第42話 交渉
ソヴィエト連邦という国家が有する外交交渉観。
それは、例えば英・仏・独といった前世界における列強諸国のそれとは一風変わった傾向を持つ。
ソ連外交において、外交交渉とは自国の利益を守り、獲得していくための【銃火を交わさぬ闘争】であり、その交渉姿勢はギブ・アンド・テイクよりもテイク・アンド・テイクを重視し、常に祖国の利益を前面に押し出す傾向が強い。
また権威・形式を重んじ、たとえ時間をかけようとも自国の言い分を通そうとするのも特徴の一つだ。
これは、欧米のいわゆる【民主主義国家】のように、選挙やマスコミ・世論といった要素に足を掬われる危険がないためだろう。
欧米各国の外交が、選挙や支持率・任期といったものを気にしつつ一定の交渉期間内に成果をあげようと努力するのに対し、ソ連側はその達成意識を逆に利用して己の言い分を粘り強く主張し、押し通すのだ。
しかし一方では、共産主義国家ならではの厳格な上意下達の組織編制から外交担当者に与えられる権限が非常に小さく、交渉に際してしばしば相手国側のアドリブや予期せぬ代案に対して対応できなくなるという短所も併せ持っている。
そういう意味では、ソ連外交官は本質的な意味では裁量権を持つ【交渉人】というよりも、モスクワの意思を相手に伝える【伝達者】の性格が強いと言える。
とはいえ無論、これはソ連外交官が交渉下手であることを意味するものではない。
移り気な世論・民意に制約されず、国家利益のためならばどんな交渉手法も是認されるソ連外交は、自国交渉団と本国の連携が上手くいっている限りにおいては相手国にとって凄まじく厄介な相手であり、ことに国内―――身内に弱みを抱えるものにとっては最悪の相手と言えた。
1941年9月16日 15:00
ソヴィエト連邦 モスクワ
クレムリン大宮殿の一区画、エカテリーナ・ホール。
その中央には現在、重厚なマホガニーの長机が置かれ、その机を境界にソ連側、モラヴィア側の外交交渉団が対峙していた。
モラヴィア側外交団はルンゲ侯爵を団長に、外務・国防各々の官僚を10名ばかり伴った陣容である。
対するソ連側は外務人民委員であるモロトフを筆頭に、モラヴィア外交団送迎にも出向いたヴィシンスキー第一代理がその補佐を担う。
更に長机のソ連側には、オブザーバー・助言役として国防人民委員のティモシェンコ元帥や国家保安管理本部長のメルクーロフ、さらにはスターリン自身までもが顔を見せており、ヴィシンスキー以下の交渉団下僚たちも合わせると22人という大所帯である。
敵地において、戦争相手国の首脳部に2倍以上の人数で取り囲まれているという事実は、モラヴィア側交渉団に対して無形の圧力となってのしかかってくる。
これもまた、【規模は力】という信条から大規模交渉団を仕立てることを好むソ連らしいアプローチと言えた。
「まず申し上げておきますが、本交渉は先日貴国より提案のあった我が国との講和条約試案について相互に検討し、両国の納得の行く形での修正等を行い、これをもって講和条約本稿とするものであります。宜しいですかな?」
「無論です」
ソ連側を代表して口火を切ったモロトフに対し、モラヴィア側代表であるルンゲ侯爵は頷きを返し、互いに着席する。
机越しに対峙する戦争当時国の外交官たち。しかし、その表情は対称的だ。
モラヴィア側に屈辱と悲愴感が漂っているのに対して、ソ連側は勝者らしく傲然と佇み、幾人かの顔には余裕の笑みさえ浮かんでいる。
「宜しい。それでは、先日貴国より頂いた講和条約試案に関して、我が国において決定された修正案を提示いたします」
そう言うとモロトフは己の背後にて直立する外務人民委員部の下僚を振り返り、目配せした。
心得たように外務委員は頷くと、ソ連邦の国章が描かれ、厳重に封のされたフォルダを開封して数枚の書類を取り出し、モラヴィア側に差し出した。
交渉団を代表してルンゲ侯爵がそれを受け取り、書類の写しを他の随員達に回していく。
