな言葉遊びですかそれ」
駄目だ、過保護具合に磨きがかかってしまっている。
席を外してほしいと言いかけただけでこれだ。原因は本人も言っている通り昨日の昼の件だろう。
(いやまあ、私が悪いんですけども)
ルイの言葉に動揺してレクルに弱ってるところを見せてしまったから。ただでさえ過保護気味だったというのに拍車がかかってしまった。
(仕方ない)
こうなったら多少卑怯だが奥の手だ。これで退いてくれないのならもう無理だと諦めよう。
「私、信用はなくてもそれなりに信頼されていると思っていたんですけど……」
「……」
視線を落としてぽつりと呟く。一瞬黙り込んだレクルが恨めし気にディズを睨んだ。
「……ズルくない?」
「お願いします、朝ご飯の間だけでも……!」
「話が聞こえないくらいの位置に控えとくから何かあったら叫んで」
「ありがとうございます」
「いい性格してるよ、ほんと」
長く息をついて渋々引き下がってくれたレクルをにこりと笑って見送る。
──と。それまで黙ってやりとりを眺めていたルイがおもむろに口を開いた。
「仲がいいんですね」
「はい。大事な侍女ですので」
「……侍女、ね。それで、その大事な侍女まで下がらせたということは何か話があるんだろう」
ディズとルイ。ふたりだけが残された四阿で、彼は早々に好青年の仮面を外す。ちらりと離れていったレクルを見やれば、彼は少し離れた先でこちらに背を向けていた。よくできた侍女である。
きのこを煮詰めたスープで唇を湿らせ、ディズは笑顔を心がけながら世間話でもするかのように言った。
「昨日のお話、お受けしようかと思いまして」
虚を突かれたように群青の眸が丸くなる。だがそれも一瞬のことだ。すぐさま驚愕を隠した彼は、訝し気に眉を顰めた。
「随分と早く結論が出たな。滞在の四日は待つつもりだったんだが」
「孤児院にとってもマガサウィンにとっても悪いことではないので」
「あなたにとってはどうなんだ?」
野菜のテリーヌを口にしながら、ルイが何気ない調子で聞いてくる。だからディズも、特に気負うことなく返した。
「孤児院にとって良いことは私にとっても悪いことじゃありません」
「……」
「ですのでこれからよろしくお願いいたします、──旦那さま」
何故かふつりと沈黙したルイの反応を、ディズはこのとき気にもしなかった。
***
ルイの求婚を受けた二日後。イグルやミリア、タリフをはじめとした城の使用人の面々に見守られながら、ディズは城を発つ伯爵家の馬車に乗り込んでいた。これからこの馬車は領都のグトを抜けて、フィズリーブルー公爵家の馬車に先導される形でリグスティに向かうことになる。
ちなみに、公爵家の馬車には畏れ多くて乗れなかった。長旅の間ずっと高価なものに囲まれ続けるのはディズの精神上非常によろしくない。装飾や調度品が高価なのはマガサウィンの馬車も同じだが、公爵家の馬車に比べ、片手で数えられる程度とはいえ乗ったことのあるこちらのほうが精神安定上まだマシである。
ディズの後から乗車したレクルがしっかり扉を閉めたのを合図に、馬車がゆっくりと動き出す。窓にかかる絹のカーテンをそっと払って顔を出し、上品に手を振っているマガサウィン伯爵夫妻に小さく手を振り返した。その後ろでは、使用人たちが総出でディズの門出を見送ってくれている。
徐々に遠ざかっていく彼らの姿が完全に見えなくなってようやく、ディズは窓から離れて座面に座り直した。ちらりと対面に座るレクルを見やる。
「……本当の本当によかったんですか、レクル?」
盛大に主語を省いたその問いかけは、何度も繰り返したものだ。レクルは一瞬だけきょとんとして、深々と息をついた。
「またその話?」
「うっ……。しつこいのはわかってるんですけど、でもやっぱり私について来ちゃってよかったのかなぁって思っちゃうんです」
「良いも悪いも僕はあんたの侍女ってことになってるんだから、ついてくのは当たり前だって。むしろディジリアが侍女を置いていこうとしてたほうがあり得ないんだけど」
じとっと非難するような目を向けられ、ディズはすっと視線を逸らした。
相談も何もせずに結婚を決めたのだから、当然、リグスティへは誰ひとり使用人を連れて行くつもりはなかったのだ。そもそもユソル城の使用人の雇用主はイグルとミリアで、つまり使用人は彼らの財産でもある。それをマガサウィン家のひとりとは言え、たかが養女が引き抜くなど図々しいにもほどがある。
