3.笑顔の裏の企み
よくよく考えてみれば、おかしな点はいくつもあった。
今朝急に聞かされたリグスティ領主の訪問。そしてそれを養親以外、側近のタリフすら昨晩まで知らされていなかったという事実。小躍りしそうなほど朝からやけに機嫌の良かったイグル。そして何を隠そう、前は三日に一回の頻度で足を向けていた孤児院に十日も行けていなかった原因は──何故か急に増えた淑女教育だ。
気づく機会はいくらでもあった。いや、嫌な予感がしていたからこそのあの極度の緊張だったのだ。淑女教育の目的に関しては薄々気づいていたというのにわざと見ないようにしていた。考えてみればディズももうすぐ十七。いくらもとが孤児とはいえ、今現在マガサウィン伯爵家の娘という立場に収まっているのだからいつかどこかしらに嫁にやられるのは当たり前のことである。
だがしかし。今日この日までディズの中に〝結婚〟の二文字はまったく浮かんですらいなかったわけで。
(……いや、ない。ないない、むり。そもそもお貴族様の結婚って家同士の結びつきがなんたらってやつで今の私にそんな重要な役が務まるわけがないというか、え? 聞き間違いだよね?)
「ディジリア嬢?」
ひょいと視界に飛び込んで来た南国の海を思わせる深い青に、ディズの混乱していた思考は強制的に打ち切られた。ぱちぱちと瞬いて見返せば、そもそもこの大混乱の原因であるルイが柔和な相貌に笑みを乗せる。
「大丈夫ですか? 心ここに在らず、といったようでしたので」
「あ、はい。大丈夫……です」
誰のせいだと思ってるんですかこの野郎。そう言えたら楽だが相手は恐れ多くも他領の領主。まさかそんなこと、口が裂けても言えるわけがない。
曖昧に微笑んで取られたままだった左手をさりげなく取り返し、ルイから視線を逸らす。傍から見れば綺麗な微笑みも、自分に向けられた途端に恐怖が襲うのだ。
求婚は聞き間違いですよね、と聞き返す勇気もなく困り果てたディズは養親に救いを求めて視線を滑らせた。──しかしそれも、数秒と経たず後悔することになる。
にこにこと笑みを絶やさないマガサウィン夫妻。イグルにいたっては困惑気味のディズの視線を何だと思ったのか、目が合った途端、よかったねとでも言わんばかりに何度も頷いている。全然、まったく、何も良くない。
(れ、レクルー!)
心の中で叫んだ名を持つ人物は、悲しいかな、こんな時に限って近くにおらず、ディズはルイと対面したまま途方に暮れた。
(聞き間違い聞き間違い。それか何かの冗談だよ。うん、そうだよ冗談だよ。だってタリフさん言ってた。イグル様は昔からお茶目だったって。だからそのお友達? のフィズリーブルー様だってきっとたぶん絶対お茶目でこんなこと言ってるんだよ聞こえなかったことにして流せばだいじょう──)
「ディジリア嬢。残念ながら私はこのような悪質な冗談は言いませんよ」
「……ソウデスカ」
望みが絶たれた瞬間だった。ひくりと顔を引き攣らせるディズを見かねたのか、使用人の中で誰よりも先に我に返ったタリフが「僭越ながら」と口を挟んでくる。
「突然のことにお嬢様も戸惑っておられるご様子。昼餐まで今しばらく時間もあることですし場所を移してはいかがでしょうか、イグル様」
(タリフさんんんー!)