全員に写しが行き渡ったところで、ルンゲは自身の手元に置いた書類に目を通し始めた。
だが、読み進めていくうちにモラヴィア側の随員たちの顔から徐々に血の気が引いていく。
ソ連側条約案を読み終えるや周囲の同僚と困惑に満ちた視線を交わす者。顔面蒼白となって彫像のごとく書類に視線を落としたまま硬直している者。
救いを求めるように外相に視線を向ける者もいる。
その様相だけでも、ソ連側が提示した講和条件がモラヴィア側の予測を遥かに超えて強硬かつ受け入れ難いものであることが容易に察せられるというものだ。
「これが貴国の要求だというのか!?これは……わが国に無抵抗で滅べと言っているようなものではないか!?」
モラヴィア側の外交官のひとり。年若い青年貴族が憤りもあらわに席から荒々しく立ち上がり叫んだ。
「控えよ、レンボルク伯。ここは貴殿の領邦ではないのだぞ!」
すかさずルンゲ侯爵の鋭い叱責が飛び、譴責を受けた青年貴族はグッと一瞬言葉を詰まらせると荒れ狂う感情を無理矢理押さえつけるかのように唇を噛み締め、立ち上がったときと同様に荒々しく席に腰を下ろした。
「部下の非礼、お詫び申し上げる」
頭を下げるルンゲに、ソ連側を代表してモロトフが鷹揚に頷きを返した。
「構いません。まぁ…貴国にとっては、なかなか頷き辛い条件でしょうからな。皆様が憤る気持ちについては理解できます」
モラヴィア側の謝罪を穏やかな笑顔で受け入れるモロトフだったが、ルンゲ侯としてはこれに安堵する気持ちには到底なれなかった。
ソ連側が出した条件。それは図らずもルンゲが想定していた最悪のケース―――すなわち国家主権の危機そのものだった。
講和条項のうち代表的なものを羅列しただけでも、魔道院の解体にはじまり魔道軍指揮権のソ連政府への移行、救世計画関係者のソ連への身柄引き渡し、王国領への赤軍進駐、現国王の退位、ソ連政府の指導による王国政府の再編、ソ連側が指定する人物を戦争犯罪者として引き渡すなど……ほとんど無条件降伏に等しい内容である。
この条件を飲んだが最後。モラヴィア王国という国家そのものが以後の歴史から消えてなくなるであろう事は確実だった。
「外相―――……ああ失礼、外務人民委員閣下。ひとつ確認したいのだが、この条件には我が方から講和の絶対条件として盛り込んだ王家の安堵という項目が抜け落ちているように思われるのだが?」
努めて冷静さを保ちつつ、ルンゲは問うた。
「無論、そちらに関しては考慮しております。我が国としては、こたびの戦争責任は現国王および、現王国政府の救世計画を主導したグループにのみ帰せられると考えております。故に、王室関係者全てを罪人として連座させようという意図はありません」
「なるほど。ではマティアス陛下が退位されれば、王孫殿下をはじめとした王家、大公家の方々には塁を及ぼさないと言われるのですな?」
「左様です。ただし、それは国王を除いた王家の方々が王権にまつわる政治的権能一切を有していないことが前提です」
テーブルの下で、ルンゲの拳が硬く握り締められる。
クレイハウザー家から王権を剥奪する……その上で王政府を再編するということは、ソ連側に近しい人物を傀儡として王位につけるつもりなのか?
あるいは王国を離反した東部属州諸侯から、適当な人物を飾りとして玉座に据えるという手も考えられる。
だが、此の世界に召喚されてより、未だ3ヶ月足らずの異界人がどこまで巧みに動き回れるものか?
外相を迷わせたのはソ連と明らかな協調関係にあるネウストリアの存在だった。
ソ連側がこの世界について無知だとしても、そこにネウストリアからの情報提供という要素が加われば、その行動予測は途端に困難なものとなる。
ルンゲはモロトフから一度視線を逸らすと自身の下僚外交官たちの表情をそれとなく窺い、随員の半ばほどが呆然と、あるいは沈痛な面持ちで肩を落としているのを見て取り、その不甲斐なさに内心で嘆息した。
(……この程度で根を上げるとは!)
