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4.決めた覚悟

2018/12/02 ソルルタの色彩に誤りがありましたので訂正しています。

 夢も見ないほどの深い眠りから覚めたとき、外はすっかり夜だった。

 ガス灯がまばらに配置された夜道を、ディズは足早に歩く。

 寝起きの割に妙に冴えていた頭で城を抜け出したのは一時間ほど前。軽装をしまってある寝室のクローゼットから外套を引っ張り出して纏い、レクルが置いてくれたのであろう水差しの柑橘水で喉を潤した。水差しと同じくキャビネットの上に置かれていた籠からかぼちゃのクッキーを数枚布巾に包んで、行儀は悪いが食べながら道中を急ぐ。

 ランタンを片手に向かう先は孤児院だ。昨夜と同じような時間帯だが、今日は訪ねる約束はしていない。だからきっと子どもたちはとうに寝静まっているだろう。

「……ついた」

 ようやく見えた孤児院に、何故だか涙腺が緩んだ。鼻の奥がつんとするのを無視して慎重に扉に手をかける。そこで気づいた。

(あ、今日帰るって言ってなかったから鍵かかってるかも。ソルルタ先生、もう寝ちゃったかな)

 外套のポケットから取り出した懐中時計を見ると、ちょうど日付が変わったばかりの時間だった。試しにノブを回してみたが、やはりしっかり施錠されている。

 玄関から入ることを諦めて院長の私室がある方に回る。ところどころひび割れている窓を控えめに数回叩くと、継ぎ接ぎだらけのカーテンがゆっくりと開いた。

(よかった、まだ起きてた)

 窓の向こうの相手は、夜闇の中ランタンに照らされた養い子の姿に驚愕を露わにする。眉を下げてへらりと笑ったディズに一瞬表情を険しくした後、玄関に回るように目配せしてきた。

「おかえり、ディズ」

 施錠が解かれる音がして、昨晩と同じ声に出迎えられる。ディズは小声で「ただいま。二日連続で帰ってきちゃいました」と返した。

「遅くにごめんなさい。寝るところでした?」

「いいえ、寝つけなくて本を読んでいたのよ。あの子たちが寝ていてよかった、起きていたら今頃お祭り騒ぎになっていただろうから」

 もっとも、明日お前が来たことを知ったらみんなこぞって拗ねるんでしょうけどね。

 身に纏う薄幸の雰囲気を吹き飛ばすように、彼女は快活に笑う。

 ソルルタ=サハルベーヌ──ユソル一外観のくたびれたこのノーア孤児院の院長で、ディズの育て親でもある。

 緩く癖のある紅茶色の髪は手入れが面倒だからと肩ほどで揃えられ、髪と同色の睫毛に縁取られた眸は白群。すらりとした肢体は長身の部類だが、体の線が細いおかげでとてもじゃないが大柄には見えない。

 三十四になるソルルタが孤児院を運営し始めたのは二十一の頃だ。あの頃はこのおんぼろ孤児院もまだそこまで傷んでいなくて、孤児もディズひとりだった。

 それが今ではディズを抜いて子どもが八人もいる。家族が増えることは喜ばしいが、ここが孤児院であることを考えると喜んでいいものか。新顔が増えるたび複雑になったのはここだけの話だ。

「ディズ、おいで」

 手招きされてキッチンに入り、促されるまま椅子に座る。

 そのままソルルタの動向を見守っていると、彼女はウォーミングオーブンから出した皿をことりとテーブルに置いた。

 ディズが小首を傾げると、ソルルタは目をすがめて悪戯っぽく笑う。

「顔を見れば大抵のことはわかるわよ。お前、今日まともに食べていないでしょう」

「うっ」

 あっさりと見破られ、言葉に詰まった。確かに振り返ってみればディズが今日口にしたのはクッキーと柑橘水だけだ。朝食は来客に対しての緊張で、昼食、夕食にいたっては寝ていたためにまともな食事を口にできていない。

