332 社長の怖さ
それはマナー講師、ヘルモンダーの席の会話で間違いなかった。
『では、マナーの会の定例会をはじめたいと思います』
そんな声が小さいながらも響いてきたからだ。
『これからもマナーを作って広めていきましょう』『上手くこちらの利権になるように』
どうも、マナー講師たちが結託しているらしい。
全部ではないだろうが、悪意を持って変なマナーを広めようとすれば、それは研修や本などを通じて、世間に伝播していくだろう。あっちのマナー講師も、そっちのマナー講師も言っているとなれば、それが根拠になっていく。
『ああ、それと、ヘルモンダーさん、あのふざけたマナーの研修の反応はどうでした?』
あいつの名前が上がった。
『とくに問題はありませんでしたよ。、みんな従順なものです。この調子なら、十年後には、マナー講師に体を差し出すべきだなんてマナーだって広められそうですね』
笑い声が個室から起こった。
「もう、いいでしょう」
社長が手でテーブルをさっと拭き取るようにすると、その魔法陣は消えてしまった。
「ここまでひどいようだと、つぶしておかないといけませんよね? フランツさんが同意しなくても私がやってしまいますけど」
社長は何でもないことのように笑っていたけど、かえって、その表情が底知れなく、怖かった。
「私の会社の社員にくだらないことをした報いは受けていただきます」
ずっと黙ったままでいるのも変で、俺はつぶやいた。
「社長ってバイタリティーにあふれてますよね」
「私は社長である前に、黒魔法使いなんです。だから、その信条に従って行動します」
当たり前のことのように社長は言った。
「つまり、自分のやりたいことをやる――報いを与えたい人には報いを与えるということです♪」
自分の成したいことを成す、それは黒魔法の基本理念だった。
最初から、黒魔法は社会の規範を守るために生まれたものではない。
「せっかくだから、私の魔法をお教えしましょう。使えるようになるには時間もかかると思いますが、ちょうど真横で見物できますし、いい機会です」
社長がノートを出して、さらさらっと書いたのは、とても複雑でおどろおどろしい魔法陣だった。
ただ、どこかで見たことがある気がする。
「これは……サンソンスー先輩に会った時に、島で社長が使った……」
「よく覚えてらっしゃいますね、フランツさん。『地獄の万力』という拷問用の魔法です」
俺に対しては、社長はいつもどおりの表情なので、拷問という言葉がウソ臭く響いたぐらいだった。
「本当は日を改めて、ムーヤンさんに余計なことを教えたマナー講師一人をこらしめるつもりだったんですが、せっかくこんなに集まってらっしゃるようなので、改心していただきましょう」
社長の行動にはいささかのためらいもない。
俺は黒魔法使いとしての社長の怖さを見ているんだ。
どんなに会社思いの社長でも、優しさだけの存在なわけがない。
大昔から黒魔法を使い続けてきたのだ。おそらく、俺の知らない危ない橋もいくつも渡っているはずだ。
「私が、怖い、ですか?」
社長が俺に尋ねた。
さらっと、何でもないことのように。
俺は答えに迷う。
一切怖くないと言えば、騙していることになってしまう。
社長の底知れなさを見て、ぞくっとする部分はある。事実として、それはある。
しかし、それで社長を傷つけてしまうのは不本意だし……。
いや、社長に本当のことを言えないほうが、よっぽどまずい。そんな社員、信用も信頼もできない。
「はい……」
そう、俺は答えた。
「だけど、逃げたりはしません。俺も黒魔法使いですから。どんな社長も受け入れます」
うんうんと社長はうなずいた。
「わかりました。私もフランツさんを裏切ったりはしないので安心してください。こんな力は社員を傷つけることには使いませんから」
「そんな次元では恐れてないですよ。社長がするわけないんで」
「では、心置きなくやりますね。ああ、声も聞けるようにしておきましょう」
ゲルゲルの声が聞こえるようになった魔法陣を社長は左指で作っていった。えっ? 両利き? いや、たんに左手でも魔法陣が使えるのか……。
「それじゃ、行ってきます。今なら見ている店員さんもいませんね」
社長の体がさぁっと流れて、黒い霧のようなものに変わる。
その霧はマナー講師たちのいるところに入っていく。
俺が見ているテーブルには二つの魔法陣が残されて、軽く発光していた。
どうやって書いたか、すぐにはわからない。そもそも「地獄の万力」は魔法陣の上からもう一つ魔法陣を上書きしたようになっている。
頭が痛くなるぐらい、高度な魔法陣だな……。だいたい自分の姿を違う物質に変換するって、一歩間違うと死ぬぞ……。
ただ、魔法陣への集中力は、ほかへ移った。
もう片方の魔法陣から音声がまた聞こえてきたからだ。
『汝ら、この世の法を枉げ、妄説を広めんとしたことは事実なりや?』
『な、なんだ、この霧!』『頭が、頭が痛い!』
社長が動き出したらしい。
『その罪を知りながら罰も咎も受けぬつもりというは、虫のよすぎる話よ。まず、法と正義に則る白魔法が歪む。白魔法が歪めば、その合わせ鏡たる黒魔法もまた歪む』
『耳をふさいでも声が聞こえる!』『足が動かんぞ!』
そこから先は悲鳴だか、なんだかわからない声が断続的に響くだけになった。
小さな手乗りサイズのゲルゲルがまず戻ってきた。
俺は床に手を置いて、ゲルゲルをテーブルまでリフトする。こんなミニチュアサイズのペットがいたらかわいいな。
「ゲルゲル、あっちはどうなってるんだ?」
「『地獄の万力』発動中につき、みんな永久に続くかっていうような苦しみを感じてるワン。だいたい、体感時間で一万倍だワン」
そういえば、以前にもそんなことを聞いた気がする。
「悪意を持ってウソを広めることはしないと誓わされてるはずワン。誓うというか、怖くて、もうウソは言えないワン」




