第68話 端緒
アナトリー・セルゲーエヴィッチ・イサイエフ保安大尉は遠くから鳴り響く獣の遠吠えにも似た風鳴りによって意識を覚醒させた。
俯せの状態から起き上がろうとして、腰に鈍痛を覚え、それから足の感覚が感じられないことに気付く。
恐る恐る首を捻って己の下半身を見れば、壊れた細工人形のように奇妙な方向に折れ曲がった自らの両脚が視界に飛び込む。
「……畜生」
辺り構わず喚き散らしたくなる衝動を堪え、大尉は己の周囲をゆっくりと眺め渡した。
陽は、既に落ちていた。
乾いた土塊、所々に自生する灌木。
そして次に視界に入ったのは無残に喰いちぎられ、原型を留めぬほどに損壊したモラヴィア魔道軍将兵の屍だった。
月明かりを頼りに目を凝らせば、同じような骸がそこここに転がっている。
フラッシュバックの様に脳裏に蘇ったのは、この光景を作り出した化け物。
―――化け物?
全身を苛む痛みによって掻き乱さ、まとまらない思考の片隅に疑問が浮かぶ。
(あれは、何だったんだ?)
己が連絡役として配置された部隊……モラヴィア魔道軍の編成で言うところの魔道兵中隊。精鋭と評して良い部隊の筈だったそれを見るも無残に喰い荒していった【敵】。
検問を襲った『何か』
イサイエフの周囲にいた王国兵士達は、次々と肉体を鎧ごと切り裂かれ、まともな反撃もできぬままに物言わぬ骸に変えられていった。
戦いが始まってからほどなくして、己を横合いから襲った激しい衝撃によって吹き飛ばされ、そこで自身の意識は途切れている。
改めて周囲を見渡す。倒れている屍はいずれも検問を守っていた王国軍部隊のものであり、それ以外に襲撃者のものらしい遺体は見当たらない。
正しく、虐殺と言って良い程に一方的な戦いだったのだろう。
(あれは…)
背筋に奔る怖気。大尉はともすれば噛み合わなくなりそうな歯の根を無理やり食いしばると、乾いた舌で口中を舐める。ひりつくような痛みとともに鉄の味がした。
(救援……そうだ、まずは通信……無線機を……)
無残に破壊された検問所。
そのかつての建物配置を思い起こし、大尉は未だ感覚を取り戻さない下半身を気遣いながらじりじりと地を這って、無線があるはずの天幕跡へと向かっていく。
襲撃の際に火を放たれたのだろう。
物資集積所や中隊本部といったものを構成していた天幕の群れは、そのほとんどが焼け落ちており、重傷の大尉は記憶を頼りに己の持ち込んだ無線機が安置されていたであろう位置を目指して這い進む。
天幕の跡周辺には、燃え滓とともに微かな残り火が灯りとなって周囲を照らし、大尉はほどなく目的の無線機を見つけることができた。
生への微かな希望を見出し、そこへ這い寄ろうとする大尉の耳に、しゅうっ…と気泡が泡立つような音が聞こえた。同時に、何かが地面を這いずるような擦過音。
ぎくりと全身を強張らせ、イサイエフは音のした方角へと顔を向ける。
(!!……っ……)
それを目にしたイサイエフの表情は一瞬にして恐怖に染まった。
いつの間に近寄ったのだろう。自身が伏せている位置からほんの数メートル程度離れた岩陰から、一匹の巨大蛇が這い出ようとしていた。
丸く見開かれた黄色い爬虫類特有の目が、真っ直ぐにこちらを捉えている。
硬直する大尉をよそに、黒々とした巨大蛇は岩陰から這い出ると獲物目がけてしゅるしゅると這い寄っていく。
恐怖に突き動かされるように大尉は絶叫すると、己の腰のホルスターをまさぐった。
疲労によって覚束ない手つきでナガン・リヴォルヴァーの銃杷を握り、引き抜こうとしたところで、己のすぐ目と鼻の先…ほとんど吐息がかかるほどの近くに蛇の顔がぴたりと寄せられ、大尉は完全に凍り付いた。
身体が動かない。爬虫類の無機質な視線に射竦められたかのように、如何なる状況にも対応できるよう十分な訓練を受けた筈の身体が、恰もそのひと睨みで石にでも置き換わってしまったかのように。
蛇の上唇がまくれ上がり、毒々しい色彩の歯茎が露出する。
同時に、己の顔に生臭い粘性を伴った息が吹き付けられる。
大尉は己の死を予感し、押し殺したような悲鳴とともに目を閉ざした。
■ ■ ■
双月によって仄明るく照らされるモラヴィアの荒野。
そのなだらかな起伏を一筋貫く大街道を黒々とした車列が慌ただしく走り抜けていく。
4.4tの車体に37mm戦車砲塔を搭載したBAー27M装輪装甲車3両を先頭に、ジストラック5両がこれに続く。
数にして狙撃兵四個小隊相当の集団はライトで前方を煌々と照らしつつ街道を真っ直ぐに突き進む。
それら集団の真中辺り。
