第46話 介入
1941年 9月17日
ソヴィエト連邦 モスクワ
歴史を紐解けば、古来より大勢力を誇った大国が、内紛の隙を他国につけいられることによって急速に衰亡した事例は多い。
それまでさしたる外交懸案も持たなかった隣国が、国の衰退するやいなや禿鷹へと転身して隣国へ牙を剥いた事例も、また同様である。
国際関係が国家間の利害によって成り立っている以上、感情に囚われぬ反復常なき外交は、ある意味当然のことと言える。
そして、ソ連邦が現在交戦状態にあるモラヴィア王国は、このとき正に滅亡の瀬戸際にあったといって良い。
国軍の主力は壊滅的な損害を被り、東と南からは自国以上の大国が軍勢を仕立てては押し寄せる。
頼みと出来るような友邦もなく、それどころか、これまで大国モラヴィアが歯牙にもかけることのなかった小国までもがハイエナのようにその国土に群がろうとしていた。
正しく亡国の危機と言って良い。
(愚か者どもが……)
アリオスト・ルンゲ侯爵は己のうちに澱む黒々とした負の感情を必死に抑えながら、車窓越しに遠ざかっていくクレムリン宮殿―――その夜の帳に包まれた佇まいを眺めやっていた。
(私は、一体何をしに来たのだ?)
自問する。
外交官として、今しがた己が手交してきた外交文書はモラヴィアの亡国を決定付けるに等しいものだ。
そのようなものを、己が忠誠を捧げた故国に引導を渡すがごとき代物を、そうと理解した上で手交せねばならない自身の政治的立場。
そして、自身をそんな立場に追いやった本国の人間たち。
全てが呪わしく感じられた。
「閣下。サンドロ公への報告は……」
躊躇いがちに尋ねる補佐官に、ルンゲは努めて気を落ち着けながら答えた。
「交渉は成功した。…そう伝えればよい」
短く言うと、ルンゲはこの後本国を――王都を見舞うことになるであろう戦火を思い致し、嘆息した。
講和派の命脈は、これで恐らくは繋がれた。
魔道院。そして、王国の現状を理解しようとしない軍部の主戦派は己が身をもって思い知るだろう。
自分たちが、一体何を敵に回して戦ってきたのかということを。
(我らは命脈を繋いだ。だが……王国はどうだ?)
この先の祖国を見舞うであろう悲劇を予感し、ルンゲは陰鬱な想いに囚われた。
他国―――それも決して盟邦などではない―――による内紛への軍事介入。
叛徒どもを片付けたソヴィエトが、そのまま礼儀正しく立ち去り、大人しく講和会議の席に戻ってくれるなどという虫の良い考えをルンゲは抱いていない。
この騒乱が終結した先にあるのは、モラヴィアの完全な併呑、或いは傀儡化の二者択一であろう。
だが、他にどのような方法があったというのだ?
政権が主戦派の手に渡れば、彼らは国土全てが灰燼と帰すまで戦い続けるだろう。
或いは、多少なりとも目端の効くものは私財と共に国外へ逃げ果せるやもしれない。
モラヴィア民族の滅亡をこの目でみるか、或いは民の安寧を題目に売国奴へと身を落とすか。
ルンゲ自身、後者を選択したものの、己の正しさに絶対の確信をもつことはできなかった。
―――何故、このようなことになった?
開戦時。あるいは救世計画が実行されたとき。
多くの人々は王国の行く末が輝かしいものになるであろうと予感した。
痩せ衰えた大地には豊かな緑が蘇り、膨大なマナを大地へと還元されることでモラヴィア魔道文明は再び隆盛の時を迎えるだろう、と。
(どこで我らは道を誤ったのだ?)
