茨フラワーパークにて
六月の第一日曜日。雨の少ない福山に、もうじき梅雨が訪れようとしている頃。
薔子さんが父親から受け継いだという、市内で唯一の私立植物園『茨フラワーパーク』に、僕は一人足を運んでいた。
ニュースでは曇りの予報だったけど、実際は朝から初夏の陽気ガンガンで、暖かいを越して暑いと感じるほどだ。バイクや車を持っていない僕は、例によってアパートから自転車を漕いで来たので、到着した時には肌着に汗が滲んでいた。バスを使えば良かったなと、今更思ってももう遅い。
駐輪場に自転車を停め、入場料を払って正門をくぐる。その先で、道が二手に分かれていた。入り口で貰った園内マップによると、ここで右折すれば毒草コーナー、郷土樹木園、バラ花壇と続き、左に進めばハーブ園を経由して大温室となっている。どちらから回っても、最終的には園内を一周出来るようだ。すぐ近くにレストランもあるけど、今はお腹は空いてない。
とりま適当に歩いてみるか。
「……てか、なんで一人で来てるんだろ」
特段理由もなくハーブ園に向かいながら、なんとなしに僕は一人言を呟く。本来なら、隣には薔子さんがいる筈だった。
説明しよう。当初、僕には以下のような計画があった。
まず、『茨フラワーパークに行ってみたいです』と薔子さんにお誘いのメッセージを送る。植物に目がない彼女のこと、『私がガイドをしてやろう』的な申し出が十中八九返ってくる。そこで僕はこう言うのだ。『嬉しいです! 楽しみにしてます!』サービスエリアの時はベロニカさんも一緒だったが、フラワーパークは薔子さんの職場。送り迎えこそすれ、付いて回りまではしないだろう。かくして、花のお勉強にかこつけた事実上のデートが出来る……筈だった。
だが、実際はそう上手くいかなかった。
誘うだけの勇気が無かったのである。
僕なんかが迷惑じゃないかな、とか。薔子さんだって忙しいよな、とか。これで楽しめるのって僕だけでは、とか。アレコレと冷静に考えた末、計画は儚くもボツとなった。で、行き場を無くした気持ちを処理するために、目的もなく一人でやって来たというわけだ。
「ま、せっかくなので楽しむか」
何だかんだ言って、最近ちょっぴり植物に親しみを抱くようになった。薔子さんのせいだろう。
一番最初はハーブ園だ。タイム、ミント、カモミールといった有名なものから、イタリア生まれの柑橘類ベルガモットの幼木、カレーのような臭いを放つカレープランツまで。一つ一つに解説の看板があるおかげで、僕みたいな素人でも名前が分かるようになっている。
鼻を近付けてみると、フワリと特徴的な匂いが漂ってきた。さすがハーブ、主張が強い。
「秋も悪くないけど、やっぱり今の季節が一番だわね」
「本当だね。ミカちゃんの言った通りだったよ」
ふと、近くから声がする。振り向けば、眼鏡をかけた男性とスカートを履いた女性が、手を繋いでこちらに歩いて来ていた。見た感じ新婚夫婦だろうか。お世辞にも道は広くないので、二人が通れるよう、脇に寄ってスペースを空ける。
「あら、どうもありがとう」
「いえ」
むこうが頭を下げてきたので、慌てて僕も頭を下げ返す。二人はそのまま仲睦まじげにお喋りをしながら、大温室の方角へと去って行った。いいなあ。なぜ僕はああならなかったんだ。
しばらく間を置いて、僕も温室に向かった。「大」って付くだけあって結構な広さだ。内部は植物に応じて区画分けされているらしい。入った途端にむわっとした熱気と、じめっとした湿気が押し寄せてくる。すごく熱帯だ。
一番最初のラン室では、カトレアやデンドロビウムなど、花屋でしか見たことのないような花たちが展示されていた。めちゃくちゃ色が鮮やかで、よく手入れされているのが素人目にも分かる。僕以外に人はいなかったので、心ゆくまでのびのびと堪能して回った。
次の部屋はまさかの食虫植物室だった。室内を横断するように通路が伸び、南側に休憩用ベンチ、北側に展示と分けられている。川をイメージしているのか、展示スペースには何本かの水路が引かれ、そこに鉢底を浸けるような形で、植物が並べられていた。ラン室とは違って無人ではなく、ベンチに一人、男性が座っている。同じ利用者だろう。気にするようなことでもない。
食虫植物っていうと、壺っぽい見た目のウツボカズラとか、パクッと虫を捕えるハエトリソウくらいしか僕は知らなかったんだけど、他にもたくさんの種類があるらしい。筒みたいな形のサラセニアに、葉っぱの粘液を使うモウセンゴケ。熱帯原産かと思いきや、後者は日本にも生えているそうだ。看板曰く、福島の尾瀬や愛知の壱町田湿地。なんと福山市内にも、小規模ながら群生地があるらしい。
「へー、なるほどな……」
養分の少ない場所で生きるために、虫を捕る機能を身につけたのか。鉢を水の中に浸しているのも、元々の環境を踏まえてのことだったんだな。