縦列の先頭からちょうど三両目の装甲車の車中にルーキンはいた。
「君たちに協力するに吝かではないが……幾らなんでも、こいつは無茶だぞ」
揺れる車中。
膝の上に広げた地図を懐中電灯で照らしつつ、同乗している赤軍の大佐は憮然とした面持ちで文句を言った。
彼はこの車団をルーキンらNKVD軍に供出した自動車化狙撃連隊の指揮官だった。その表情は明らかに不機嫌さを滲ませており、己と己の部下たちが置かれている状況に不満を持っているようだった。
「いいかね。この国、この地方では我々は新参者なのだ。捜索などやろうにも相手の隠れ場所についてまるで見当もつかん。君が言う……なんだね、古代遺跡か?そんなわけのわからん場所にいきなり部隊を送っても、まともな仕事は出来んぞ」
下手をすれば送った部隊自体が遭難しかねない。
モラヴィア人の案内役を付けるにしても全幅の信用などできるものではないし、そもそも目的は『行軍』ではなく『捜索』なのだ。
地理に通じていない部下たちを中途半端な人数送ったところで捜査に寄与できるとも思えない。遺跡そのものを完全に封じ込められるほどの大部隊を送るなら話も違ってくるが、そんな人手を何処から捻出しろというのか。
それに感情面での秘密警察野郎への反発もある。
既に突破されたというモラヴィア軍検問周辺の捜索活動にまで人員を供出しているというのに、この上更に赤軍を便利屋扱いしようなど、ふざけるにも程がある。
「そちらの台所事情は理解しております。が、ことは国家安全にかかわる非常事態。確かに主要街道の封鎖、そして検問を突破した者たちの追跡は開始されておりますが、これが万一囮であった場合も想定せねばならんのです。応急の手当のみをして、それで事足れりとするわけにはいきません」
重ねて、捜索範囲を広げる必要があるとルーキンは告げた。
赤軍大佐の表情が忌々しげに歪められる。
「君の要求をすべて実現するためにどれだけの人員が必要だと思っている。秘密警察ではその程度の計算も習わんのか?それとも君だけが度を越した阿呆なのかね?」
騎兵将校上がりらしい大柄な大佐は侮蔑もあらわに吐き捨てた。
ルーキンの双眸が鋭く細められる。
「成る程。では、我々の要請を拒否する旨……モスクワ本部のベリヤ同志、メルクーロフ同志に伝えても宜しいですな」
その一言で、大佐の赤ら顔は一気に青褪めた。
「……あ、いや…それには及ぶまい」
言葉尻は尻すぼみとなり、大佐はばつの悪さを誤魔化すように咳払いした。
いわく言い難い空気が場を支配する。
車内にはルーキンと大佐の他に、装甲車の操縦手とNKVD軍の大尉がいたが、どちらも凍り付いたように固まっている。
いや、意図的に会話に深入りせぬように、厄介な政治に巻き込まれぬよう慮外に在ろうとしているようだった。
嫌な沈黙がしばらく続いたが、ややあって大佐が嘆息とともに答えた。
「―――ああ、了解した。そちらの要望は可能な限り実現できるよう手配しよう。」
降参するように両手を上げる真似をして、壮年の赤軍大佐は負けを認めた。
階級こそ同じ大佐であっても、一介の連隊長と内相直属の秘密警察高官では政治力の差は歴然である。
彼が電話一本をモスクワへ掛ける。それだけで、ことによれば彼だけでなく彼の上官の師団長あたりまでが首を挿げ替えられることにもなりかねない。
実情はどうあれ、モスクワ本部からベリヤの直接指令によって送られてきた年若い大佐は、それだけ赤軍からもある種の警戒を向けられていた。
秘密警察に顎で使われる屈辱と憤懣は今も内心に燻ってはいたが、ここは堪えるよりなかった。
「……もうこれ以上君に文句を言う気はないが、これだけの便宜を図っているんだ。感謝の一つもあってしかるべきだと思うがね」
せめてこの程度の嫌味は許されるだろうとばかりに、赤軍の大佐はルーキンを睨む。
「―――ええ。ご協力に感謝を」
しかし―――、とルーキンは付け加えた。
「私はともかく、ベリヤ同志は感謝などしないでしょう……そういう方ではありません。この任務の進展如何によっては、まず首を切られるのは私でしょうが、その場合に後任として来るのは、よりベリヤ同志に近い人物でしょう。ことによると貴方がたの地区司令官であるメフリス同志という事も考えられます」
ルーキンの一言に、大佐以下その場に居合わせる赤軍将校たちの表情が凍った。
「彼らを相手にするよりは、まだ私の方が気が楽なのではないかと思いますがね」
「……ああ、それについては同意しよう」
呟くように言うと、大佐は再び大きく嘆息し、それで気持ちを切り替えたように地図へと視線を落とした。