その場で平伏して拝みたい気持ちを堪え、胸中で叫ぶに止める。表面上は何とか取り繕っているが、出会い頭に爆弾を落とされたせいでディズの混乱は未だ収まってなどいなかった。
信頼している従者からの進言に、イグルはしばし逡巡する様子を見せる。
「ふむ、確かにいつまでもここにいるわけにもいかないか。ならば応接間に──」
「お庭を案内なさってはいかがでしょう。この時期ですしクロッカスやストックが見頃ですよ」
「ああそうか。それもいいなぁ──ディジリア」
どこか楽しそうにディズの名を呼び、イグルはゆったりと目を細めた。
「フィズリーブルー様を案内して差し上げなさい」
──そういった経緯を経て今現在、庭師力作の庭園をルイとふたり歩いているわけなのだが。
(……気まずい)
見える位置に養親の姿があるとは言っても、四阿にいるふたりとはそれなりに距離がある。仲睦まじく談笑している内容が聞こえないように、こちらの声も意図して張るなり声量を上げるなりしないかぎりあちらには聞こえないだろう。
(お貴族様って普段どんな会話するの…!? 天気がいいですね、は……見ればわかる。というか悪天候だったらタリフさんが散歩を勧めてくるわけがない。お仕事何なさってるんですか、おいくつですか、ご趣味は──ってお見合いか!? ……お見合いだった……)
自分の思考に自分で突っ込んで、ディズは混乱する。
お前が案内役だとイグルに無茶振りされて始めた庭の散策だが、自分でも驚くほどに話題がなかった。
何とか会話の糸口を掴もうにも、思いつく内容すべてがどうにも見合いのように思えてしまって口に出すのが躊躇われる。いや、事実見合いのようなものなのだが。
というか、案内役を任されはしたものの、まさか完全放置されるとは思わなかった。
(お客さん放置していいんですかイグル様!? しかもこのひとなんか笑顔怖い……)
だいぶ失礼なことを考えながら、無駄だとわかっていても四阿にいる養親に目を向けた。顔を見合わせて笑っている。客と、ひとりで勝手に気まずい思いをしている養女は完全に視野の外だ。
ディズがちらちら養親を気にしていることに気づいて、同じように四阿を見やったルイが「ああ」と微笑ましそうに目を細める。
「マガサウィン夫妻はとても仲睦まじいようですね」
「そ、うですね。私が来たときからあんな感じです」
(あ)
慌てて要らんことまで言った。
にわかに焦り出すディズとは対照に、ルイはさして気にした様子もない。「そうですか、羨ましいかぎりです」とあっさりした返しに、ディズの焦りもすとんと落ち着いた。
(そっか。マガサウィンの娘が実子じゃないってことはさすがに知ってるか……。イグル様とは顔見知りみたいだし、貴族社会は情報が命だって言うし)
尤も、相手があらかじめ知っていたからといってディズが口を滑らせたことに変わりはないが。
余計なことだとわかっていてもついぽろっと零してしまうのは、まだまだマガサウィンの娘だという自覚が足りないからだろう。それがわかっているから今まで社交場に顔を出したことはなかったし、養親も特に何も言ってこなかった。何よりディズは、孤児院への未練が捨てきれないでいる。
貴族の娘としてはもとが孤児であることなど早々に忘れたほうがいいのだろうが、物心ついたときから孤児院にいたディズにとって孤児院は〝今の自分〟そのものであり、大事な思い出でもある。そう簡単に忘れられるものではない。
かと言っていつまでも引きずっていたら、それこそ社交界では生きていけない。
(社交界に顔を出すようになったら私もお貴族様たちみたいに腹芸が得意になったりするのかなぁ。笑顔なのに笑顔じゃないとか……───あ)
ふと覚えた引っ掛かりは、簡単に答えが見つかった。
ぱちぱちと二、三度瞬いて、ディズは隣を歩くルイを見上げる。視線に気づいたルイが、少し不思議そうにしながら口元に笑みを刷いた。綺麗な微笑み。目元を和ませるところまで完璧で、少し口の端を上げるだけでルイは誰もが見惚れるほどの絵になる。だがディズの背筋に走るのは、相変わらずぞわっとした怖れだ。
