第65話 包囲
ソヴィエト連邦 モスクワ
深夜。
既に多くの官公庁の灯りが落ちた中にあって、国防・内務といった一部の庁舎は未だ煌々と明かりを灯し、庁舎内を幾人ものスタッフが忙しなく行き交っている。
内務人民委員部の庁舎最上階。その一室で、ラヴレンティ・ベリヤは執務机に向き合いつつ、机上に置かれた電話の受話器を耳に当て、部下からの報告に聞き入っていた。
ベリヤの執務室にはクレムリンへの直通回線の他、庁舎内での連絡用の内線電話、そして無線電話が各一台ずつ置かれており、これらのうち、ベリヤが今使用しているのは無線電話のほうだった。
下僚の報告に耳を傾けつつ、しばらく沈黙を続けていたベリヤだったが、ややあって一人ごちるように呟いた。
「……既に王都からは逃亡した可能性がある、か」
誰に聞かせるともなく、己自身が反芻するような呟きに、通話相手の将校―――クラシュキン大佐は丁寧に答えを返した。
「王都以南、以西への赤軍部隊展開は現状進んでおりません。手元の国境軍部隊を都市周辺部の封鎖に当てておりますが、万一これを抜かれた場合に備え、西と南の国境部封鎖を早急に行わねばなりません」
トラバルトから受けた報告は、クラシュキンによって即日、モスクワ本部のベリヤへと伝えられた。
―――転移魔術。
モラヴィア王国独自の魔術体系である秘跡魔道は、元は太古の魔道文明の遺産を基盤とする技術だ。
召喚魔術しかり、創命魔術・死霊魔術しかり。
だが、それらから派生し、現代の魔術師によって一から開発された魔術も少なからず存在する。
『【転移】とは、召喚魔道部門が軍部の要請を受けて開発していた技術の一つです……もっとも、消費魔力の抑制と術式の簡略化に失敗したため、魔道軍での本採用は見送られましたが』
先の報告会において、トラバルトは転移魔術を【失敗作】と評した。
かつて存在した古代魔道文明。最盛期には大陸全土をその支配下に置いたとされる魔道帝国は、大陸各地に空間転移を用いた軍事輸送網を有していたとされる。
これはモラヴィア東部の遺跡群から発見された書物から読み解かれた事実だが、その具体的な技術資料は現在に至るも発見されていない。
モラヴィア王国が有する転移魔術は、術体系としてすでに確立されている召喚魔術を応用して、現代のモラヴィア魔術師が開発した比較的新しい技術なのだ。
ほとんど一から創りあげたものであるだけに、その術式は幾つもの難点・課題を抱えている。技術としては手探りの段階なのだ。
召喚用の魔術式を改編したものであるだけに、魔力・マナの消耗が高い割に移動質量・転移距離はごく僅か。
特に、他世界に干渉する召喚魔術と異なり、現世界において術の全てが完結する転移魔術では、マナ消耗の大きさは看過しえない短所である。
たとえば【救世計画】の場合、召喚の起動式を発動させるだけで魔道院が擁する魔力塔六基の備蓄を全て使い果たし、なおかつ召喚自体を行うために、異界大陸の顕現予想点に存在したグレキア半島先端部と北大洋の北東部島嶼群がすべてマナへと還元されて消滅しているのだ。
召喚魔術であれば、マナの消耗を異界からの召喚物で補填することが可能だが、転移の場合はそうはいかない。
