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朱き帝國  作者: reden
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閑話⑤ 諜報

1941年8月26日

ソヴィエト連邦  レニングラード

NKVD支局



 コソフ中尉の先導のもと、ルーキン達はビルのエントランスを抜け、エレベーターで4階へと上がる。

 案内を受けてビルの中を進みながら、クラリッサはいくつかの部屋の前にテープが貼られ、通行を止められていることに気づいた。


「この通り一帯は、先のモラヴィア軍襲撃の際に大規模な略奪を受けていまして。市街戦の際、魔術攻撃による破孔が出来て封鎖されている区画があります」


 クラリッサの視線を見とがめたコソフが淡々と解説する。

 ルーキンは知っていたようでチラリと視線をやったきり見向きもしないが、クラリッサの方はなんとなく居心地が悪かった。

 この中尉レイチェナントは、果たして知っているのだろうか。自分がそのモラヴィア軍の魔術師であったことを。

 前を歩いているため、中尉レイチェナントの表情を読み取ることはできなかったが、クラリッサにはどうにもそれが気になった。

 やがて、廊下の突き当たりの部屋に行き着いたところで、コソフ中尉は振り返り、二人に敬礼した。


「では、小官はこれにて」


「ああ。ありがとう中尉レイチェナント


 答礼を返し、来た道を戻っていくコソフの後ろ姿を見送ってから、部屋の扉をノックした。


 レニングラードNKVD責任将校、レオニード・エイチンゴン保安少将は今年で42歳を迎える。

 彼がレニングラード着任以前に着いていた職位は国家保安管理本部第4課次長であり、つまるところNKVDの非合法工作活動をスドプラトフと共に統括する立場にあった。

 この当時、NKVDにはふたつの対外諜報機関が存在した。

 ひとつはパーヴェル・フィーチン中将を長とする保安管理本部第5課―――対外情報部であり、外交や貿易の名のもとに人員を配した合法的ルートでの諜報活動と、非合法的な情報ネットワークをモスクワ本部でまとめるのがその主任務となる。

 任務の中心となるのは、海外において活動する旧白衛軍亡命者やトロツキスト、反ソ的国家・企業の監視であり、その任務対象・収集情報ごとに情報部内でも経済情報、科学技術情報、そして各地域ごとのセクションに分かれている。

 これら各セクションの中において、世界各地の合法・非合法の海外駐在部レジデンツーラから送られてくる数々の情報を分析するのが彼らの主任務だ。

 そして、合法・非合法どちらに比重が置かれていたかといえば、海外駐在の貿易・外交員が少ないソヴィエトにおいては後者の比率が遥かに大きかった。

 もうひとつの諜報機関は特殊任務部とも呼ばれる第4課であり、これは第5課の活動を補完する予備情報網であると同時に、戦時においては破壊工作活動等に従事することもある部署だ。

 任務の性質上、非合法活動専任となる4課の課員が国家の表看板である外交使節団や貿易部のメンバーとして入り込むことはまず無く、4課に所属する将校は本部で企画に携わる僅か20名を除けば、残りの者たちは海外で、非合法の隠れ蓑のもとで任務に就いている。

 転移直前の時点で4課が抱えていた人員は約70名ほどで、そのうち47名が工作統括官ケースオフィサーとして海外拠点に派遣されており、その全員が、『転移』のあった1941年6月22日をもって永久にこの世から失われた。

 現場担当官で残されたのは人事の絡みで偶々モスクワに帰参していた3名に過ぎなかった。

 このような状況にあって、対外情報部門再建がNKVDの重要命題となったのは言うまでもない。

 モラヴィア、ネウストリア、さらにはこの世界に存在する他の有力国家を相手取り、諜報戦を行えるだけの情報官・工作官の育成は急務と言えた。

 そのような状況にあって、エイチンゴンのような経歴を持つ人物が対モラヴィア戦における最大の後方拠点であり、最近ではネウストリア軍の派遣武官も駐箚するレニングラードに着任したのは、無論、故無いことではない。

 工作担当官として見た場合、彼は間違いなくソヴィエト最優の一角を成す人物で、その赫々(かくかく)たる【戦歴】にはレフ・トロツキー暗殺作戦、また、米国におけるソヴィエト諜報網の構築。英国においては原子力技術を含めた多数の技術・軍事情報をソヴィエトへと流す、【ケンブリッジファイブ】をはじめとした多数の情報資産獲得などがある。

 経験豊富な海外駐在官レジデントとして3大陸を渡り歩き、欧州各国の情報機関や中国の軍閥相手に諜報戦の戦歴を重ねてきたこのスパイマスターがレニングラードに居座っている理由―――それは今後の対モラヴィア・対ネウストリアの諜報戦を見据えた情報資産アセットの徴募であり、ネウストリア人を中心に少なからぬ異世界人が足跡を残すこの大都市の防諜対策のためであった。


