336 社長のために
「じゃあ、また今度でけっこうですので、書類を提出してくださいね。といっても、まだ結婚してはいないから、その後ということになりますが」
「はい。一切の不備なく作ってきますよ」
俺は社長から渡された書類をカバンに入れた。
ある種の「仕事」はこれで終わりだ。もう、帰ってもいいんだけど、少し雑談していこうか。社長に感謝の言葉をたくさん言いたい。
だけど、その後の社長は少し上の空という感じだった。
話を聞いていないわけではないし、相槌も打ってくれているのだけど、少し表情が優れないような気もする。
もしかして、用事でもあるのだろうか。
社長の性格だと、別の約束があるから帰れとも言えないかもしれないし。
ただ、もし体調不良だったらよくない。
「あの、社長、もしかして、風邪気味だったりします? たまに顔が曇るような……」
社長は一人暮らしだし、今、確認しておいたほうがいい。
「いいえ、元気ですよ」
社長は首を横に振る。尻尾まで横に動いた。
でも、その笑顔は少し切なそうに見える。まったく何でもないとも言い切れない。
「社長、もう一度確認させてください。何かありますよね? これじゃ安心して帰れないです」
俺はソファーから前かがみになって言う。
「もし、体調と関係ないことだったら、そう言ってもらえませんか? とにかく、社長が何か考えてることがあることぐらいは、わかっちゃうんです。俺だって短い間ですけど、この会社の社員をやってるんですから」
社長は責任感も強いし、社長という立場だからこそ、甘えられないことも多いだろう。
「いいえ、本当に体調はいいですよ」
そう答えた社長の目が光った。
涙がたまっている。
「ただ――結婚を報告してくれたフランツさんの顔を見て……社員の方を幸せにできる会社にできたんだって実感できて……うれしかったんです……」
嗚咽をもらしながら、社長は話してくれた。
そんな理由で泣く聖人みたいな社長がこの世にいるだろうか。
いるんだよな、目の前に。
そのままじっとしていていいのかわからなくて、ハンカチを出して、社長に近づいた。
ハンカチを渡すと、社長は小さくうなずくようにして、目を拭いた。
それでも涙はまだあふれてきた。
「なんで、社長がそんなに感極まってるんですか。俺より感動してるんじゃないですか」
その言葉はあながち冗談でもない。俺はこんなに取り乱さなかったし。まあ、ほかの人のことだからこそ、感情移入できるということもあるのかもしれないが。
「驚かせてしまいましたね……。でも、半分は恥ずかしながら、自分のことなんです。私もここまでこれたんだなって。肩の荷が降りた気がしました」
社長は自嘲的な笑みを見せつつ、顔を上げた。
「なんで、そんなに自己評価が低いんですか。ケルケル社長は絶対に王都一の素晴らしい経営者です。断言します!」
ネクログラント黒魔法社に入らなかったら、俺の人生はきっと今より暗かった。
「まさか。ちっともそんなことありませんよ」
「そんなことあります」
「ありません」
「あります」
変な言い合いになって、顔を見合わせて、俺と社長は共に噴き出した。
「フランツさん、私は五世紀生きてきたんです。だから、それはそれは間違いもたくさんしたんです。洞察力があるわけでも、時代の先が見えるわけでもないんです」
それから、社長は長年の社会人経験における失敗談(の中でおそらく話しても大丈夫なもの)をいくつか話して聞かせてくれた。
それは一人の少女が(社長の見た目は少女だからそれで合ってる)何度も何度もつまづいては立ち上がり、つまづいては立ち上がり、時には変な会社やグループに騙され、回数がわからないほど泣いて、それでもついにネクログラント黒魔法社の社長にまでなったストーリーだった。
時には――
「それは、俺でもやらなそうなミスですね……」
「でしょう。私はそんな賢くはないんですよ」
そう口にする社長はとても幸せそうだった。
社長はこの会社をやって、社員も自分も幸せにできたのだと思った。
俺も、この人を幸せにできるように今後とも頑張っていこう。
「あの、社長、それともう一つ、お願いがあるんですが、いいですか?」
「はい」
社長は、両手を翼みたいに広げた。
「今日は特別にどんなことでも聞いてあげます♪」
あっ……割と事務的なお願いだったんだけど、かえって言いづらい感じになったぞ。
「ええと……そしたら、ハグしてもらえますかね……」
俺と社長は立ち上がって、小さい社長にぎゅっと包まれた。
「フランツさん、成長しましたね」
ああ、社長のいい香り……。
と、感動的な雰囲気が台無しなのだが――
変なところが成長してしまった。
「あの、フランツさん……その……」
ハグしている社長にも気づかれてしまった。
「すいません……。自分の意志では止められないもので……」
くすくすと社長に笑われた。
「黒魔法継承式の練習、残業してやっていきます?」
社長に結婚の報告をして、その社長とやることじゃ絶対にないと思うのだけど……まあ、これも仕事と言えなくもないし……黒魔法業界なわけだし……。
「……お願いします」
その日の帰宅は予定より、遅くなった。
次回、最終回です! これまでのご愛顧ありがとうございました! 書籍化しているものは原則最終エピソードまで収録して最終巻を出す予定です(一つだけ、これ、お仕事ネタから逸脱しすぎだな……というのだけ抜きます)。
あと、コミカライズはおかげさまで相当売れているので、かなり長く続くと思います。今後はコミックのほうで楽しんでいただければと思います!