一軍を転移させるために、王国の一地方がマナ枯渇で廃滅するなど到底容認できるものではないのだ。
そして、トラバルトはこうも言った。
『推測交じりになりますが、恐らく国防庁舎内に残っていた職員や政府側の術者達を攻性魔術によって害し、その残留魔力とマナを触媒に【転移】したのではないかと。無論、あらかじめ施術の為の準備が行われていたはずです』
死体が残っていないのは、転移式の起動時に触媒とともにマナに変換されたとも考えられる。
そして、仮に転移によって逃げたにせよ、モラヴィア国外に一足飛びに逃げ果せるなど有りえない。
ヴェンツェル自身を含めた高位魔導師全員がこれによって逃げたのであれば、その転移距離は王都外縁……精々城壁を超えたあたりが限界だろう。
救世計画の様に、王国の高位魔導師の大半を動員し、なおかつ王国の財政を傾けるほどの財を投じた召喚術でさえ、その施術には数年を要したのだ。
如何にヴェンツェルが傑出した召喚魔導師であるにしても、叛乱を計画してから転移の施術に至るまでの短期間では、十分な準備を行うには明らかに不足である。
これらを報告したうえで、クラシュキンは今後の方針について述べた。
「国境や都市間の封鎖線は……現状では王国軍中心とならざるを得ません。逃亡者の中に従属魔術の使い手がいる点を考慮し、王国側の部隊には現地のNKVD軍部隊を分割して組み入れます」
クラシュキンの報告内容に、ベリヤは暫く内容を吟味するように沈黙してから答えた。
「…いいだろう。そちらに関しては王国側に話を通しておく。だが、連中の信頼性には些かならず疑問符が付く。轡は油断なく握っておけ」
「承知いたしました。同志」
恭しく答えるクラシュキンに、ベリヤは続けて問いかけた。
「さしあたっての対応はそれで良かろう。で、連中が逃げた先について、ある程度の目算は立っているのか?」
「目的が亡命ならば南西のパズ公国、或いは可能性こそ低いものの西のトレド王国という線も考えられます。どうやら連中は逃亡に先立って、魔道院からキメラを含む相当な軍事物資を運び出していたようでして…王国内に拠点を設けて不正規戦を組織する可能性も捨てきれません」
この予測の根底にあるのは、魔道院から得られた情報の中からヴェンツェルがモラヴィア王国の各地に極秘の物資集積所や拠点を設けている可能性が示唆されたためだ。
これが如何に不味いことであるかはトラバルトを初めとした残留の魔導師達も口をそろえて同意している。
潤沢な魔術触媒を用意した高位魔導師は恐るべき戦略兵器と化す。
まして相手は召喚魔術の最高位導師ヴェンツェル。更にはキメラ作成者として屈指の能力を持つ創命魔術部門長ブラージウスもヴェンツェル同様に行方が分からなくなっているのだ。
従属魔術の専門家であるシャイベの脅威度については言うまでもなく、こちらは下手をすると追跡任務に従事する味方の魔導師を取り込まれる可能性すらあった。
そして、彼らに比べれば目立たないものの、付与魔術部門長のアポロニウスは魔道槍や魔剣などの魔道器開発者として名を馳せる男であり、外国に亡命された場合、その知識は大きな脅威となるだろう。
逃亡した魔導師達の目的が那辺にあるのか?