 咎めるような視線から逃げるようにクリームスープをすくって口に含む。柔らかい牛乳の香りが口内に広がって、少し歯を立てるだけでじゃがいもがほろりと崩れた。

(……落ち着く)

 裏の畑で採れた野菜を使って作られたスープ。申し訳程度にしか入っていない鶏肉をめぐって子どもたちが争奪戦を起こすのはいつものことで、得られなかった子たちは半ばやけくそになって野菜を頬張る。

 それが日常だったから、思い出すことなど容易い。今は夢の中にいる子どもたちはみんな個性が強く、毎日が賑やかだった。

(今日もじゃんけん大会したんだろうなぁ)

 食事の席で最早恒例となっていた熾烈な争いを思い出してつい笑いそうになった。表情を緩ませるディズに、ソルルタはゆったりと目を細める。

「ディズ。お前は今、ちゃんと幸せ?」

「っ……どうしたんですか、突然」

 一瞬、心の内を見抜かれたのかと思った。昼頃にあったルイとのやりとりなんてソルルタは知らないはずなのに、それすら知られてしまっているような錯覚に陥る。決めた覚悟と、その覚悟で踏み出すための勇気を貰うためにこんな夜半時にここを訪れたこと。そのすべてを、この育て親が悟っているような気がして。

(さすがにありえないか。だってイグル様とミリア様以外、お城のみんなでさえぎりぎりまでフィズリーブルー卿の訪問は知らされてなかったわけだし。どこかしらのお貴族様が来たってことは知られてたとしても、その詳細までは出回るはずがないし)

 少し言葉に詰まったのを、ディズはへらりと笑って誤魔化す。即答できなかったことを悔いつつ問い返すと、対面に座るソルルタの表情が僅かな翳りを帯びた。

孤児院(ここ)のためにお前には苦労をかけてしまっているから……。お金のためとはいえ、何も貴族の養子になることなんてなかったのに」

「私がしたくてやったことですよ。生活のためにお金は必要だし、生きていれば苦労のひとつふたつ誰だってします。私だけじゃないでしょう?」

「違うのよ、ディズ。お前が心から望んだことなら私は応援するわ。でもそうじゃないでしょう? お前がマガサウィン様の養子になったのは孤児院のためで、お前の本当にやりたいことだとか夢のためだとかそういったものじゃない。私はそれが」

「先生」

 憂い顔のソルルタの言葉を遮って、ディズは紅茶色の眸を見据えた。

「私、幸せですよ。別世界に飛び込んだせいで苦労は確かにしてますけど、でも私は孤児院(この家)のために苦労することができて幸せです。マガサウィン様のところに行ったのだって、みんなが暮らしやすくなるようにしたいっていう私の夢のためなんです。──ここのみんなの幸せが、私の幸せなんです」

 少しでも家を助けたい。大事な家族が幸せならそれだけでディズは幸せだ。心から、そう思っている。

 だのに、ソルルタの表情は曇るばかりだ。

 どうにかその曇り顔を晴らしたくて、ディズはそっと付け足す。

「本当ですよ? 帰って来てみんなと先生の笑顔を見るのが私の楽しみなんです。みんなが元気でいてくれるのが嬉しいんです。だからそんな悲しそうな顔しないでください」

「……頻繁に帰ってきてくれるとはいえ、娘が手元から離れたら寂しくも思うわ。でも、そうね。ありがとう、ディズ。私もお前の笑顔が好きで、お前の元気な姿を見られると嬉しいわ。だから、自分の心を狭くて窮屈な場所に押し込めるようなことをしてはダメよ」

「……はい」

 ソルルタの言葉にディズは曖昧に微笑んだ。スープ皿の中身を干すまで何気ない話に花を咲かせあと、後片づけを引き受けてくれたソルルタに礼を言って、子どもたちが雑魚寝する大部屋に向かった。