しかしレクルにしてみれば、単身で嫁がせるなど言語道断だったらしい。ディズのフィズリーブルーへの嫁入りが決まったとわかるや否や、タリフに随従の旨を伝えてイグルの許可を取り、こうして同じ馬車に乗り込んでいる。しかもそれを出立の今日までディズに隠し通すという用意周到っぷりだ。曰く、「先に伝えてたら遠慮して何が何でも止めようとするでしょ」らしい。ディズの性格を完璧に把握している。
「そもそも僕はあんた付きになった二年前の時点で、あんたの所有物であって城の財産じゃなくなってるから。維持費がイグル持ちなだけだよ」
「そういう言い方は、好きじゃないです」
「だろうね」
不快さを全面に顔をしかめるも、レクルはまったく取り合わない。ディズの言い分を受け止めても受け入れる気はないのだ。けれどディズがしつこいほどにレクルの意思を確かめようとするのには理由がある。引き下がる気はない。
「……レクルはユソルに妹さんがいるって」
「だーかーらー、あっちは僕のこと知らないんだって。生き別れて十年以上経ってるんだよ。あの子を探してたのは僕の自己満足のため。見つけたからってどうこうする気はないって言ったでしょ」
「それでも、せっかく見つかったんですよ? 名乗るつもりはないって言っても、ユソルを離れなかったのは妹さんがいるからでしょう……?」
「っ」
図星だったらしいレクルは、言葉に詰まってくしゃりと前髪を乱す。深く息を吐き出す彼の眉が、困ったようにへにゃりと下がった。
「それは、そうだけど、……ああもう、僕がついていくのはそんなに迷惑?」
「そんなわけないです! ただ、私のせいで離れ離れにしてしまうのは申し訳なくて……」
大腿の上で手を組んで、ぼそぼそと言う。からころ揺れる馬車の中じゃなければ隅で膝を抱えたい気分だ。
(こんな道連れみたいなことしたくなかったんだけどなぁ)
迷惑をかけるのは本意じゃない。レクルは優しいから、ディズに気を遣わせないよう平気な素振りを見せているが、十年以上も前に生き別れた妹を探してユソルに辿りつくほどだ。彼が彼の妹をどれほど大切に思っているのかなんて、考えなくてもわかる。
「ディジリアのせいじゃないよ、僕が決めたことだし。それにさぁ、ディジリア」
組んだ脚に肘を乗せて頬杖をつきながら、紫水晶の眸がディズの顔を覗き込んだ。
「僕のことよりあんたはどうなの? ノーア孤児院に何も伝えてないでしょ」
今度はディズが言葉に詰まる番だった。
「一般的に設けられるひと月の嫁入り準備期間は、そういう関係の整理をするためのものでもあるって聞いてるんだけど。今までみたいに気軽に会いに行ける距離じゃなくなるんだからお別れくらい言うべきじゃない?」
「……お別れならしてきましたよ」
「寝てる相手の顔を一方的に見て、頭を撫でて出てくるのはお別れって言わないんだよ」
「え、なんで知ってるんですか」
まるで見ていたかのような物言いに顔を引き攣らせれば、「あんたのやりそうなことは大体わかる」と返ってきた。ぐうの音もでない。
「……まあ、面と向かって言う勇気なんてなかなか出ないよなぁ……。早く離れて未練を断ち切りたいっていうのもわからなくもないし」
ディズの嫁入りは本来ならばひと月先のはずだった。花嫁はこの期間に身の回りの整理や、育った家を離れ他家へ嫁ぐことの覚悟を決める。結婚前の最後の自由時間でもあるのだ。
けれどディズはそれをすっ飛ばし、ルイの帰領に同行を申し出た。求婚に対する返事の猶予は滞在の僅か四日間しか与えてくれなかった彼だったが、嫁入りの準備に関してはたっぷり時間を与えるつもりだったらしい。群青の眸を微かに瞠ったあと、養親の手前温厚怜悧な紳士の仮面を外すわけにもいかず、彼は柔和な笑顔で「あなたがそれでいいのなら」と言ってくれたのである。
(本当に二面性があるというか、裏表が激しいというか……)
ディズとふたりきりの空間では、ルイはにこりともしなかった。無表情で、どこまでも静かな群青の眸は、何を考えているのかを一切こちらに悟らせない。纏う雰囲気までもががらりと変わり、柔らかな印象は掻き消える。
仮面どころか全身を鎧で覆っているような隙のない立ち居振る舞いは貴族としては完璧なのだろうけど。