一体どのような道を辿れば、王国の破滅を回避できたのか。
異界人の都を訪って以来、ルンゲ侯爵の頭の片隅には常にその疑問が揺蕩っていた。
■ ■ ■
1941年8月より参謀総長の任にあるソ連邦元帥、ボリス・ミハイロヴィチ・シャポシニコフは現在の赤軍において最も経験豊かな官僚軍人のひとりとして知られている。
彼が参謀総長の席に座るのは、実のところ今回で3度目のことであり、最初の着任は1928年―――縦深作戦理論を提唱した若き天才【赤いナポレオン】ことミハイル・トハチェフスキー元帥の後任としてのものだった。
帝政ロシア陸軍において師団長まで勤め上げたこの将軍が、その来歴にもかかわらずスターリンからの信任と敬意を勝ち得た理由。それは、その卓越した管理手腕もさることながら、常に政治から一線を引き、職責上の進言は行なうものの最終的には党・政府の意向を厳格に守る【忠実】さにあった。
そのことを示すエピソードとして、対独開戦が近いと噂された1941年6月頃、NKVDの特殊任務局との間に交されたこんなやり取りがある。
『戦時の緊急の場合、重要な工作員からの情報に対して参謀本部の対応を早めるために、NKVDが入手した情報は直接参謀本部に回すべきではないか?』
保安管理本部特殊任務局長からのこのような提案に対して、シャポシニコフは実に控えめな態度でこれを謝絶したという。
『きみ、重要な軍の情報は、常に真っ先に政府指導部に送られるべきだ。……最も緊急性の高い情報は、同志スターリンと国防人民委員、君の上司である同志ベリヤに直接報告し、そのうえで私にコピーをくれたまえ。このことは我々には変更する権限のない、厳しい規則であることを忘れないように』
事程左様に党指導部による軍部の統制に対しては常に忠実な人物であり、軍人が限度を超えて政府に影響力を行使しようとするような態度を酷く嫌うことでも知られていた。
例えば、自身の信ずるところの意見を常に声高に主張し、しばしば党・政府の権能である国防人民委員部の人事権に関しても口を挟むことのあったトハチェフスキー元帥などとは犬猿の仲だったとも言われる。
対モラヴィア開戦以来、クレムリンに設置されたSTAVKA(最高司令部)での執務が多くを占めるようになっていたとはいえ、シャポシニコフ本来の執務室は、モスクワ・フルンゼ通り沿いにある参謀本部庁舎内にある。
深夜。モラヴィア王都キュリロスでの変事が知らされるや、国防人民委員部と参謀本部の全勤務員に対して、そのまま職場に居残るよう指令が発せられている。
スターリンからの緊急の呼び出しを受け、クレムリンに出仕していたシャポシニコフが己の執務室に戻ったのは、明け方近く―――午前4時を回ろうかという頃だった。
参謀総長の執務室には、既にニコライ・ヴァトゥーチン参謀本部第一次長、ワシーリー・ソコロフスキー第二次長、アレクサンドル・ヴァシレフスキー作戦局長、フィリップ・ゴリコフ情報局(GRU)長らが待ち受けていた。
「モラヴィア王都での軍事騒乱については、聞いているな」
疲れの色濃く滲んだ面持ちで、シャポシニコフは自身の執務席に腰掛けるなり、呟くように言った。
「非公式ではあるが…モラヴィア外交団より、王都への赤軍派兵の要請があった。……主戦派の跳ね上がりを、我々の手で処理したいとな」
吐き捨てるように告げてから、ぐるりと将軍たちの顔を見渡す。
「STAVKA、及び政治局会議はこの要請を受諾した。……政治的決定がくだされた以上、後は我々の行動あるのみだ」
「では、侵攻作戦は【予定】通りに決行されると?」
将軍たちのひとり。席次においてシャポシニコフに次ぐニコライ・ヴァトゥーチン中将が尋ねた。
最初返ってきた反応は冷ややかな微笑。続いて参謀総長の口から答えが紡がれる。
「計画には修正が加えられる。当初の予定は地上部隊を先行させるはずだったが、時間的な制約を勘案し、空挺軍団の投入が先んじて行われることになる」
「―――それは」
ヴァトゥーチンは動揺したように瞳を揺らがせて、暫し黙り込む。
その様子を見兼ねたように、傍らに立つソコロフスキー中将が問うた。
「尋常ではありませんな。事情をお聞きしても?」
口調は穏やかだったが、その表情は困惑に満ちている。
最高指導部の決断に対してあからさまな批判はできないものの、客観的に見て暴挙としか言いようのない決断である。
交渉決裂に備え、赤軍は攻勢再開のための戦力移動を実施しており、その気になれば今より13時間以内にモラヴィア領への再攻勢を開始できるだけの即応態勢を整えていた。
計画では砲兵による火力制圧を行った後、空軍の傘の下を機械化部隊が突破。無停止進撃により3日以内に王都前面に達し、その後空挺作戦による王都要所の制圧に合わせて攻略に取り掛かる算段をつけていたのだ。
だが、空挺作戦のみを前倒しで実施するとなればまるで話は違う。