 起こしてしまわないよう細心の注意を払って足を踏み入れ、まるで見えない壁でもあるかのように左右に分かれて寝ている子どもたちの姿にディズは瞬きをする。

 敷布の中心にひとひとり分だけ開けられた空間。そこは昨晩、ディズが眠っていた場所だ。

「……リディ、ハルロ、ルタ、イーディ」

 ずれた毛布をかけ直してやりながら、ディズはその場所に腰を下ろす。マガサウィン家の養女になってからは意識していた座り方も、今は孤児院にいた頃のように胡坐だ。

「アリザ、ティータム、クロカ、スーロン」

 ひとりひとり名前を呼んで、その穏やかな寝顔を眺めやる。手を伸ばして近くにいた少女の頭を撫でたのは無意識だった。触れた途端寝返りを打った彼女に起こしてしまったかと焦る。けれどその瞼が持ち上がることはなく、安堵の息が唇から漏れた。

(当たり前だけど、二年前よりみんな大きくなったなぁ)

 他の孤児院に比べれば、孤児の人数は少ない。それでも二年前、ディズがマガサウィン家に養子入りするまでは、その日を食つなぐだけでも精一杯だった。ソルルタが細身なのは、育ち盛りの子どもたちに遠慮してあまり食べていなかったからでもある。

 それが今では、その日の食べ物に困ることがない。外観こそ廃墟一歩手前だが、食生活は栄養面から見てもだいぶ改善されている。みんなの背が順調に伸びていることが健康の証だ。

 二年前よりまろみを帯びている子どもの頬を撫でて、ディズは目を細める。

(頑張ろう。今さら罪悪感なんて持つ必要はないよ、私。二年前からずっとマガサウィン様を利用し続けてるんだから。使えるものは使わないと)

 ルイがこの縁談で得られる利益は何なのか。ずっとそれを考えれいたけれど、考える必要なんてないのかもしれない。だって知ったところで何も変わらないのだから。

 一度寝て落ち着いた頭で出した結論。相手側の利益を考えたところで意味はない。

 ──〝これは利害の一致〟

 今はただ、双方に利益があると。それがわかっていればそれでいい。

 それだけで、少しは罪悪感が薄れてくれるのだから。




「レクル? 何でここにいるんですか?」

 ソルルタに城に戻ることを伝えて孤児院を出たとき、門の近くに栗色の髪を遊ばせる人影があった。

 昼間のような仕着せではなくディズと同じように外套に身を包んだ彼は、少し怒ったように眉を吊り上げる。

「夜道をひとりで歩くなって言ったはずだけど?」

「あ」

 完全に忘れていた。

 容赦なく睨まれて顔が引き攣る。

「眠れなかったから部屋に様子見に行ったらいなくなってるし、クッキーと水はしっかり減ってるのに書き置きを見た様子はないし?」

「書き置き?」

「『晩餐会、体調不良ってことにしといたから』って書いてわざわざ置いておいたんだよ」

 小さく折り畳まれた紙を押し付けられ、ディズは目を白黒させる。

「今日晩餐会だったんですか?」

「そう。タリフさんがアンタに伝えてくれって言ってたけど顔色悪かったから無理に起こすのも可哀想だしって断っといたんだよ。なのに部屋から消えてるし……ディジリア、僕これでも怒ってるんだけど何か言うことは?」

