331 偽マナーのリスク
ムーヤンちゃんには、服を着てもらって、それから事情が事情なので、ケルケル社長を呼ぶことにも同意してもらった。もはや俺とムーヤンちゃんの間だけの問題ではない。
社長が地下の住居スペースに来るようにと言ったので、着替えたムーヤンちゃんを連れていった。
「あの……フランツさんたちと行った日とは違う日の、もっと小さい規模の会場のマナー研修で……色仕掛けは上手に使えと……そう教わりました……」
内容が内容だし、ムーヤンちゃんはつっかえながらしゃべった。
あと、もしかしたら俺が怖い顔をしてしまっていたせいかもしれない。怒りはもちろん、研修をした奴に向いてるんだが。
「ふ~む……。念のため、確認しますけど、マナー講師はどんな調子で話していましたか? 冗談のつもりで言ってる様子だったりしませんでした? それでも、セクハラだと思いますが」
社長がそう尋ねた。
たしかにムーヤンちゃんが真面目すぎて真に受けたという可能性はある。
ムーヤンちゃんはしばらく思い出していたようだったけど、「いいえ」と答えた。
「雰囲気がその時だけ変わったようなこともなかったです。男の社員なら色仕掛けでだいたいどうにかできると……。堅物そうでも、いきなり裸で迫ればそのまま流されることが大半だし、そこで何もされなくても、そんなことを言いふらす社員はいないからダメージにはならないと……」
「そりゃ、言いふらせるような内容じゃないし、その男の社員のほうが何か要求したんじゃないかと勘繰られる危険もあるから、おおっぴらに処分もできないだろうけど……そこまでわかって言ってるとしたら、余計に悪質だな……」
俺だって社長との信頼関係が築けてなかったら相談などできない。
「それにしても、変なマナーが作られることがあるとはいえ、今回のものは前代未聞ですね……。普通の性格なら、恥ずかしくて言えないと思いますが、何か意図でもあるんでしょうか」
「社長、ヘルモンダーっていうマナー講師は普通の性格ではないと思います」
退場させられたぐらいだから、印象にも強く残ってる。
「かなり権力的な奴でした。自分がルールだって考えてるタイプです」
ムーヤンちゃんはずっとうつむいてしまっている。まさに穴があったら入りたいという気持ちだろう。
「状況は把握しました。弊社がとるべき対策としては、そのマナー講師のところに顔を出さないというだけでいいと言えばいいんですが」
そこで社長の言葉に少し間が空いた。
「ここまでひどいデマを社会に流しているとなると、もはや社会悪という次元ですね」
まさしく、そうだった。
「腐ってもマナー講師が発言しているから、鵜呑みにしちゃう新人が他社にもいるかもしれませんね」
「フランツさん、それなら、まだ被害は小さいんですよ」
あれ? どういうことだろう?
「マナー講師から聞いたという免罪符を使って、異様なマナーを自分の会社に広める人が出てくる危険があるんです。たとえば、人事などで権限を持ってる社員が変なマナーを強要したらどうなります?」
俺は寒気がした。
「あっ……逆らえない……」
なんか、黒魔法なんかより、よほど恐ろしいことが行われてる気がしてきた。
「権力を持ってる人が、自分の権力を確認するために、意図的に無茶苦茶なマナーを社員に強制するということは十分にありうることです。しかも、そこに色仕掛けなんてものが紛れ込んだらひどいことになるのは目に見えてますよ」
ケルケル社長の表情も厳しい。尻尾がぴんと立っている。
「無邪気に信じられちゃうだけじゃなくて、悪用されることもあるんですね」
「ですです」
ケルケル社長はやっと相好を崩した。
「さて、弊社としては銀貨一枚の利益にもなりませんが、ここまでひどい人を放っておくのも気が引けますね」
社長は腕まくりをする。
「会社員ではなく、黒魔法使いとして制裁を加えておきましょうか」
あどけない子供みたいな表情だけど、そんな甘いものじゃないってことは俺もよく知っている。
「久しぶりに私も力を発揮するとしましょう。フランツさんもいい機会ですし、見ていてください」
「わ、わかりました……」
偉大な魔族を怒らせてしまったこと、あのマナー講師は覚悟したほうがいいぞ。
●
俺とケルケル社長は夜の闇に紛れて、ある人物を待っている。
場所は王都でもかなりの繁華街だ。だから、夜の闇はたいして濃くはない。でも、自分たちほうから闇を水増しして姿を見えないようにしてしまえば、とてもわかりはしないだろう。店の灯りの一角に、ずいぶん暗い場所があるようにしか見えない。
そこに目的の人物が現れた。
マナー講師のヘルモンダーだ。
まずは身辺を洗うと社長は言っていた。
基本と言えば基本か。引き抜きをやるにしたって、相手のことがわからないのでは、何もできない。多かれ少なかれ、こういうことはさりげなく行われているのだろう。
問題はそれをケルケル社長クラスがやったら、まずバレないということだ。
ヘルモンダーがなかなか高そうな居酒屋に入った。
「私たちも入りましょう」
ケルケル社長は闇に紛れる魔法を解除して、店に入っていった。俺のほうは顔を覚えられているかもしれないから、うつむいている。逆に言えば、社長が顔を見られても相手は気づきようがない。
ヘルモンダーが二階の個室に入ったのを確かめて、俺たちも別の個室に通してもらう。
「ゲルゲル、出てきてください」
社長がそう言うと、いつもよりはるかに小型の手乗りサイズのゲルゲルが現れた。
こんなこともできるんだ……。
「あっちの部屋の情報をこちらに流してください。はい、行ってきてくださいね」
ゲルゲルはやけに高い声で「わかったワン」と言った。
「少し、高度な魔法を使いますが、これはフランツさんには難しいです。使い魔がケルケルだからできることですので」
社長が註釈をつけてからテーブルの上に指で何やら魔法陣を描いていく。
すると、その魔法陣の中央からかすかに声が聞こえてきた。
「ここにゲルゲルの聞いている声が出てくるんですよ」




