172 営業の先輩
ちょうど、まだあの女性客は残っていた。少しずつ一人酒を楽しむタイプだな。
よし、お礼に行くか。
俺は立ち上がると、その翼の生えた女性客のところに向かっていった。
「先ほどは、調停役ありがとうございました。俺も客なんで、お礼を言うのも変に思われるかもしれませんが、実はこの店をやってる者の土地の男爵なんですよ」
「ああ、そうでしたか」
にっこりとその女性は口を開けて笑った。長めの八重歯がはっきりと見えた。
「お会いできてよかったです。そろそろ会えるかなと思ってたんですよ、フランツさん」
ん? 俺の名前が知られてる? まさか国中の爵位ある奴の名前を憶えてる爵位マニア? いや、そんな人間、いないだろ。いたとしても、とてつもなく少数だろう。
「あの、どこかでお会いしましたか? いや……違うな……」
俺の記憶に、ふっと社長の顔がよみがえる。
これは条件反射的なものだ。こういう時、たいてい社長が絡んでいる。
そういえば、社長が八重歯がキュートな営業の人がいるって言ってた……。
「あの、もしや、ネクログラント黒魔法社の営業の方ですか?」
「はい、そうです」
さっと、その営業の女性はカードケースを取り出した。
そして、ぺこりと礼をしながら、俺のほうに名前の書いたカードを渡してきた。
「ネクログラント黒魔法社の営業を担当しております、ヴァンパイアのエンターヤと申します。よろしくお願いいたします」
「あ、これは、これは……。すいません、そういうカード作ってないんです……」
今になって思ったが、この手の名前や社名を入れたカードって用意してないんだよな……。社長がまだ必要じゃないので大丈夫と言っていたので、作ってなかったのだ。
とはいえ、営業職の人なら百パーセント必要だろう。このエンターヤ先輩が持っているのも当然だ。
「ああ、新人さんは渡す機会もほぼないですもんね。沼や墓地の管理は事前に決まった場所に行っても誰かにあいさつすることもないですし。使役するインプにカードを渡してもしょうがないですから」
「はい、まさにそういうことです……」
「このお店に通っていれば、そのうちお会いできるかなと思っていました。ばっちりでしたね」
とても人なつっこい笑顔になるエンターヤ先輩。赤い髪はつやつやで、抜群に美しいキレイ系の人だけど、物腰はとても丁寧だ。
「じゃあ、社長の差し金ってことですかね。あ、紹介します。後ろにいるのが――」
もう、セルリアとメアリも俺のそばにやってきていた。
それぞれ、エンターヤ先輩にあいさつをする。先輩は二人にも名前や会社名が書いてあるカードを渡していた。
「私、営業先はおおかた魔界なんですが、この時期は報告も兼ねて本社のほうに来ていたんです。それで久しぶりの新人の方にもお会いしておこうと」
たしかに理にかなっている。で、会社じゃなくて居酒屋で会わせるようにしたのがケルケル社長らしい。
「若輩者ですが、よろしくお願いします、先輩」
「若輩者って、相当のやり手なのは聞いていますよ。これから会社、引っ張っていってくださいね! 応援してますよ! がんばれ、がんばれ!」
うわあ、なんてやさしさあふれる先輩なんだ。こんな先輩にずっと指導してもらいたい。
「フランツ、鼻の下が伸びてきてるよ」
メアリに白い目で指摘された。今はそういうこと言わないでほしい。
「ええと……その、先輩、物腰がすごくやわらかいですね……。ヴァンパイアだから上級魔族なのに……」
自分で言って、改めて理解した。
ヴァンパイアというと、あの有名な血を吸う魔族だ。魔族の中でも貴族的な地位にある者が多いと言うが、この人は偉そうな様子がまったくない。
「ふふふ。だって、私は営業職ですよ。ふんぞりかえってどうするんですか。相手を不愉快にさせてしまったら、商談なんて絶対にまとまりませんよ。その時、相手が怒りださなくても、帰ったあとに舌を出されてしまいます」
言われてみればそのとおりだ。横柄な営業なんて話にならない。よほどの殿様商売をやっている事業でしか通用しないだろう。
「さてと、このお店、フランツさんの領民がやっているお店なんですね。接客をされていた女の子もそうですよね?」
ホワホワは奥で空いたテーブルを拭いていた。先輩の視線はそちらに向く。
「はい。そうです。あの子はホワホワっていう沼トロールでまだ人間の暮らしに慣れてない部分があって……」
「ふむふむ、ふむふむ~」
またエンターヤ先輩は何度もうなずく。全体的にリアクション過多だ。
「あの様子だと、まだまだ心配ですよね。とくにお酒を出す店は酔っている人が多いので、ああいう接客は危なっかしいです」
「ですね……。ホワホワにはあとで言っておかなきゃと思ってます」
ホワホワの接客が問題で客足が遠のいたら大変だし、しかもホワホワは無自覚なのだ。ならば、一度ちゃんと説明しておかないといけない。その程度のことは領主としてやっておかないと。
そこで、エンターヤ先輩はにんまりと笑った。
「せっかくですし、私が彼女の接客指導をやってあげましょうか。ここに社員の方がこんなにいるわけですし、皆さんも勉強になるかもしれませんし」
それは意外だけど、ありがたい提案だった。
「営業をやっている先輩に教えてもらえるなら、ホワホワも助かるはずです。お願いします!」
ちなみに当事者のホワホワは――
「何かホワホワ、おかしなところあるなら直すつもりはあるがう」
とそれなりに意欲を見せてくれていた。そう、ホワホワは根はとてもいい子なのだ。さっきのトラブルは、ただマナーを知らなかっただけだ。
「わたくしも興味がありますわ。お聞きしたいですわ」
「これって時間外労働ってことにならないのかな?」
メアリがそう言ったが、エンターヤ先輩が「うちの会社なら、申請すれば残業扱いにできなくもないですよ。その代わり、ちゃんと私の話を聞いていてくださいね」とOKを出した。
この会社、残業代、しっかりくれるよな。残業自体がめったにないけど。