「ごめんなさいありがとうございます」

 じとっと据わった目を寄越され、脊髄反射で言葉が口から飛び出した。

 それでひとまず溜飲を下げたらしいレクルが、ディズからランタンを奪い取る。「ほら、戻るよ」と促され、ディズは素直にレクルの隣りに並んだ。

「レクル。明日の朝食はフィズリーブルー様も一緒でしょうか?」

「何も聞いてないから別だと思うけど」

「なら、お相伴させていただけるよう取り計らってもらいたいんですけど」

 言った瞬間、レクルの足が止まった。

「は? 僕の聞き間違い? なんか一緒にご飯食べたいって聞こえたんだけど」

「? そう言いました」

「……正気?」

 驚愕顔から一転、不機嫌そうに目を据わらせた彼の声が一段低くなる。

「昼間、アンタにあんな青い顔させたのはあの男でしょ。なんでそんな奴と一緒に食事しようと思うのさ」

「もてなしの晩餐会に出られなかったのでそのお詫びをしようと思いまして」

「はあ? 謝るのはあっちだろ」

 普段の彼からは想像もつかない粗雑な言葉遣いに、ディズはぱちぱちと瞬きをした。

「レクル? もしかして何か怒ってます? 男の子みたいに言葉が荒くなってますよ」

「……別に。っていうか僕、歴とした男なんだけど」

「別にってそんな半眼で言われても納得できないんですが」

「…………大事なお姫様にあんな顔させたやつ、赦せるわけないだろ。近づけたくもない」

「お姫様って……」

 柄じゃないんですけど。

 そう言いそうになったのを慌てて堪える。つまりあれか。

(私がいじめられたと思って怒ってる……?)

 実際はいじめられた事実などなく、ただ取引を持ち掛けられただけなのだが。

 それでも、心配なあまり怒ってくれているレクルの気遣いは素直に嬉しい。

「……なにその締まりない顔」

「いえ、過保護で心配性だなぁと思いまして」

「……」

 自覚するところがあったのか、レクルは特に反論することもなく黙り込んだ。

 その袖を引いて歩き出しながら、それでもとディズは続ける。

「もてなしの席を欠席してしまったのは事実ですからお詫びはしないと。お願いしてもいいですか?」

「……わかったよ」

 渋々折れてくれたレクルはしかし、不機嫌さを隠そうともしない。

 そのあからさまな態度にくすりと笑って、ふと昼間の件がどこまで噂として出回っているのか気になった。

 あの場に居合わせたタリフを筆頭とする使用人たちが言いふらすような性格でないとわかっているからこそ──

(何も知らないひとから見たら妙齢の男女が朝っぱらからふたりで会うのはもしかしてまずい……?)

 おしゃべりなメイドたちに知られれば、あっとういう間に尾ひれどころか胸びれまでついた勘繰りだらけの噂が出回るだろう。

(レクルが何も言ってこないってことは、少なくともメイドたち(みんな)はフィズリーブルー様の求婚(提案)を知らないのかな。……でもレクルが私に気を遣って言ってこないだけかもしれないし)

 判断に困るところだ。

 いっそのこと正面から聞いてしまおうとレクルに顔を向けたディズだったが、物言いたげにこちらを見つめる紫水晶(アメジスト)の眸と視線がぶつかって盛大に出鼻をくじかれてしまう。

「レクル? どうしました?」

 名を呼ぶと、彼は嫌に神妙な顔で口を開いた。


「ディジリア。僕、──リグスティの領主のこと嫌いなんだよね」


 ──急に、どうした。

 予想だにしなかった言葉にディズは絶句する。法外な場所から投げ込まれた言葉の意味を一瞬で凍結した脳がじわじわと理解し始めたころ、「いや、違うな」とレクルが続けた。

「リグスティの領主が嫌いなんじゃなくてリグスティの領主みたいなやつが嫌いなんだ。嫌いっていうより人間として好きじゃない」

(それはほとんど嫌いと同じですね)

「だって頼んでもないのにわざわざ自分の領から出てきて求婚とか、アンタのこと考えてないじゃん。しかも公爵だよ? 断りづらいどころか断らせる気ないよね。そのうえ滞在期間は長くて四日! 別に四日以上いてほしいわけじゃないけど考える時間少なすぎるでしょ、腹立つ」

「れ、レクルさん?」

「だから」

 一度言葉を区切った彼は、おもむろにディズの頭に手を乗せた。

「逃げ道は僕が用意しておく」

 たった一言。そう告げて、レクルは不器用に頭を撫で回す。

「っ、……」

 ぐしゃぐしゃと乱された髪が視界を覆う中、ディズは込み上げるものを無視して口角を引き上げた。

「う、ん。頼りにしてます」




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