2.隣領領主の訪問理由
東海に臨む東邦大帝国と同等の国土を持ち、まったく異なった文化を持つ東西の間に位置する王国ラビストネア。縦に長い国土を持つこの国は南端と北端で気候が異なり、季節によって観光名所が変わる〝遊覧国家〟として周辺諸国に名を馳せている。
ラビストネアの王都ヴァゼルから見て北東に位置するユソルは、イグル=ユソル=マガサウィン伯爵が統治する、国内で三番目に広い面積を持つ領地だ。北側に位置するだけあって冬は厳しいが他の季節は過ごしやすく夏場は避暑地として国内外問わず観光客が多い。領名物のアザレアは促成栽培も抑制栽培も行っているため時期でなくとも需要に応えられるようになっている。隣接するヴァゼルに負けず劣らず活気のある賑やかな土地だ。
そこに、ラビストネアの最東端、東邦大帝国との国境沿いにあるリグスティの領主が来るという。
(リグスティ……ええっとたしか南北に長い土地で、陸路から東邦大帝国に行くときは必ず通る領地、だったような。ユソルと違って南端の町の方に湾があって……あ、そういえば二年前に領主様が変わったんだっけ)
頭に叩き込んである地図を思い出しながら指をすいすいと動かして描いてみる。描く、とは言ってもインクがあるわけでもましてやペンを握っているわけでもない、ただの空書きだ。
「ディジリアー? 上がったらアンダードレス着て支度部屋においでよー?」
「あ、はーい」
扉越しにかかった声にはっとした。肩まで浸かっていた湯から出ようとすると「慌てなくていいからねー」と見透かしたように言われ、おとなしく湯に体を沈める。
(リグスティの領主様、本当に何しに来るんだろう)
今朝突然聞かされたリグスティの領主訪問には、どうやらディズも同席しなければならないらしい。
こちらから出向こうと思った矢先に部屋を訪ねて来た養親は何故だか異様に機嫌が良かった。「訪問に備えてお前も用意しておくように」という普通ならば侍従に託ければ済むことをわざわざ自らの口で言いに来たくらいだ。詳細を聞こうにも「直にわかるよ」の一点張りで、唐突なことに憤慨する侍従の小言を右から左へと聞き流して鼻歌で出て行った義父の機嫌の良さたるや、今にも小躍りしそうなほどだった。
(タリフさんが珍しく怒ってたなぁ)
温厚な人柄の父の侍従が声を荒らげるのは初めて見た気がする。「もっと早く言ってもらわねば困ります! 準備にだって時間がかかるんですよ!?」という魂の叫びは上機嫌な鼻歌に掻き消されていたけれど。
指先がふやける前に浴槽から上がって手早く体と髪を拭き、用意されていたアンダードレスを纏った。隣の支度部屋に向かえば衣裳部屋から引っ張り出したドレスを吟味していたレクルが呆れた声を出す。
「髪、まだ濡れてるんだけど。もー、ほら、こっちおいで」
ぽんぽんと示されたのは三面鏡の前に置かれた椅子。大人しくそこに腰かけたディズは、浴布で髪の水分を飛ばしてくれているレクルを鏡越しにちらりと見やった。
「服は華美じゃない動きやすいやつがいいですなぁ」
「無理。それだと質素なやつになるじゃん。ディジリアただでさえ普段から着飾らないんだからこういうときは目一杯着飾らせてって言われてるんだよ」
「? 誰に?」
「使用人たちに」
「えっ」
髪が乾いたら次はドレス選びだ。とは言ってもディズの要望は先ほどすげなく却下されたので、代わる代わるドレスを当てては思案するように黙り込むレクルにされるままになるしかない。
「……髪の色を映えさせるなら黒とか濃色なんだけどディジリアの顔は淡色のほうが似合うんだよなー。うーん、服は濃色にして髪飾りを淡色にするかな……ダメだそれだと髪飾りが目立たなさすぎる。季節的にも明るい色かな、やっぱり」
レクルが散々に悩みぬいて選出したのは白に近いクリーム色を基調としたシフォンのドレスだった。袖口に淡い青緑のレティチェラレースが施され、中心に真珠を縫い留めたリボンがいたるところに散らばっている。その上に合わせるオーガンジーのショールは濃い青紫。反対側が透けて見えるほどに薄い生地には見事な花鳥の刺繍が施されている。
「これなら華美さもないし、ショールのおかげで髪も映える!」