厳重な警戒のもとにあるであろうモラヴィア王都に、たとえ師団規模であっても軽装備の空挺部隊のみを飛び込ませたところで勝算など立つはずもない。
王都を守護する魔道軍兵団、更には予備として置かれているであろうキメラによる機動部隊の迎撃。更には飛竜騎士という防空戦闘機部隊に守られた敵国の首都。
このような防御の固い目標を直接叩くような任務は、本来空挺部隊ではなく十分な砲の支援を受けた歩兵が行うべきものだ。
前世界において、独軍などは空挺の奇襲によって要塞攻略を実施したりもしているが、それは相手が油断していて初めて成立するものだ。
戦時中に、前線からさして遠くもない首都が無警戒であるなど、あるはずもない。
「NKVDからの情報では、現状モラヴィア王都に展開する王国軍の規模は凡そ1個師団。それも政府軍と反乱軍に訣れての交戦状態にあるようだ。……組織だった迎撃は難しいだろうというのが同志書記長のお考えだ」
「しかし…それにしたところで、これは博打に近い」
ソコロフスキーは頭痛を堪えるように指先で己のこめかみを押さえ、ヴァトゥーチン、ヴァシレフスキーも明らかに気の進まないといった面持ちである。
「この作戦が首尾よく成功すれば、今次戦役を速やかに終結させることが可能になる。内紛の間隙を突き、王国首脳部と軍の統帥部を直接我々が掌握できる好機なのだ」
モラヴィア王国の内紛。ソ連にとって、その最もよい結末は講和派……即ち政府側の勝利と、それに続く対ソ講和条約の速やかな締結だ。
そして、講和派単独での政権維持が難しいのであれば、ソ連側による軍事介入も場合によっては必要となる。
この場合。利があるとすれば、ソ連の軍事力を王都に直接展開させることによって、騒乱終結後には王国首脳部への圧力として用いることができるという点だ。
赤軍の手で王室や首脳部を直接【保護】できれば更に良い。
物理的にモラヴィア側の頭を抑えつけてしまえば、その瞬間、講和交渉におけるソ連側の全面的勝利は確約されたも同然となる。
むしろ、ソ連側の狙いはそこにあったと言っても良い。
……無論、それはすべてが思惑通りに進んだ場合の話だが。
「モラヴィア側の航空戦力は王国政府側が掌握している。前線に展開する地上部隊に関しても、当面は考慮せずとも良い。……それでも危険の大きい作戦ではあるが、最高司令部の決定である以上、我々に中止の権限はない」
はっきりと告げ、それからシャポシニコフは少しの間思案を巡らせるように窓の外を眺めてから、作戦局長のヴァシレフスキー少将に水を向けた。
「投入部隊の選定だが、北西軍の第5空挺軍で問題はないな」
「……距離的に見て妥当でしょう。西部軍の第3空挺軍は先の会戦での損耗でブルーノに下がっていますから」
ヴァシレフスキーはそういって頷きを返した。
「空挺部隊が先行するとはいえ、地上部隊も近在の第3機械化軍団を急行させる。NKVDの同志達の分析が正しいにせよ、厳しい作戦になるが…力のバランスはあくまで我が軍が優位にある。君たちも知っての通りにな」
このとき、スターリンに翻意を促すという選択肢については、全く話にのぼることはなかった。
「直ちに上級司令官達に伝達する必要がある。各野戦軍司令官には私が直接話そう」
揺るぎない口調で告げながらも、元帥の顔色は酷く青褪めていた。
元々、病身を押しての参謀総長再任であったのに加え、戦時の激務と深夜に執務を行うスターリンの生活リズムにあわせた殆んど殺人的な執務習慣によって、自身の寿命に鑢がけするような毎日。
このせいで、下僚たちの目には元帥の体調が日を追うごとに悪化していくのが手に取るようにわかった。
(無理もない)
ヴァトゥーチンの表情を苦いものが過ぎる。
スターリンの執務習慣は参謀本部やSTAVKAの軍事委員、幕僚たちにとっては正に殺人的な重荷と言えた。
なにしろ、スターリンが気の向いたときに直ぐ様必要な助言、情報提供が行えるように、参謀本部は午前10時から翌日の午前5時頃までをカヴァーする特別勤務体制をとらねばならなかった。
例えば、STAVKAの幕僚監を務めるアレクセイ・アントーノフ大将などは午前六時から正午までの睡眠時間を許可され、それ以外の時間はいつ如何なるときでも呼出しに答えねばならなかった。
参謀総長であるシャポシニコフの場合は、更にこの時間が短縮される。
遠からず、功のあるなしに関わらずに健康上の理由から、現職からの退任を余儀なくされるのは明らかなように思われた。
将軍たちの気遣わしげな視線の中、シャポシニコフはSTAVKAの決定についてひとしきりの説明を終えると、全員に向かって告げた。
「では諸君。以上の決定に基づき、各々の仕事にとりかかろう。万一作戦が不首尾に終わった場合の二段作戦、北部方面からの機材、戦力の抽出。やるべき仕事は多いぞ」