イグルやミリアに向けられているときは平気で見ていられた。傍から見るぶんには何ら問題はない。けれど自分に向けられると駄目だ。理由は──完璧すぎる笑顔にディズが慣れていないから。
(膠で塗り固めたみたいなんだ、このひとの笑顔は。笑ってるのに、何を考えてるのかまったくわからない)
目が笑っていない、だとかそんな生易しいものではない。笑顔の奥の、柔らかい色を宿す群青の眸の奥にあるものがあまりにも空虚で。
「ディジリア嬢? どうかされました?」
「……何故、私なんですか」
彼の端整な顔に浮かんだものは、何かしらの企みを隠すための術だ。貴族の常套手段で、マガサウィンの娘である限りディズもいつかは慣れなければならない腹芸。
理由がわかれば、無意識に怖がる必要もなくなった。今まで見ることを避けていた笑顔を正面から堂々見据えて問えば、一瞬きょとんとした柔和な相貌が笑みを深める。
「一目惚れです」
──胡散臭い。
反射的に顔が歪む。
「その顔は信じていませんね?」
くつくつと喉の奥で笑うルイに指摘され、ディズは渋面になった。だがここで引くわけにはいかない。
「……訊き方を変えます。何故、マガサウィンなんでしょう」
「随分、率直な物言いをされるんですね」
「私にフィズリーブルー様のような腹芸はできませんから」
「……腹芸、ね」
群青の眸が面白そうに細められる。
「存外、容姿に似合わず肝が据わっているようだ」
それまでの丁寧な口調をかなぐり捨てて、それでも口元の笑みは絶やさず、ルイはディズを見下ろした。ディズも負けじと睨み返す。
「貴族の婚姻は、家同士の結びつきを強固にするためと聞いています。マガサウィンの娘と結婚して、フィズリーブルーに利があるとは思えない」
出迎えの際、イグルは彼に対して丁寧な態度を崩さなかった。確実に十以上年下であろうルイに、それなりに酸いも甘いも噛み分けた人生の先輩であるイグルが敬意を表した理由として考えられるのはただひとつ。──フィズリーブルーの家位や血筋、財力がマガサウィンよりも上だから。
仮にディズが求婚を受けてマガサウィンとフィズリーブルーが結びついたとして、利益があるのはマガサウィンだけだろう。
その予測に、ルイは一切否やを唱えなかった。
「確かにフィズリーブルーは王族の傍系にあたる公爵家。マガサウィンより家位も血筋も上だ。伯爵家に頼るほど財力がないわけでもない」
「……」
「何故あなたのか、か。そんなものは至極単純。ルキゼッタ=フィズリーブルーがそう望んだから。そして利の有無を決めるのはあなたではなくこちらだ。……それに、この婚姻はあなたにとって利しかないはずだが」
「私に利益?」
眉を顰めると彼がうっそり笑う。笑顔の種類が変わった、と思った。
さきほどまでの笑顔が相手に企みを悟られないための仮面なら、今は相手を確実に抱き込むためのもの。
気づけば、柔和な笑みはどこかに消え去ってしまっている。固唾を呑み込むディズから一度視線を外して四阿を見やったルイは、「孤児院」と囁くように言った。
「孤児であるディジリアがマガサウィンの養女になってから、マガサウィン家はあなたのいた孤児院に援助金を多めに割り当てているんだろう。それでも院の外観にまでは手が回らない。あなたがフィズリーブルーに嫁ぐというのなら、妻の育った場所ということで体裁を気にすることなくフィズリーブルーからも金が出せる」
「っ、……それは」
「それと。あなたが言ったようにマガサウィンに利しかないこの婚姻は、イグル殿に恩を返す良い機会なんじゃないのか」
ひゅっと喉が鳴った。
ディズには、イグルとミリアに恩がある。二年間、何不自由なく生活させてもらえた。貴族としての教育を受けることで孤児院の子どもたちにより高度な勉強を教えてやれた。何より、出身孤児院のみんなが食い扶持に困らずにいられるのはマガサウィンが院に金を寄付してくれたからだ。