次々と明らかになる意外な事実に、好奇心がくすぐられはじめたそのとき。
「甘い蜜 吸わんと欲して 餌になる 男も虫も 同じことかな」
僕の背後にあるベンチの方から、男性の声が聞こえてきた。
「なんですか??」
「あ、いや失礼。考え事をしていたのですが、つい口に出してしまいました」
僕が反応すれば、男性は大袈裟に手を振って会釈をする。短髪を撫で付け、口元にチョビ髭を蓄えたその姿は、いかにも文学人といった感じだ。年齢は分からないが、三十代かそこらに見える。
落ち着いた声色で男性が続けた。
「驚かせてしまい、申し訳ありませんな。時々こうして、一人言を呟く癖があるのです。どうかお気になさらず」
「別に驚いてはいませんけど……。さっきのは、短歌ですよね?」
言葉のリズムが五七五七七だったので、確認がてら尋ねてみる。男性が「いかにも」と頷いた。
「公募に送る歌を練るとき、いつもこの植物園に来るのです。家にこもるより外を歩く方が、頭も柔らかくなりますからな」
「確かに。散歩してると気晴らしにもなりますし」
「ネタが多いのも有り難いですな。先ほども、そちらの食虫植物を見ていてピンと来たのです。花に誘われ食われる虫と、女性に魅入られ食いものにされる男。この世の真理ではありませんかとな」
「えっと……かもしれませんね?」
男性の言い方から、過去に何かしらあった気配を察して、僕は反応に詰まった。すると男性は声を上げて笑う。
「あなたは見たところ、まだ大学生のようですから、世間の厳しさをご存じなくても無理はありませんな」
「はい? いや、まあ、あの。そうですね……」
なーんか癪に障る言い方だなと思いつつも、世間知らずは事実なので反論出来ない。一応バイトはしてるけど、正規の職に就いたことなんて無いし。社会的、金銭的にも、まだまだ守られてる立場だし。
「己の未熟を憂う必要はありませんぞ。誰しも初めは初心な若葉ですからな」
「はあ」
「無理に背伸びをしようとせず、今の内にモラトリアムを謳歌するとよろしい。人生の先達からの教訓ですな」
「えっと。ありがとう、ございます……?」
面倒な感じになってきたぞ。そろそろ次の場所に行きたいんだけど、男性がなかなか喋るのをやめてくれない。気まずさを紛らわすために話しかけたのが失敗だった。
見知らぬ人の説教を聞く義理は無い。この人には悪いが失礼させてもらおう。下手に出ると剣呑な空気になるから、タイミングを、上手く見計らって……。
「おや、そこにいるのは青年じゃないか!」
扉が開いて、一人の女性が食虫植物室に入って来た。高身長のスラリとした身体に、肩までかかるポニーテールの黒髪。理知的な青い瞳。ジャージにシンプルな白のシャツと、男みたいな服をそつなく着こなしている。道で擦れ違ったら、思わず振り返ってしまいそうな程のかっこよさ。
「薔子さん!」
「君がどうしてこんな場所にいるのかな? 詳しく事情を聞きたいところだ」
「それはその……ちょっと色々ありまして」
「色々」
「そうです」
答えると、薔子さんはフッと笑った。相変わらず全てを見透かしているような佇まいだ。
「失礼。お二人は知り合いなのですかな?」
短歌の男性が話に混ざってきた。薔子さんは彼に向き直ると、僕の背中に手を添えて、悠然とした態度で男性に返事をする。
「こいつは私の従兄弟でね。今日は園内を案内して回る約束だったんだが、いつの間にかはぐれてしまったんだ。というのも、実は私はここの園長兼、オーナーなのだよ。本日は当園にお越し頂いたこと、心より感謝する」
微妙な空気を察してくれたか、何食わぬ顔でそう嘘を吐く。男性は気付いていないようだった。
「園長さんでしたか。それは驚きです。私はそこな青年と初対面なのですが、ふとしたことから意気投合しましてな」
普通の笑顔でそう言った男性に、僕はぞわっとするものを感じた。意気投合……してないよな。うん。してない。したつもりはない。してると思ってるのはこの男だけだ。
「こちらにはよく来させていただいてますが、まさか園長さんが、このような方であったとは。お若いのに立派なことです。実に素敵な場所を作り出される」
「まったくだな。若輩者の私に付き従ってくれる、優秀な職員たちのおかげだ」
「べた褒めですな」
「褒めてやらねば人は動かん」
当然のように返してから、薔子さんがいきなり僕を抱き寄せた。花とは別の甘い香りが、ふわりと漂ってくる。
「こいつは私が貰っていくが、構わないな?」
「大丈夫ですよ。どうか良い一日を」
「そちらこそ。では青年、行くぞ」
薔子さんが僕の腕を掴み、温室の出口まで引っ張っていく。変な男性からようやく逃れることが出来た僕は、思わず安堵の溜息をついた。