この世界において最もインフラ整備が進んだ地域の一つであるモラヴィア中央領だが、やはりアスファルトで舗装された母国の国道等と比較すると、車での走り心地は良いものではない。
石畳の段差を乗り越えるたびにガタガタと揺れる指揮車内で、地図を読み取るのに難儀しつつ赤ら顔の大佐は現状を説明した。
「この近隣の地理状況について、我々が把握している部分を説明しよう。まず、このまま街道を北上した先……30km程進んだ辺りにあるのが都市レンスト。此処より北の地域が我が軍の軍政下にある。やや手前に例の突破された検問があった。逃亡者たちが街を目指していたのなら、今頃はとうに辿り着いている筈だが……街の駐留部隊から連絡がないという事は他へ向かったんだろう」
あるいは近隣に埋伏して我々を待ち受けているかもな、と半ば脅すように大佐は告げたが、ルーキンは眉一つ動かさなかった。
「もしそうならば、僥倖以外の何物でもありません。彼我の戦力は隔絶しています。連中が真っ向からこちらに立ち向かってきてくれるのなら、こちらも近隣の戦力をかき集めて連中にぶつければ済むだけのこと。探す手間が省けるというものです」
そこでルーキンはいったん言葉を切り、頭を振った。
「……街についてお聞きしたい。封鎖の状況は?」
赤軍の大佐は頷くと、手元の鞄を漁ってもう一枚の地図を取り出す。
「レンストはモラヴィア中央領の…まぁ、ごく平均的な交易都市だ。人口は9万弱。街からは東部、北部、西部と繋がる主要街道が伸びているが、交通量は現状それ程でもない」
なにしろモラヴィア中央領自体が、現状ではソ連の保障占領下にあるようなものなのだ。
現状、政治部の押さえによって大規模な略奪等が発生していないこともあり、戦火で家や街を喪った難民でもない限り、積極的に都市間の移動などする者もいない。
交通管制を行う上では、比較的やりやすい状況といえる。
しかし問題は……と大佐は続けた。
「この街が城塞都市ではない点だ。主要街道を塞ぎ、街中の宿場等を押さえる程度は造作もないが、細々とした支道にまで非常線を張るには到底手が足りん。なにしろ街の全周に人員を手配らねばならんのだ。増援を受けたとしても難しいぞ。なにしろ、我々に魔術は分からん。通行人のうち、だれが一般人でだれが魔術師なのかをどうやって見分ければ良い?」
ルーキンは頷くと、身を乗り出して運転手の隣に掛けているNKVD大尉に命じた。
「王都のビューロウ少佐に連絡を。現地の衛視隊で信頼のおける人間をリストアップするように伝えるんだ。魔道院にも連絡を入れろ、動かせる人間は全て使う」
「了解」
指示を済ませると、ルーキンは再び赤軍の大佐に向き直った。
「魔術師はこちらで手配します。敵の判別は彼らに任せ、赤軍には物理的な封鎖を重点的に御任せします」
不承不承という雰囲気ではあったが、赤軍の大佐は頷いた。
そのとき、運転席でハンドルを握る赤軍軍曹が声を上げた。
「同志大佐。前方より騎兵の集団が接近してきます」
ルーキンと大佐は思わず顔を見合わせた。
「敵か、味方か判別はできるか?」
「詳しくは―――っ、!どうやらモラヴィア魔道軍所属の騎兵団のようです」
「……王国側の捜索部隊か?」
訝るように唸る大佐に、ルーキンは少し考えてから頭を振った。
「……念のため、迎撃の用意を。軍曹、後続の車両隊にも連絡を」
「了解」
命令が伝わるや、先頭集団の装甲車3両の砲塔が旋回し、停車とともに前方から駆けてくる騎兵の一団へ向けて砲を照準する。
同時に、砲塔上部に搭載されたDT機銃にも射手が取り付き射撃準備を行う。
先頭の装甲車部隊が戦闘態勢に入ったのを確認した後続のトラックも、装甲車の後方に停車するや内部から完全武装の赤軍狙撃兵を次々と吐き出していく。
「前方の騎兵、動きを止めました!」
「なに?」
部下からの報告に赤軍の大佐は訝るように訝るように眉を顰めた。
「白旗を掲げた一騎のみ、こちらに向かってきます」
「……どうやら味方か」
小さく安堵の息を漏らしつつ、ルーキンが呟く。
赤軍の車列へと駆け寄ってきたモラヴィア騎兵は、自ら掲げる白旗を大きく振りながら、声高に叫んだ。
「ソヴィエト労農赤軍とお見受けします!我々は王立魔道軍独立第7魔道兵連隊所属の捜索騎兵小隊であります!」
騎兵があげた名乗りに、ルーキンは車内の座席から思わず身を起こした。
聞こえてきた部隊名。それは王都を出立する際に確認した、襲われた検問所を担当していた中隊の所属連隊だった。