(私が嫁げば恩返しできる……? でも嫁ぐってことはリグスティで生活するってことで。孤児院から離れるってことで)
それは、嫌だ。
握りしめた拳に無意識に力が籠る。手のひらに爪が食い込むだとか、そんなこと今は一切気にならなかった。
色を失うディズに、ルイは眸から完全に感情を消して抑揚に欠けた声を落としてくる。
「これは利害の一致。まあ、契約だと思っていればいい」
「け、いやく…」
「ああ、よく考えてみればいい。どうするのがあなたにとって、マガサウィンにとって、孤児院にとって善策なのか」
「うっわ。顔色酷いけどなんかあったの?」
昼。
昼餐の時間になり、タリフがルイを用意した部屋に案内するのを見送って、ふらふらと部屋に戻ったディズの顔は化粧で誤魔化せないほど青ざめていた。
出迎えてくれたレクルの目が大きく瞠られる。心配をかけるまいとふるふる首を横に振ったが、信頼している親友の顔に張りつめていた糸が緩んでしまったのは誤魔化しようがない。覚束ない足取りのまま彼に近寄って、ぽふっと肩に頭を預けたのは完全に無意識だった。
「ちょ、ディジリア!?」
「なんでも、ないんです。ちょっと疲れただけで……」
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、爽やかさの中に僅かな甘さを含んだユズの香り。──レクルが愛用している精油の匂いだ。
「あー、もう」
珍しく甘えたなディズの様子に、レクルは心底参ったような声を出した。力ずくで引き剥がせなくもないが、小柄なディズは少し力を込めれば容易く折れてしまいそうなほどに細く、その華奢さがレクルを躊躇わせる。
結果。頭を掻きむしりたい衝動を堪えたレクルは、背と膝裏に腕を回して軽々とディズを抱き上げた。寝室に運んで寝台の上に座らせてやる。
「疲れたんならちょっと寝なよ」
「……うん」
「何か欲しいのあるんならアンタが着替えてる間に持ってくるけど」
「お水飲みたいです」
「りょーかい。僕が出たら着替えなよ」
ぽんぽんと頭を叩いて部屋を出ていくレクルを見送って、ディズは言われた通りもぞもぞと着替えだした。
バレッタを外して、ショールとドレスを脱ぎ普段着に着替える。着る前は気になって仕方なかった真珠の装飾のことなどすっかり忘れて、ディズは寝台に潜り込んだ。
横になった途端に、全身をどっと疲れが襲う。
(どうすればいいんだろう)
考えて見るといいとルイは言っていた。どうするのがマガサウィンや孤児院にとって善策なのか。ディズにとって得策なのか。
ディズとしては嫁ぐなんて考えたくもない。だが、マガサウィンや孤児院の面から見てディズが今回の求婚に応じることは願ってもない利益だ。
(わたし、最低なこと考えた)
ルイがフィズリーブルーから孤児院へ支援金を出すと言ったとき、ディズの頭に浮かんだのはあまりにも打算的な醜い考え。
──公爵家が支援金を出すのなら、世間の目を考えて、ディズが嫁いだ後マガサウィンが孤児院への支援を打ち切ることはないかもしれない。
今現在伯爵家であるマガサウィンがディズの出身孤児院へ資金援助を行っているのは、養女への情けである。ディズがどこかしらに嫁いだ後、永続的に孤児院を支援する必要性も、支援することで得られる利益もマガサウィンにはない。援助を打ち切るのが普通だ。
だがそこに、「妻の育った場所だから」と嫁ぎ先から支援金が出されたのなら。
いくら養女とはいえマガサウィン家の一員。嫁ぎ先の家は支援金を出すのに実家は援助打ち止めなど世間一般からどう思われるか。平民より体裁を気にする貴族社会では悪い噂の的になる。
(恩があるのに。恩を返さないといけないのに)
そんなことを一瞬で思いついてしまった自分の浅ましさに、ディズは何よりも衝撃を受けた。
(……寝て起きたらすっきりするかな。頭わけわかんなくなってきてる。──起きてから、考えよう)
浮かんでしまった嫌な考えを頭を振って振り払い、毛布を顎まで引き上げる。
思っていた以上に疲労を感じていた頭は、すぐさま意識を深淵へと誘った。




