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冷めてきた紅茶を一口啜れば、じっとユラがそれを見つめている。そういえば彼女のもとに飲み物はなかったなとなにか頼むか尋ねるも、それは丁寧に断られてしまった。そしてすぐに言葉を紡ぐ。
「アンジュちゃんはさ、リヒターとキスしたいとか、それ以上のことをしたいとか、そういうことは思わないの?」
ぶっと紅茶を吹き出してしまった。幸いユラとは別の方を向いていたため、被害は軽傷である。しかし。
(いい年して何やってんのよもう……!)
持っていたハンカチで優雅に口元をぬぐうも、直前の行動が全てを台無しにしている。
しかしそれを気にせず、何もなかったかのようにアンジュは口を開いた。
「ユラちゃんって、結構大胆よね」
「そう?」
これでも言葉を抑えた方だけど、という声は聞かなかったことにした。
先程のユラの言葉に答えようと口を開こうとするも、すぐに噤んでしまった。
ユラはどうやら言葉をせかすつもりはないようなので、ありがたく考えさせてもらうことにした。その際空になってしまったティーカップを見て追加注文をすることを忘れずに。
届いた紅茶を――今度は何を言われ吹き出しそうになっても大丈夫なように――少量口に含み、飲み込む。
リヒターとそういうことをしたいと思わないのか、か。
(そもそも私はリヒターさんが恋愛として好きってわけじゃないとおもうし)
そうは考えつつも、口に出そうとすると何かがつっかえるような感覚に陥る。
「私、リヒターさんのことが好きなのかしら」
否定でない、質問のような形の言葉は、するりと口から飛び出ていた。
だがこの場は自分ひとりというわけではない。はたと気付きユラの方を伺えば、
「まずそこからなのか……」
と頭を垂れて低く唸っていた。
その声はどこかで聞き覚えがあるような気がしたが、ユラの声なのだから聞き覚えも何もないかと思考を切り替える。
ユラは次いで頭を上げると、「あのさ、アンジュちゃん」と先程よりは高い、だが普段からしたら低い、そんな声を出した。
「見ている限りだと、アンジュちゃんもリヒターのこと恋愛って意味で、好きなんだと思ったんだけど、違うの?」
「…………どう、なんだろう」
「自分の感情がわからない?」
「……うん」
客観的に見てそう思うのであれば、確かに己はリヒターに恋愛感情を抱いているのかもしれない。だが、リヒターに抱く自分の想いが、果たして本当にそうなのかと自問し始めると、答えがでない。
それに。その理由は、もしかしたら、別のところにあるのかもしれない。
「……結局さ、私は貴族であることを捨てられないんだよ」
「…………? どういうこと?」
「貴族社会って、自分の感情だけで物事を判断するのは、難しいでしょう。だから、感情に囚われないためにも、自分の感情がわからないままっていうのがいいんじゃないかなって」
自嘲気味に笑いユラの顔をのぞけば、彼女は普段の笑みを消し去り、無表情―――というには、少し怒りがこもっている、そんな顔でアンジュをまっすぐに見つめた。
ユラの瞳には大変力が篭っており、飲み込まれそうだと、心の片隅で思った。
「それは違う」
静かな声ではあるが、瞳と同じく、力のこもった声を発する。
「確かに、貴族社会は感情を第一に考えることは叶わない。だが、だからといってわからないままでいるのは、それはただの逃げだ。……って思うよ」
ユラの言葉には、言い返すことができない重みがある。
アンジュの性格上、貴族でないあなたに何がわかるの、などという発言は出てこなかったが、だがもし仮にそういうことを言える者であったとしても、よっぽど鈍感であるか怖いもの知らずでなければ対抗するような言葉を吐くことは叶わないだろう。
それに、ユラの言葉には、どうしても今のアンジュには無視できない事柄が含まれていた。
(確かに、結局私は逃げてばかりいるんだよね)
この世界が乙女ゲームの舞台であることを知り、攻略対象である婚約者殿から逃げ、またヒロインの干渉からも逃げた。だって私はライバル令嬢だから。そんなもの、何の理由にもならないというのに、それでいいと思ってしまった自分がいる。