魔道軍の圧倒的軍事力を背景とした恫喝外交を常としてきたモラヴィアには、格上の国家との不利な交渉を行う経験が圧倒的に不足していた。
無論、中にはネウストリアのような精霊神教国列強との交渉経験を持つものもおり、そういった熟練の外交官達はソ連側の揺さぶりにも表情を動かすことはなかったが。
この交渉を祖国の浮沈をかけたものと意気込み、最良の人選をしたつもりでいたルンゲからすれば、随員の半数近くがソ連の最初の一手で良いように翻弄されている今の状況には、かなり忸怩たるものがある。
気を取り直すと、ルンゲはモロトフに王国としての返答を行った。。
「外務人民委員閣下。王国政府を代表して言わせていただくが、このような条件を丸呑みするなど到底できかねますな」
「ふむ、それは困りましたな。我々としては無益な流血を避けるため今回の交渉に臨んだのですが……それが貴国の判断であるというならば、是非もありません。遺憾ではありますが……再戦ですな」
話はこれまでだと言いたげに首を横に振るモロトフに、ルンゲは眉一つ動かすことなくうっそりと告げた。
「流血を望まぬのは我らとて同じこと。このまま戦を続ければモラヴィアの民悉くが屍を野に晒すことにもなりかねぬ。従属魔術、死霊魔術……村という村、街という街を地獄に変える術を我らは持ち合わせておりますゆえ」
国土、国民全てを犠牲とした殲滅戦を匂わせる侯爵に、今度はソ連側が鼻白んだ。
「自国民と領土全てを人質に取ると……そう受取ってよろしいので?」
「まさか!しかし、遺憾ながら我が国の諸侯の中には一戦も交えることなく己の所領を明け渡すことに抵抗を感じている者も少なくないのです。座して全てを喪うくらいならば、せめて一矢なりとも……講和条約の内容如何によっては、そのような跳ね上がりが妙な策動を始めないとも限らない」
そして、そういった強硬派の魔術師は魔道院の高位導師ほど多い。
彼らはいずれも王国屈指の実力を有する大魔術師であり、優れた魔術研究者として王都魔道院に席を持ち、異界軍の実力を伝聞以外で知ることなく、かつ救世計画を推し進めていたことにより、王国の敗北によって真っ先に責任を問われるであろう者たちだ。
このような強硬派を、政府内で多数を占める講和派の貴族や官僚達が強権で抑え込んでいるのだ。
だが、今回ソ連が提示したような苛烈な降伏条件では、講和派の諸侯や大貴族からも抗戦派に鞍替えするものが現れかねない。
自分の身が破滅するとわかっていて投降する人間などいないのだ。
そういった内情をそれとなく匂わせるルンゲに、モロトフの傍らに控えるヴィシンスキーが冷ややかな眼差しとともに口を開いた。
「随分と正直な方ですな、外相閣下。仮にも交戦国の閣僚を前に自国の恥部を晒すとは」
嘲りを多分に含んだ毒舌を吐きながらも、ヴィシンスキー自身はモラヴィア側の反応に内心で舌打ちを漏らしていた。
自国の継戦派を抑えきれないなどという泣き言を、よりにもよって当の交戦国相手に漏らすなど、国の体面に汚泥を塗りたくるようなものだ。
だが、逆にここまで開き直られると、ソ連としても対応に迷うところではあった。
唯でさえ不毛なモラヴィア国土を、更に痛めつける焦土戦。加えて、赤軍の兵站に過大な負荷をかけつつある屍兵の跳梁。
このような条件下で、既に列強としての力を喪失しつつあるモラヴィア相手に不毛な殲滅戦を続けても、ソ連側には全くと言って良いほど旨みがない。
仮に自軍の損害を無視して全土占領を成し遂げたとしても、手に入るのは屍兵が徘徊する不毛の土地である。
とはいえ、このままモラヴィア側の要求するがままに講和条件を緩和するなど弱腰に過ぎよう。
今次戦争において、ソ連側はモラヴィアの一方的な侵略を受け、自国民や国家資産に多大な被害を被っている。
しかもモラヴィアはソ連邦の搾取と人民の奴隷化を堂々と公言し、ソ連邦自体を自国の属領・植民地として扱っていたのだ。
生半な条件では、国内的にも対外的にも国家の体面を傷つけかねない。
どう対処したものか、指示を求めるようにモロトフへと視線を遣るヴィシンスキーに、モロトフは一瞬スターリンと視線を交えると、ルンゲに向かって話しかけた。
「貴国の要望は承りました。さて、講和条約案に関して両国より多数の要望、試案が出揃いましたが、これに関して双方すり合わせのための検討が必要でしょう。貴国としても、本国へ指示を仰ぐ必要があるでしょうからな。そこで、これより二刻ほど休会を挟むことを提案したい。よろしいかな?」
「それは当方としても有難い提案です。異論はありません」
その言葉を合図に、その場は一時散会となった。
だが、2刻後の条約交渉が再開されることは終ぞなかった。
それどころではない事態が発生したからだ。
事件は講和会議参加国の片割れ……モラヴィアの王都にて発生していた。




