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朱き帝國  作者: reden
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閑話⑦ 一服

少し時間を遡って閑話になります。

短いですが……

1941年 9月10日

ソ連占領地 都市ブルーノ



 前世界において有数の紅茶消費国として知られたロシア。その主な茶葉の産地は、南コーカサス地方やアゾフ海東岸に集中している。

 元々、国内に茶葉の産地を持たず、紅茶を中国からの輸入に頼っていたロシアが自国領での生産に成功したのが今から50年ほど前のこと。

 以後、鉄道網をはじめとした交通網の発達と設備の機械化、さらに産地の拡大に伴う生産量の増大によって茶葉の価格も徐々に下がり、紅茶という上流階級の嗜好品が大衆の間に広がっていった。

 こうした流れの先に、一家一台のサモワールという時代が到来したのであろう。


 ―――うん、良い出来だ。


 十分に温まったサモワールから、三人分の紅茶をカップに注ぎ入れ、クラリッサは鼻腔をくすぐる豊かな香りに頬を微かに緩めると、木製のトレイにカップを載せて踵を返した。

 ブルーノ官庁街の奥まった一角に立つ貴族城館を接収した、NKVD地区司令部。その一角を間借りしたこじんまりとしたオフィスが現在のクラリッサの職場だった。

 木組みの簡素なデスクが6組置かれた部屋には、クラリッサの他に二人の人間がいた。

 一人はクラリッサの上官であり、このオフィスの責任者でもあるユーリー・ルーキン大佐。もうひとりは、現地徴募のモラヴィア側協力者としてこの場にいるソフィア・クリッツェン。


「少し、一服されてはどうですか?」


 柔らかな笑みを浮かべつつカップを差し出すクラリッサに、ルーキンは「そうだな…」と軽く頷きを返し、書類を捲る手を止めた。 

 此処でのルーキン達の任務は、モラヴィア東部属州攻略の際に捕虜となった貴族、魔道軍将校の徴募である。

 占領地においてこの種の任務を行う場合、現地の有力者に伝手を持った人物というのは実に得難いものだ。

 この場合、属州領邦貴族の中でも有力な一族の出身者であるソフィアはまさに誂え向きの人物であり、彼女を通じて行政・軍事・民生等の様々な分野で活動する魔術師たちがソ連に流れていくことになる。

 

「良い香りですな」 


 目の前に並べられていくティーセットから漂う甘やかな薫りに、ソフィアは口元を綻ばせた。

 ソ連国内で生産される茶葉の中でも高級品に分類されるグルジア産のオレンジペコである。

 ソフィアの感想に内心で同意を返しつつ、ルーキンはふと頭に浮かんだことを尋ねてみた。


「そういえば、こちらにも紅茶はあるのだったか」


「ええ。グラゴールのプランテーションが一大産地です。茶に限らず、こういった嗜好品の生産は地味豊かな南方が主流になります」


 モラヴィアの風土や特産品について語るソフィアの話を興味深気に聴きながら、ルーキンはテーブルにティーカップとともに皿に載せられたチョコレート、ジャム、蜂蜜等がクラリッサの手で手際よく並べられていくのを眺める。


「こういったものも軍の配給品になるのですか?」


「いや。流石にこれはな」


 並べられていく嗜好品の数々を前に、目を丸くするソフィア。その様子にルーキンは苦笑いした。

 本国との距離や後方連絡線付近の屍兵跳梁の影響もあって、前線への補給には四苦八苦している赤軍ではあったが、現状のところ将兵への配給や食事に悪影響を及ぼす事態にまでは至っていない。

 元々モラヴィアへの侵攻計画は、交通網未発達な未知の大陸が舞台ということもあって相当な余裕を見込んで補給計画等を組んでいたからだ。

 とはいえ、ここまで嗜好品や贅沢品が一般に振る舞われるというのはそうそうない。

 今テーブルに並べられているのは、情報機関員向けに特別に配給されているものだ。

 当然ながら、ルーキン達だけが特別扱いされているわけではなく、外国人徴募を主任務とする工作担当官が渉外の際に使用することを想定して支給される贅沢品のひとつだ。


 テーブルを囲む女魔術師たち。

 クラリッサやソフィアが紅茶片手に談笑するのを眺めつつ、ルーキンは手元の書類を脇に寄せた。

 紅茶の付け合わせであるジャムや蜂蜜はともかくとして、固形のチョコレートなどはこの世界にも馴染みがないらしく、年若い女性ふたりは最初珍し気に、一口つまんでからはその濃厚な甘みと微かなほろ苦さに表情を綻ばせ、童女のように瞳を輝かせてこの菓子の名前や材料について尋ねてきた。

 玲瓏な雰囲気を纏った女貴族の意外と子供染みた一面に些か面食らいつつ、それに如才なく受け応えしながら、ルーキンは思う。

 

(社交が仕事の半ば……とはよく言ったものだ)


 外国における合法・非合法の諜報活動を統括する情報将校。

 工作管理官ケースオフィサーとよばれる彼らの任務―――その成否を担うのは、現地徴募の情報機関員たちだ。

 時には金銭で、時には思想や信条からソ連の国益に与する立場となる彼ら彼女らと信頼関係を築くことは、この手の任務に携わる将校にとっては活動の秘匿性と並んで重要視される要素だ。