婚約者という貴族に関する柵が消えたにも関わらず、部隊に、軍に戻らないというのも、その場所からから逃げているということなのだろう。けれど、どうして逃げるのか、戻らないのか、正直なところその理由がアンジュ自身には分かっていない。
最近の自分は、どうにも逃げてばかりいる。らしくないと、らしくいればいいと、よく言われる。
どうして自分がこんなことをおもうようになったのか、分からないでいる。
(それらはすべて、前世の《記憶》を手に入れた時から起きている)
アンジュ自身がその記憶から分かるのはこの世界が乙女ゲームの舞台であることと、そのゲームの大まかなストーリー、そして、乙女ゲームとは何なのかということだけ。
だが、知らないうちに別の記憶もアンジュの中に現れ、それが自身の深層心理に働きかけているのかもしれない。
実際にはそうではないのかもしれない。そんなことは承知の上だ。
けれど、そう考えないと、いろいろなものから逃げている自分が嫌になってしまいそうなのだ。
既にそんな自分に嫌気がさしている。
「アンジュちゃん。あのね、別に私は逃げることは悪いなんて思ってないからね」
黙りこくってしまったアンジュに気遣ってか、ユラはそっと言葉を投じた。
「でもね、折角心のあるにんげんでいられるのだから、ちゃんと感情を大事に育てるべきなんじゃないかなって」
「感情を、育てる……?」
意味が分からない、と言いたげに言葉を繰り返せば、どこかすっきりした表情でユラは頷いた。
「私はアンジュちゃんじゃないから、アンジュちゃんにおきた出来事を全て知っているわけじゃあない。でも、まあ主にリヒターのせいで、知っていることもたくさんある」
なにを話したのか、そしてリヒターが己についてどの程度知っているのかは分からないが、そこは主題でないのでおいておくことにする。大変気になることではあるが。
「その中で、アンジュちゃんは上の圧力で婚約した」
「……えぇ、そうね」
「そして騎士であることを辞めさせられた。前後関係はわかんないけどね」
「あってるわ。私は騎士を辞めさせるために仕組まれた婚約だと思っているけど」
「実は私もそうなんじゃないかなって思ってるよ。……その際にさ、いやその前からかもしれないけど、でも兎に角、その時に、騎士でいたいという感情を、願望を殺してしまった。騎士ってのは貴族以上に感情を考えられないものだし、やっぱりその前からなのかな」
殺しちゃったんじゃない?とか殺してしまったとおもうではなく、「殺してしまった」
途中ごにょごにょとごまかしが入るも、ユラはきっぱり言い切った。
「一回感情を殺しちゃうと、それになれちゃうんだよ。特にアンジュちゃんは、感情を考えられない状況にいたよね」
なれない婚約者との関係では、確かに自分の感情以上に、そこから延びる家の損得を考えていた。
「そのせいで恋愛ってのがわかんなくなってるのかなって、アンジュちゃんと話してたら思っちゃった、私はね」
「だから感情を育てるべき、って言ったの?」
「泣いて笑って怒って、好きになって嫌いになって、すべてを本気でやるってのは、感情をずっと育ててきた人にも難しいことなんだ」
じんわり心に響くユラの言葉に、アンジュはゆっくり目をつむった。
「確かにアンジュちゃんは生まれた時から死ぬときまで、貴族であることを辞められるときなんて来ない。感情だけで生きることはできない。でも、感情を大切に育てることは、貴族だとか平民だとか関係なしに、誰にだって可能なんだよ」
目を開くと、慈愛に満ちた表情でほほ笑むユラの姿が目に飛び込んできた。
「だからここから感情を育てて、それでリヒターを想う気持ちにどんな名前が付くのか、考えたらいいんじゃないかな」
「ユラちゃん……」
「まあでも」
先ほどまでの表情とは打って変わり、いたずらっ子のようなにんまりとした笑みを浮かべる。その表情にアンジュがおののいていれば
「私はその名前が『愛』であることを一番に思ってるけどね」
美少女はパチンとかわいらしくウィンクをした。その一言はこれまでのすべてを台無しにしているように見えたが、アンジュはそれ以上にこれまでの言葉にごまかしをいれているようにも見えた。
なんだかなぁと思いつつも、アンジュはその言葉をなぞるように、「愛、ねぇ……」と小さくつぶやいた。