「真珠は外しても大丈夫ですか? 落としそう」
「ダメに決まってんでしょ。ほら、とっとと着替えるよ。化粧もしないといけないんだから」
本来ならばたくさんの使用人の手を借りてなされるはずの身支度を手伝ってくれるのはレクルひとりだけだ。生粋の貴族でないディズは自分の身繕いを他人に任せるのが大の苦手で、変に萎縮してしまう。レクルに手伝ってもらうのもどうしても自分で出来ないものがあった場合のみで、さらに言えば見た目はどうであれ男である彼は下手に手を貸してこようとはしない。
「はーいちょっと上向いて」
着替えてしまえば本当にもうやることがない。軽い化粧の仕方なら以前レクルに習ったが、まさか他領の領主に半端な化粧で顔を晒すわけにもいかず。甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼の指示に従うことが今できる唯一のことである。
「……なんか私、レクルに女の子として負けている気がします」
「なに急に」
「だってレクルは男の子なのにドレス選びも化粧もできるじゃないですか。凄いなぁって」
「そりゃあ、日々勉強してるからね。ディジリアが全部自分でできたら僕必要ないじゃん。……よし、あとは唇に紅をひとはけして。うん、かわいい」
目を細めながらレクルが微笑む。
「髪、軽く編んじゃおうか」
側頭部からひと房ずつ取った髪を手早く三つ編みにして後頭部で交差させ、七宝のバレッタでとめる。仕上げにリラの練香水を耳の後ろと髪に馴染ませ、彼はひとつ頷いた。
「はい、完成」
「レクル凄い……」
鏡に映った自分の姿に唖然とした。白と紫を基調とした装いは派手さを感じさせず、かといって地味でもなく、凛としていて落ち着きがある。一見頼りなく見える可憐な相貌は化粧でそこはかとない艶やかさを醸し出し、大人っぽさの演出まで完璧だ。普段鏡で見る自分の姿とはまったく異なった印象を与えてくる。
「化粧は女の武装だからね。結局リグスティの領主の目的はわからないんでしょ? なら完全武装。どこからでもかかってこいやという意気で。僕は出迎えの場にいてあげられないけどしゃんとしなよ、ディジリアお嬢様?」
「う、はい」
喝を入れるように背中を軽く叩かれる。
身支度を整えて後は侍従が呼びに来るのを待つだけだ。朝食は朝食とも呼べないような、支度前に用意されたクッキーを数枚つまんだだけだというのにお腹はあまり空いていない。緊張で空腹どころの話ではないからだ。
がちがちに体を強張らせるディズにレクルが顔を引き攣らせる。
「ちょっと──」
しかし彼が何かを言う前に部屋の扉が軽い音を立てた。──イグルからの使いである侍従のタリフだ。
「い、いってきます」
「ディジリア、ちゃんと可愛いんだから落ち着いて。笑っとけばなんとかなるから」
見送ってくれるレクルに硬い顔で頷いて、タリフと並んで廊下を歩く。
しんとした廊下に響くふたり分の足音が余計に鼓動を速めた。相手の来訪目的がまったくわからないことがますます緊張を煽ってくる。
「あの、タリフさんはリグスティの領主様がいらっしゃる理由とかご存じですか?」
せめて理由がわかればと思って尋ねたことだった。養父の右腕でもあるこの老紳士ならば何かしら聞いていないだろうか、と。だが返ってきたのは押し殺しきれなかった疲労を滲ませた溜息と否やの言葉だった。
「いいえ、それが何も。本来ならば王侯貴族の訪問がこんなに急に決まるということは絶対にありえないのです。迎えるこちらも出向かれるあちらも準備がありますから。もし本当に突然あちらが訪問の旨を伝えて来たのであればそれは我が主に対しての不敬に当たります。あちらがそういうつもりであるのなら我々もそれ相応の対応をせねばなりません。……ですが昨晩からのイグル様のご様子を見る限り、あちらの不手際ではないようなので」
つまり、訪問自体は前々から決まっていたというのにイグルはそれを昨晩まで隠していたということになる。だから今朝、タリフは珍しく憤慨していたのだ。
「あの方のお茶目は昔から変わりません。それなりに良い大人になって奥方とご結婚なさってからここ数年は落ち着いていたのですっかり油断しておりました」