「おお、よく来たね。ルーキン大佐、クローデン大尉。まぁ立ち話もなんだ。かけたまえ」


 エイチンゴン少将は満面の笑みを浮かべてルーキン達を出迎えた。

 型通りの挨拶からそのまま任務に関する話に入るかと思いきや、予想外の歓迎ぶりにルーキン達はいくらか面食らった。

 ベリヤが言っていた休暇というのは、そのまま額面通りの意味だったのかと思えてくるほどに。

 いつも落ち着いている上官が戸惑っている様子を珍しげに見てから、クラリッサはエイチンゴン少将に視線を移した。

 灰緑色の瞳を持つ大柄な将軍は、二人に来客用のソファに座るよう勧めながら、自身も二人の対面となる椅子に腰を下ろした。

 見るからに闊達な雰囲気をもった人物だ。丁寧に撫でつけられた黒髪に、表情は笑顔ながらもその鋭い眼光からは知性が滲み出ている。

 顎の下辺りには古い傷跡が刻まれており、彼の豊かな戦歴を窺わせた。

 クラリッサの視線に気づいたのか、少将は自身の顎に手をやるとニンマリと笑みを浮かべた。


「ああ…この傷かね。同業者や初対面の人間は大抵こいつを戦傷と思い込むんだが……生憎だな。こいつは休暇中に交通事故でやった傷だよ」


 ポカンと呆気にとられるクラリッサに、少将は高笑いを響かせた。

 




■ ■ ■






 場が和んできたところで、エイチンゴンは本題を切り出した。


「さて、それでは仕事の話に移ろう。同志パーヴェル・アナトーリェヴィチから君たちの任務については聞いている。手早く仕事を済ませて、残りの時間で市内観光を愉しむと良い」


 そう言いつつ、一枚の地図をテーブルに広げた。

 レニングラード市街地の地図だ。いくつか青鉛筆で書き込みがされており、官庁街・工場街のいくつかの建物に印がつけられている。


「クローデン大尉。君にやってもらう仕事は単純だ。この地図に印が付けられている建物に、結界魔術を掛けてほしい。……あぁ、この建物もそれに含まれているから、やるときは私に一声かけてほしいね。魔術とやらを是非一度見てみたい」


 エイチンゴンはそこまで言うと、興味深気にクラリッサを見た。

 よほど魔術の実演が見たいのだろうか。その瞳は手品を見物する少年のようにワクワクとした輝きを宿している。


「閣下は魔術を見たことは無いので?」


「火炎魔術というものならあるがね。ルビヤンカに送った捕虜に一度実演させてみた。……まぁ凄いといえば凄いが……あれは手品の凄さだな」


 あっさりとした口調で、エイチンゴンは言い捨てた。

 エイチンゴンが興味を持っているのはむしろ防諜技術として注目を集める結界魔術や、人の精神に作用する従属魔術といった分野になる。

 火炎魔術のような戦闘用の魔術に対する関心はそれほどでもない。

 エイチンゴンからすれば、銃が杖に替わっただけでやることは一般的な赤軍兵士と変わりないからだ。

 ある意味極端な割り切り方だが、彼の観点からすると、そういった魔術の無力化方法は銃を持った人間に対するのとそれほど違いがあるわけはなく、新たなノウハウなど必要ない。

 むしろ注意すべきは科学文明において対応する事例がない精神・空間に作用する魔術だ。

 特に、今後魔術師を登用していくのであれば、魔力を持つ者に作用するという従属魔術への対策は避けて通れないだろう。


「そういう意味では、クローデン大尉。君の存在はわが祖国にとって大いなる奇貨といえる。君の頭のなかにある魔術に関する様々な知識には、今や国家の命運を左右しかねないほどの重要性があると言ってもいい」


 身を乗り出して熱弁を奮うエイチンゴンに、クラリッサは息を飲んだ。

 魔法王国において結界魔術を修め、軍属魔術師として重ねた経験。さらには魔術研究者たる証である『導師』の称号。

 それらが魔道文明の存在しないこの国においてどのような意味を持つのか。それをクラリッサは改めて実感した。


「二人には重々、その立場について留意してほしい。現状、我が国に魔術師の捕虜はそれなりにいるが、クローデン大尉はその中でも第一級の人材だ」


 そして、レニングラードにおける二人の立場を簡潔に告げた。

 魔術結界の構築は方面軍司令部、レニングラード州政治局の首脳部、NKVD支局においても限られた人間のみが知る秘匿事項であり、クラリッサは当面の間、東プロイセン出身のドイツ系将校という扱いになること。

 彼女の直属の上司はルーキンであり、ルーキン自身も含めて、その指揮系統はベリヤ直属として独立していること。


「国内での任務遂行に当たっては十分に注意してもらいたい。あぁ…市内での案内役は先程君たちを迎えに行ったコソフ中尉に任せる予定だ。彼は秘密を知る立場にあるから、そこは安心したまえ」


 映画にバレエにオペラ。この街の見どころは盛り沢山だぞ、とエイチンゴンは快活に笑った。



※ケンブリッジファイブ


 戦間期から第2次大戦後に至るまで、英国におけるソ連情報網構築において大きな役割を果たしたスパイグループ。

 名門ケンブリッジ大学トリニティカレッジの出身者達であり、全員が英国の外交・情報機関における要石と言える立場にあった。


 ①ドナルド・マクリーン 米国駐箚外交官・米英共同の原子力研究の監督官


 ②ガイ・バージェス 外務副大臣秘書


 ③アンソニー・ブラント MI5工作担当官・戦後は英国王室の美術鑑定人


 ④キム・フィルビー MI6上級職員・米国におけるCIA・FBIでの英国代表(実質的なMI6部長代理)


 ⑤ジョン・ケアンクロス CG&CS(政府暗号解読学校)研究員


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