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朱き帝國  作者: reden
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閑話⑥ 行末

1941年8月26日

ソヴィエト連邦  レニングラード

旧スモーリヌィ女学館 レニングラード共産党本部



 レニングラード共産党本部。

 その建物が建築されたのは、18世紀。エリザヴェータ女帝の治世にまで遡る。

 正教の修道院として建築されたこの建物の横に寄宿学校が併設されたのが二代後のエカチェリーナ2世の代のことであり、これがロシア最初の女学院となる。

 10月革命の折り、ここにはレーニンの革命司令部が置かれ、その後、ソヴィエト政府が成立し、首都機能がモスクワに移転した後はレニングラード地方党の本部が置かれている。

 帝政期には寄宿学校として利用されていた建物の3階。

 かつてレーニンが執務し、その後ジノヴィエフ、キーロフ、ジダーノフと主を変えてきた書斎の一室に、クラリッサはいた。

 NKVD将校の制服に身を包んだ女魔術師の手には親指の爪程もある大きさのトパーズが埋め込まれた短杖ワンドが握られ、それは天井に向けて高々と掲げられている。

 音楽的な発声と共に紡がれるロシア人には理解できない言葉の羅列。

 結界魔術の詠唱が開始されたのだ。

 周囲の空間から金属か何かが軋むような音が聞こえ、同時にクラリッサの周囲を光の鱗粉が舞い始める。

 どこか幻想的な光景を、その場に居合わせる者達は固唾を呑んで見守った。



 実際のところ、NKVD長官直々の命令であるという【防諜対策】は、クラリッサからしてみると大して手間のかかる仕事というわけでもなかった。

 クラリッサが命じられたのは、透視・盗聴を防ぐための結界であり、これは銃弾などの物理的な攻撃を防ぐためのものに比べれば数段ランクが落ちるものだ。

 そして彼女は、モラヴィア魔道軍の中でも選りすぐりの結界魔術師が集められる防護連隊―――戦場において敵軍による対軍レベルの魔術攻撃を防ぐための防御部隊の出身であり、掛け値なしに一流と呼んで良い魔術師である。

 その実力は、彼女が赤軍の捕虜となった東グレキア会戦でも証明済みだ。

 なにしろ、わずか十数分のこととはいえ、赤軍の一個方面軍による面制圧砲撃を一個連隊で完全に防ぎ切ってみせたのだ。

 そんなクラリッサからすれば、今回構築する簡易結界程度はほとんど片手間仕事で事足りるものであり、ソヴィエト側の高官たちが自分の施術しているのを見て、背後から『ほぉ』だの『おおっ!』だのと歓声や唸り声をあげているのは困惑を禁じえない光景と言えた。


(そんなに高度な術式というわけでも無いのだが……)

 

 ちらりと、自分に付き添ってきている上官に視線を送る。

 ルーキン大佐はNKVD本部でもこれを目にしていることから、いい加減慣れてしまったのだろう。驚きの表情を浮かべるレニングラードの高官達の姿に、口の端に苦笑を浮かべて少し離れたところに立っている。

 ここに来る以前のNKVD本部での仕事もそうだったが、ロシア人の魔術に対する―――クラリッサからすると―――過剰な反応は、彼らが魔道文明を持たぬゆえだと分かっていても、彼女を些か辟易とさせた。

 クラリッサは内心で少しばかりうんざりしながらも、光の鱗粉が舞い散る短杖を振るい、結界を手早く組上げていく。

 中空に散った光の鱗粉はロシア人には読み取れない奇怪な文字の形を空中に描きつつ、建物の中に溶け込むように消えていく。

 この程度の術式。多少集中力を乱されたところで失敗などしない自信はあるが、仕事中の雑音は鬱陶しいことこの上ない……むろん、ソヴィエト政府の高官に対してそんなことは絶対に言えないが。

 今、彼女のすぐ後ろには3人ばかりの中年男性が集まっており、クラリッサがなにかする度に歓声と唸り声のアンサンブルを奏でるのだ。

 どこか凸凹な印象を受ける3人の党書記、政治委員達。

 右から順に……青白く、顔色の悪い細身の男。アンドレイ・ジダーノフ第一の腹心にしてレニングラード州の党務を取り仕切るアレクセイ・クズネツォフ党書記。

 頑健な体躯のテレンチー・シティコフ軍事会議委員。恰幅のよい肥満体のレニングラード市ソヴィエト議長(レニングラード市長)、ピョートル・ポプコフ。

 この政治局員たちに魔術を妨害しようなどという意図はないのだろう。

 それはクラリッサにもわかるのだが、もう少し離れて静かにみることはできないのだろうか。

 そんなことを思ったりもするが、彼らの魔術を見る真剣な眼差しと、彼ら自身のこの国における地位を考えれば、文句など言えようはずもない。


(彼らに…悪気はない。ただ仕事熱心なだけだ)