はあ、とまたも重たい溜息をひとつ。まるで悪戯好きの子ども相手に手を焼く親のような顔をする侍従に苦笑が漏れる。
「タリフさんが怒ってるの初めて見ました。意外です」
「普段はあまり怒らないようにしているので。……とはいえ今朝は御見苦しいところをお見せ致しました、どうぞご容赦を」
ばつが悪そうにしながらも、ディズに向けられる眼差しはどこまでも穏やかだ。慈愛に満ちた、孫を見る祖父のような眼差し。孤児院育ちのディズには当たり前だが祖父はいない。だからこそ年を経て柔らかく優しくなった視線はどこか気恥ずかしい。
「ああ、そういえば。そういった装いもお似合いです、お嬢様」
「ありがとうございます。──あ」
はにかみながら礼を言ったところで、廊下の向こう側に養親の姿が見えた。
心持足早に近づいて声をかける。
「イグ、……お養父様、お養母様、お待たせいたしました」
ユソル領領主イグル=ユソル=マガサウィンとその妻、ミリア=マガサウィン。
彼らはディズの姿を目に入れるなりぱっと破顔した。
「似合っているわ、ディジリア」
「侍女の見立てかい?」
「はい、レクルに頑張ってもらいました」
養親からもらった太鼓判に笑顔で答える。今のところ評価は上々だ。
(後でレクルに教えてあげよう)
当然でしょ、と少し得意げに胸を張る彼の姿を想像することは容易い。
同じように着飾ったミリアの横に並ぶとイグルから次々に称賛の声が飛んでくる。養母と視線が交わって、どちらからともなく口元が綻んだ──と。
「フィズリーブルー様、ご到着!」
朗々と響いた声にはっとした。緩んでいた緊張の糸がぴんと張りつめ、体が僅かに強張る。
(笑顔、笑顔)
胸中で唱えながら段々と近づいてくる馬車を凝視する。車輪の重たい音が止まり、扉が開いた。
中から降りて来た人物は───貴公子然とした年若い青年だった。
見目から察するに、ディズとそう年は変わらない。
(え。ちょっと待って。若いって聞いてたけどこんなに若いの? しかも美人さんだ)
領主と言えばディズが想像するのは壮年の、それなりに酸いも甘いも噛み分けた養父くらいの年の人間だ。若いと言っても養父よりいくつか年下で、少なくとも三十前半くらいだろうと思っていたのだが、実際目の前に現れたリグスティの領主の外見はどこからどう見ても二十代前半。まだ十代後半だと言われても納得できるくらいには若い。
すらりと高い背丈。精巧な造りの人形のように整った柔和な面立ち。金に近い薄茶色の髪は短く切られた直毛で、眸の色は南国の海を思わせる深い青系の群青。端整な顔付きと彼の持つ色彩は、まるで童話に出てくるどこかの国の王子のようだ。
イグルの後ろにタリフが控えているのと同じように侍従を従えて来た彼は、爽やかな笑みをその相貌に乗せた。
「お久しぶりです、イグル殿。此度は無理を通していただいてありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず。どうぞゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。夫人も、変わらずお美しい」
「ふふ、相変わらずお上手ですわ」
養父から養母へと移った視線がディズに向く。群青の双眸に見据えられた瞬間、背筋をぞわりと何かが這った。
(な、に……)
変わらず笑みを浮かべている柔和な相貌に、心が騒めく。鼓動が速い。背骨を駆け上がるぞわぞわとした感覚は──怖気だ。
「こうして対面するのは初めてですね、ディジリア嬢。ルキゼッタ=リグスティ=フィズリーブルーと申します。どうぞルイとお呼びください」
「っ。初めまして、ディジリアと申します」
どうにかこうにか心臓を宥めつつ笑みを作る。緊張はふっとんだ。否、種類の違う緊張に変わった。得体の知れない恐怖が体を包む。
──頭の中で、警鐘が鳴りやまない。
「ええ、お噂はかねがね。聞きしに勝る美貌だ」
ディズの警戒を知ってか知らずか、ルイはディズの手を取って甲に唇を寄せながら笑みを深める。
そして、躊躇なく爆弾を落とした。
「今日は貴女に結婚を申し込みに来ました」