定石であれば、都市近隣と国境を完全に封鎖し、膨大な人員を生かしたローラー戦術で逃げ道を塞いでいくのが正しい。
NKVDの保安機関としての最大の強みは、赤軍同様にその膨大な人員を生かした物量戦術と、各地に根を生やした共産党組織を有機的に活用する組織力にあるのだ。
だが、それらの強みもモラヴィア王国においては十全に生かすことができない。
モラヴィア魔道軍全軍にすら匹敵する兵員数を誇るNKVD軍がモラヴィア全土に展開するにも未だ時間が必要だった。
そして、王都魔道院での調査にしても、こと魔術関連の知識を有する者となれば人員が限られてしまう。
魔道院が有する膨大な魔術具、触媒の中からヴェンツェル一派が何をどれだけ持ち出しているのか。未だ碌に把握できていないのが現実だった。
だが、そこまでクラシュキンが述べたところで、唐突にベリヤが口を開いた。
「……―――把握できていない?」
空気が凍りつく。
何気なく問いかけるような口ぶり。だが、ベリヤの一言はクラシュキンの舌を凍り付かせた。
同時に、クラシュキンの額に冷や汗がびっしりと浮かび上がる。
「セルゲイ・ウラジーミロヴィッチ。君の任務は何かね?」
「……ハッ。ヴェンツェル以下、魔道院主戦派の逮捕であります」
受話器越しの会話にもかかわらず、クラシュキンは弾かれたように姿勢を正し、表情をこれ以上ないほどに強張らせて答えた。
対するベリヤの答えは、いっそ穏やかなとさえ言えるほどに落ち着いたものだ。
「結構。理解できているようで安心した。祖国の敵を追い詰め、捕えるのが君の職務だ。実行部隊が王国軍とはいえ、指揮を執るのは他ならぬ君らなのだ。それに付随する責任を負うのもな?」
噛んで含めるようなベリヤの言葉。
だが、その中に含まれる猛毒をクラシュキンは違えようもなく感じ取っていた。
「仮にも情報将校たるものが『判りません』などと軽々しく言うものではない。それを判るようにするのが君の仕事だ。その程度のことが理解できぬ者を大佐にしておくなどできんからな。そういった不心得者には矯正収容所でじっくりと自己批判してもらいたいものだ。……判るよな大佐?君自身、そういった馬鹿者どもをこれまで多く目にしてきたはずだ」
クラシュキンは受話器を手に、我知らず身震いした。
ベリヤの言わんとしていることは分かる。
大粛清にあって多くの将校が銃殺され、強制収容所送りにされた……ほかならぬクラシュキン自身が手を下してきたのだ。
軍部や党だけではない。NKVDにおいても粛清の大鉈は振るわれた。あの時代、局長級以上の保安将校はベリヤ派を除くほとんどの高官が銃殺ないしシベリヤ送りにされているのだ。
海外赴任の工作担当官の中には、A・M・オルロフ等のように本国に戻って粛清されるのを恐れてそのまま外国に亡命してしまったスパイマスターもいるほどだ。
そんな状況をつぶさに見てきたクラシュキンにとって、ベリヤの言葉は失敗者に訪れるであろう恐るべき未来を暗示していた。
「職務を遂行できぬ者は要らん。君はそんな連中とは違うと私は思っている……吉報を期待するぞ、同志」
■ ■ ■
受話器を置いたクラシュキンは額に浮かんだ汗をハンカチで拭うと、己に突き刺さる複数の視線に振り返った。
「裁可がおりました。エイチンゴン同志」
「結構」
頷きを返すエイチンゴンの顔からは、普段のふざけた雰囲気は消えている。
ベリヤと直接会話したわけでなくとも、クラシュキンが抱いた危機感は等しく全員が共有していた。
保安官僚としては傑出した人物であるベリヤだが、同時にその非情さも際立っている。
それが必要と判断すればセレブリャンスキーのような囚人だろうと収容所から引っ張り出して使い倒すし、逆に不要と断じれば現役の高官であろうと失脚させられかねないのだ。
そんな焦燥を表面上はまったく感じさせることなく、エイチンゴンは一同を見渡して告げた。
「それでは早速、我々も動くとしよう。王都内の捜索指揮はクラシュキンが。外の封鎖線はルーキンが取りたまえ。セレブリャンスキー同志は引き続き此処の調査指揮を」
王都に展開する赤軍部隊に加え、今の時点で現地入りを果たしているNKVD軍部隊。
更には王国政府に帰順している王都駐留の魔道軍。
既に他都市に通じるすべての街道は封鎖され、外部との通行を全てこちらの制御下に置かれている。
だが、国防庁舎陥落の時期から逆算して捜索範囲は更に広げる必要もある。
膨大な人員が必要になるが、やらねばならない。
「エイチンゴン同志はどうされるのです?」
ルーキンの問いに、エイチンゴンはにやりと笑みを浮かべた。
「私は宰相府に向かう。―――モラヴィア貴族たちの尻を蹴り上げにな」