 彼らの奏でる雑音三重奏によって集中力をこそぎ落とされながらも、クラリッサは黙然と施術を続けるのだった。









 ■ ■ ■









 市内各所の重要施設を巡り、結界構築を終えたのは、20時を過ぎたあたりだった。

 最後の結界を張り終え、スモーリヌィの党本部を出たときには、外は夜の帷に包まれていた。

 公用車で官舎まで移動する中、車窓越しに見えるレニングラードの夜景はモスクワのそれと似ているようでいて、どこか違って見える。


 どこか重苦しく、質実剛健といった雰囲気のある伝統的、保守的なモスクワ。

 粗野だが活気のある、がめついモスクワ町人メシチャンストヴォに代表されるタフで、不器用で、大酒飲みの手合い。

 保守的な孤立主義者で、ヨーロッパを恐れ憎み、同じ農民たちを掻き分けて成り上がった東の雄。

 彼らにすればレニングラード―――ペテルブルクは西欧の物もばかり摂り入れたがる危ういものの象徴だった。


 一方で、西の中心がここレニングラードだ。

 かつてここがペテルブルクと呼ばれていた頃から、此処には煌びやかな文化が花開いていた。

 保守的なモスクワに対し、ペテルブルクは進歩的なスタイリスト。

 パリやローマの華麗さに惹かれ、そのスタイルは西欧風に作られた。

 帝政時代、ロシア上流社会の言葉はフランス語だった。

 新しいものを好み、外国好きで勤勉な都会者。奥地のモスクワを田舎っぺ丸出しと見下していた。


(父性と母性……だったかな)


 車での移動の最中、両都市についてコソフ中尉が解説していた内容の一部を思い出し、クラリッサは小さく笑った。

 今日は昼以降はずっと仕事だったにもかかわらず、移動中に交わされたルーキン、コソフらとの会話を思い出すと、まるで市内観光でもしていたかのようだ。

 いや、自分がそういう質問ばかりしていたせいか。モスクワ駅でのアイスクリームの件もそうだったが、気づかないうちに随分と舞い上がっていたのか。

 思い出して急に気恥ずかしくなり、クラリッサは窓の外に視線を逸した。









 ■ ■ ■








 クラリッサたちが党本部を出てしばらく経った後。

 未だ仕事を続けるアレクセイ・クズネツォフ党書記のオフィスをNKVDのエイチンゴン少将が訪れた。

 

「夜分、恐れ入ります。同志タヴァーリッシ


「かまわんよ。未だ暫くは帰る予定もないのでね」


 青い落くぼんだ目の目頭を揉みながら、クズネツォフは執務席に掛けたまま将軍を出迎えた。

 党本部の至るところには、未だ煌々と明かりが灯っている。

 適当にその辺に掛けろと顎をしゃくるクズネツォフに、エイチンゴンは苦笑しつつ近くのソファに座った。


「市内の重要施設に関しては、これで盗聴・透視対策は終わりました。彼らは明日より休暇ですな……羨ましい」


「それはいいが。行動はちゃんと把握しているのだろうね」


 大して心配している様子もなく、なんとなく聞いてみたという感じのクズネツォフに対し、エイチンゴンも軽く首肯して答えた。


「当然、行動予定は案内役のコソフ中尉に提出させていますし、当日も彼とは別に人を張り付ける予定です」


 ルーキンが考えていた通り、コソフは案内役であると同時に監視役も兼ねている。

 それはクラリッサ自身に対してでもあるし、彼女に万一の危害が加わらないようにするための護衛でもある。


「明日はカフェで朝食後に、エルミタージュの復旧区画を見学し、その後は映画鑑賞……先月封切られた【アントン・イワノヴィチ大怒り】ですな。私も暇なら是非行きたかった!」


「戦後に行きなさい」


 呆れたように言うクズネツォフにエイチンゴンは笑みを返して続ける。


「夜はマールイ劇場にてNKVD歌と踊りのアンサンブルのコンサート……いやはや私顔負けの過密スケジュール。コソフ中尉も本気のようですな」


「文字通り観光というわけか。まぁ、問題なかろう。ただし、ネウストリアの駐箚官とかち合うことが無いように、それだけは注意したまえ」


「わかっております」


 こればかりはエイチンゴンも真剣に頷いた。

 モラヴィアとネウストリアの関係には宗教問題も絡む。

 こういった問題のデリケートさはロシア人自身が古くから悩まされてきたことであり、状況の把握もせずに下手に触れれば問題を更に抉れさせかねない。

 精霊神教とモラヴィアの関係について、もうしばらくは静観しつつ情報収集に専念すべきだとエイチンゴンは考えている。


「ところでモラヴィア戦線についてですが、漸くブルーノの包囲環が閉じたようですな」


 その言葉に、クズネツォフの顔に笑みが浮かぶ。

 