(疲れたりしないのかなぁ)
「ディジリアはさぁ、なんでリグスティ領主の求婚を受けたの」
自分の考えに没頭していたディズは、唐突なレクルの問いに二、三度瞬いた。
「どうしたんです、急に」
「ずっと訊こうとは思ってたよ。でもあんたはこの二日間、ミリア様に呼ばれたり嫁入りの準備したりでバタバタしてたじゃん。僕も荷造りしないといけなかったし。だから今訊いておこうかなって。ある程度予想はついてるけど」
「えー……。なら聞かなくてもよくないですか?」
「こら、面倒くさがらない。必要の有無じゃなくて、あんたの口から聞くことに意味があるんだよ。僕の予想はあくまで予想なんだから、それが正解とは限らないでしょ」
すっと伸びてきた指に軽く額を弾かれる。
わかったらさっさと吐けと言わんばかりに笑顔で圧をかけてくるレクルに、ディズは不承不承口を開いた。
「孤児院の援助を申し出てくれたので……」
「……そんなことだろうとは思ってたけどさぁ」
深々とため息を吐き出して、レクルが疲れたように天を仰ぐ。
「本当に孤児院ばっかりだよね」
「む。一応マガサウィン家への恩返しも兼ねてますよ」
「そうじゃなくて、自分のことは二の次だよねって言ってんの」
レクルの言いたいことが理解できず小首を傾げる。再び、彼から重いため息がこぼれた。
「嫁ぐのは孤児院への援助と、マガサウィンへの恩返しのため。別にそれが悪いことだとは言わないよ。……でもそれって、ディジリアはどこにいるの? そのふたつを差し引いたときあんたの気持ちはどこにあるの? あんた自身の幸せは? 結婚って、離婚しない限り半永久的に一緒にいるってことだよ」
まるで幼子に言い聞かせるような口調だった。ディズは膝に視線を落とす。
(また〈幸せ〉……)
普段は口にしない、聞くこともあまりないその単語を、この数日で何度聞いただろうか。
ユソルの使用人たちは口を揃えて言っていた。「お幸せに」と。
結婚を決めたとき、ミリアは嫣然と微笑みながらもその顔に不安そうな色を浮かばせた。
──〝勝手に盛り上がってしまったけれど、女の子にとって結婚は幸せの象徴だもの。あなた自身の幸せがないのなら、この縁談は断ってもいいのよ?〟
わけがわからなかった。おかしな話だと思った。貴族の子女にとって婚姻は義務。家の繁栄のための確実な手段のひとつ。政略結婚が当たり前で、恋愛結婚の方が希少な世界なのに、ミリアはディズの〈幸せ〉を問うてくる。
(幸せってなに? 私は家族が幸せならそれでいいのに。家族の幸せが私の幸せなのに。……私は、私だけの幸せなんていらないのに)
どうにも上手に答えられない。ディズの中にある幸せを、みんなは形容しがたい顔で聞く。困ったような、悲しそうな──そんな、なんとも言えない顔で。
ソルルタの曇り顔を思い出す。胸が詰まって、吐き出そうとした呼気が一度喉につっかえた。
レクルもきっとソルルタと同じ顔をするのだろう。
彼の幸せは、ディズがユソルを離れると決断した時点で潰えてしまった。家族も同然な彼の幸せを身勝手に壊した時点で、ディズが結婚に幸せを求めるなんてできるわけがない。だって彼はきっと、ディズがどこに嫁ごうがついてきてくれるのだ。そしてディズには、心からそれを拒むことができない。
眉を下げて、へらりと笑う。
「…………大丈夫、ちゃんと幸せですよ」
この結婚は、〈幸せ〉なのだ。孤児院の子どもたちが健やかでいられる。マガサウィン伯爵家が王族の傍系でもある公爵家と確かな繋がりを持てる。このふたつに、悪いことなんて何もない。
ルイの思惑は知らないけれど、このふたつに対する対価が妻ならば、全力で役目を真っ当するのがディズの仕事だ。
(結婚は永久就職とも言うし、旦那さまの妻はお仕事。……よし、大丈夫)
レクルは何も言わなかった。ただじっと、凪いだ紫水晶の眸でディズを見つめている。
やがて彼は、すべてを見透かしたような目で諦めたように肩を竦めた。
「……わかった。しょうがないから侍女してあげる。だからディジリアも、ひとりで抱えないでちゃんと僕を頼りなよ」
「うん、ありがとうございます」
「まったく厄介なご主人サマだよ、ほんと」
ぐしゃりと撫でてくれる手つきは、呆れたような言葉とは反対にどこまでも優しかった。