 モラヴィア国内で徴募された魔術師たちが、ソ連という国家に対して抱いている警戒心を和らげ、担当将校に個人的な悩みや日常生活での些細な疑問さえも相談できるような状態が、最も望ましいと言える。

 

『君の下にいる魔術師たちを幾人か、夕食などに招待してはどうかな。モラヴィアの魔術師は貴族やブルジョアが多いと聞くし、ちょっとした茶会なども良いかもしれん』


 こう言ったのは、モスクワを離れる前にNKVD本部で顔を合わせたスドプラトフ中将だった。

 特殊作戦畑での経歴が長いこの将軍も、最近では自身のオフィスの横にある居間に、徴募された魔導師を招いて夕食を共にすることがあるようだ。


(しかし……やはり慣れんものだな)


 ユーリー・ルーキンという男にとって、現在負っている任務は必ずしも馴染みのあるものではなかった。

 彼は本来、国内防諜部門に所属する保安将校であり、敵国や占領地における工作員徴募といった任務は有り体に言って畑違いの領分なのだ。

 通常、保安将校は一度配属された部門から畑違いの他局へ異動することは滅多にない。

 この場合、ルーキンが特別だったと言うよりも、彼が所属する組織を取り巻く環境こそが異常だったというしかない。

 【転移現象】の結果として、NKVDという官僚組織が被った最大の損害は海外駐在部レジデンツーラの全滅であり、このために対モラヴィア戦の進展と共に大量に徴募された魔術師たちを管理する人員が大幅に不足していたのだ。

 特にスドプラトフ中将麾下の第4課などは課員全体の凡そ7割を占めていた工作担当官が根こそぎ喪われたことでほとんど壊滅状態に陥っており、現在では防諜部や国内軍・国境軍中心に選抜された将校たちが、これら喪われた人材の穴埋めを行い、それでも足りずに大粛清末期にエジョフとともに粛清・投獄された保安将校の大量釈放と再配置までが行われているほどなのだ。

 このとき釈放された者には元対外情報局長のヤコフ・セレブリャンスキーをはじめ、ニコライ・プロクプク、イワン・カミンスキー、ドミトリー・メドヴェージェフといった元高官や熟練の将校たちが多数含まれており、彼らは釈放後、粛清以前よりも立場の低い一工作担当官として、その経歴を再スタートさせていくことになる。

 そして、彼らのような釈放組よりは立場的に恵まれているものの、畑違いの他局へ配置転換という貧乏籤を引かされた将校の一人がルーキンだったと言える。

 最初の任地でクラリッサという【大物】を徴募したことも、彼をこの任務に深入りさせる原因の一端となっている。

 多分に運も絡んでいるだろうが、こうして工作担当官としてベリヤの目に止まり、直属扱いとなった挙句に昇進までしたからには、自分が元の部署に戻る可能性はかなり低いのではないだろうかとルーキンは考えていた。


(折り合いをつけるしか、無いのだろうな)


 小さく嘆息し、ルーキンは小皿に盛られたジャムを軽く舐めてから自身の紅茶に口をつけた。

 


「情勢が落ち着けば、君もモスクワに赴く機会があるだろう。製菓工場の見学などもできるかもしれんな」


「それは……今から愉しみですな」 


 一瞬。ソフィアの瞳を、それまでの無邪気さとは違った輝きが過ぎった。

 彼女の兄クラウスは、遡ること三日前に空路モスクワへと発っている。

 ルーキンの言葉は兄との後の再会を匂わせたものだった。


「……君の兄上は、本国で歓迎されるだろう。個人用のアパートも支給されるし、医者も政府高官向けの最高のものにかかることができる。……それだけの価値ある逸材だからね」


 ソフィアの表情に微かな緊張の色を見て取ったルーキンは、相手を安堵させるように微笑みを浮かべて言った。

 自身が担当した魔術師のソ連本国での扱いなど、ルーキンも職務上把握している。

 ソフィアの兄、クラウス・クリッツェン・ハウスヴァルドにはゴーリキー通りに面じたスポーツ店ディナモ階上の広々としたアパートが与えられているはずだ。

 党機関要人アパラチキやNKVD高官も住まう高級アパートであり、前世界においては外交官との非公式の会合にも利用されることのあった場所だ。

 特殊工作機関を統括するスドプラトフ将軍やベリヤの懐刀として知られる国家保安管理本部長メルクーロフなどもここの住人だったりするのだが、それを言うと今度は逆に不安を煽りかねないので、そこは敢えて黙っておくことにした。


 一年後。

 モスクワに住む兄のアパートを訪ねたソフィアが、アパートのエレベーターでメルクーロフと不意打ち的な鉢合わせをし、精神的にかなりの衝撃を受けることとなるのだが、それはまた別の話である。













スドプラトフ将軍の回想録によると、メルクーロフは丁度スドプラトフの部屋の一階上に居を構えていたそうで、急や用件や話し合いが必要な時などはよく下の階に降りてきて将軍を訪ねたそうです。



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