「聞いている。それと、そちらの作戦グループがなにやら重要人物を捕らえたとか言う話も聞いたがね」


 クズネツォフの問いに、エイチンゴンは頷いた。


「我が国への侵攻を目的としたモラヴィアの遠征軍……新領土鎮定軍はご存知ですな」


「あぁ。実にふざけた名称だ」


「包囲環が閉じる間際、そこの魔道軍部隊が一部市外への脱出を図ったようでして。まぁ、その連中は結局、我が軍に再捕捉されて投降したのですが……幸運にも、それが鎮定軍司令部だったようで」


 クズネツォフは一瞬呆気にとられ、暫くしてから「ハッ!」と侮蔑もあらわに吐き捨てた。


「軍主力をまとめて包囲されたあげく、司令部のみで脱出?我が軍なら全員その場で銃殺だな」


「ごもっともです。連中からいくつか情報を得られました。現在、ブルーノに残留しているのは歩兵主体の凡そ3個旅団。街の周囲には強力な結界が貼られているようですが、突破は可能でしょう。クトゥーゾフ作戦完遂は間近です」


 その報告に、クズネツォフは暫し目を閉じ、感慨に耽るように小さく息を吐いた。


「目出度いことだ。……それで、その投降した連中はどうするのだ」


「これまでの捕虜と同様、ルビヤンカに移送予定です。現在、同志ベリヤ直属のチームが向かっているようです」


 言いながら、エイチンゴンは思い当たる人間を頭のなかに思い浮かべた。

 モラヴィア領内で直ぐに現地に駆けつけられる人間は限られている。

 恐らく、向かったのはクラシュキンだろう。

 捕虜がどうなるかは分からないが、少なくともクラリッサ並の厚遇などは無いと見て良い。

 特に、今回捕縛したものたちは下手をすればこれまでの焦土作戦に関わったものたちである可能性もある。


(……戦死していたほうがマシだったかもしれんな) 


 連中が送られるのはルビヤンカの監獄の中でも外国人や重要人物が収監される第2ブロック……ことによるとラボ併設の特別監房の可能性すらある。

 そこまでいくとエイチンゴン程の地位にあるNKVD高官にとっても機密の壁に覆われた未知の領域だ。


 NKVD本部の地下区画。ルビヤンカ刑務所はいくつかの区画に分かれており、ここに来る以前、クラリッサが収監されていたのは第2ブロックと呼ばれる場所だった。

 そこは工作員として徴募される、あるいは抹殺予定の外国人や重要人物を収監している区画であり、その外見はホテルにも似ている。

 各種家具も完備され、食事はNKVDの食堂やレストランから運ばれる上等なものだ。

 区画の外から聞こえてくる嫌な雑音はクラリッサの神経を著しくすり減らしたりはしたが、それでも扱いとしてはかなり上等だった。

 だが、クラリッサのような例は稀有と言って良い。

 この第2ブロックにはNKVDのすべての死刑判決を執行した司令部コメンダンツーラが存在しており、わけても極めつけなのは司令部コメンダンツーラ直轄の毒物研究所の存在だ。

 2代前のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダによって設立されたその研究所は公式書類においては【ラボX】と呼ばれている。

 現在、所長を務めているのは優れた生物学者としてその名を知られるグリゴリー・モイセーエヴィチ・マイロノフスキー教授。

 悪性腫瘍に対する致死ガスの影響と、毒物の使用を研究する学者であり、NKVDの技術支援部長直属として、特別実験監房の責任者も兼任していた。

 特別スペツィアーリナヤ実験ラボラトールナヤ監房カメーラは、ルビヤンカの監房の中でも最も機密度の高い超極秘独房であり、NKVDの高官であっても特別な許可がない限り立ち入ることの出来ない区画だ。

 毒物を使用した臨床実験、極秘の処刑などに利用されているというが、詳しくはエイチンゴンにさえ解らない。 

 まぁ、聞いて楽しめるようなことでないのは確かだろう。


 不快な想像をしてしまい、エイチンゴンは微かに顔をしかめた。

 目の前の党書記にしても、恐らく彼らの行く末など想像の埒外だろう。


「少なくとも、クラリッサ嬢のような厚遇は受けられんでしょうな」


 エイチンゴンは嫌な想像を払って、当たり障りのない答えを返した。








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クラリッサ嬢かわいい
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