使命
温室を出た先には、見事なバラの花壇が広がっていた。レンガの縁石と花とで彩られたそこは、窪地になっているおかげで、温室側と郷土樹木園側のどちらからやって来ても、全体像を見下ろせるようになっている。外周をぐるりと囲むように整えられた道は、四方からさらに中央へと伸び、噴水の周りで合流を果たす。
そこはかとなく秘密の花園っぽさがあるのは、背の高い樹木によって外の景色が遮られているからだろう。
「助けてくれてありがとうございます」
噴水へ続く緩やかな階段を降りながら、僕が申し訳なさそうに言うと、薔子さんは皮肉げに唇を歪めた。
「やっぱり困っていたのか」
「困ってました」
「ああいう輩は放っておきたまえ」
迷惑だと感じたら毅然と突っぱね、躊躇無くその場を後にする。それをするだけの度胸が僕にあればいいんだけど、実際はご覧の有様だ。薔子さんなら出来そうだ。
「しかし、まさか君が私の園に来てくれるとはな。もったいない。連絡をくれれば私がガイドしたのに」
「あー……実はそのつもりでした」
「なら何故しなかった」
「迷惑かなと思って」
隠してもバレそうなので正直に伝える。薔子さんが愉快そうに目を細めた。
「紳士ぶっているのか?」
「そういうんじゃないです」
断じて違う。ただ単に、誰かさんが臆病だっただけだ。
「青年、君はどのルートで回ってきた?」
「ハーブ園からです」
「よろしい。ではせっかくの機会だ、残り半分は私が案内しよう」
「え、いいんですか? 仕事の途中じゃ……?」
「私の役目なんて形式的なものさ。基本的に、日々の業務は下の者に任せている。もちろん、我が目で草花の様子を確かめるのも大切だから、こうして頻繁に見回っているのだがね」
なら良かった。一応確認をとったけど、こちらとしては願ったり叶ったり。初めから断る気など無い。
「……それに、訪れた人の知的好奇心を満たすことも、学芸員たる私の重要な役目だ」
しばらく黙って僕を見詰めて、薔子さんがそう続けた。
「学芸員? 前はガーデナーだって言ってませんでした?」
「ガーデナーであり学芸員だよ。どちらも資格だ、両立は容易いさ。肩書きだけなら司書も持っている……。君は確か市立大だったな?」
「はい。都市創造学部です」
当初は別の大学の医学部志望だったのだが、理科と数学の偏差値が絶望的に足りず、没落に没落を重ねて現在位置に落ち着いたという、物悲しい裏話がある。
「尾道の方なら学芸員資格も取れたのだがね。こっちにはその制度が無い」
薔子さんが残念そうに呟く。同じ市立大学でも、福山と尾道とでは学部から雰囲気まで完全なる別物だ。教育学部、都市創造学部を抱える福山側に対し、尾道には文学や芸術を学ぶ学科がある。中堅地方都市と歴史深き街って感じだ。どちらも個性が出ていて面白い。
「受験の時はなんとなくで福山を選んだんですけど、もし尾道の方に通ってたら、僕は今ここにはいなかったかもしれませんね」
「それもそうだな」
おかげでこんなカッコいい人と知り合えたのだから、過去の自分に感謝せねばなるまい。
「……ともあれだ。君の申し出は何ら迷惑ではない。むしろ私は嬉しいんだよ」
「嬉しい、ですか?」
「ああ。ばら祭のとき、君はバラに興味を持ってくれたね。そして今日、君は誰に連れられるでもなく自分の意思でここに来た。その切っ掛けを作れたことが、君の行動に変化を生み出せたことが、私は本当に嬉しいし、嬉しかったんだ」
僕の一歩先を歩いていた薔子さんが、ふと立ち止まる。片足を軸にしてクルリとターンし、正面から僕に向き直った。
「知っての通り、私は植物が大好きだ。彼らの魅力をより多くの人に知ってもらうこと。それこそが私の使命だと思っている」
だからばら祭のときも、人の相手は苦手だの何だの言いながら、子どもたちにはきちんと解説をしていたのか。
「この植物園だってそうさ。訪れた人が植物に親しみを抱く。身近な草花を見る目が変わる。これまでに知らなかったことを知る。そんなささやかな変化を生み出せる場所にしていきたいんだ」
胸に手を当てて薔子さんが語る。その話し振りから燃え上がるような熱意を感じて、僕は圧倒された。目をキラキラさせて夢を語る人って、どうしてこんなに輝いて見えるんだろう。
「だからね青年。君が好奇心を持って花に接する限り、私は何だって教えるし、いくらでも時間を費やすつもりだよ」
「……っ!」
ああもう。ズルい。そうやって無邪気に笑うのズルい。前に会ったときは、僕のことをナデシコだの大胆だの言ってきたけど、薔子さんも薔子さんで大概だ。自分の発言にどれだけの重みがあるか、その聡明な頭で今一度考えていただきたい。
「……おい。何を馬鹿みたいに突っ立っているんだ?」
いつの間にか噴水の横に移動していた薔子さんが、腕を組んで僕を呼びつける。良い感じの雰囲気が一瞬で霧散した。惜しむ自分とホッとする自分の割合は、ちょうど半々くらいだ。
「ここに来て、この株を見てみたまえ。これは秋月という種類のバラなのだがね――」
僕が隣に行くや否や、彼女は待ってましたとばかりに口を開いた。花のことになると目に見えて機嫌が良い。分かりやすい人だなと微笑ましく思いながら、僕は中腰になって、薔子さんの花蘊蓄に耳を傾けた。




