向こう側の異世界
彼女は何かの後ろ姿を見送った。
それじゃあ、ばいばい。
何かがそう言って手を振った。
長い黒髪が揺れ、遠ざかる。
バイバイ。
手を振った。
ぱちりと彼女は目を開いた。上半身を起こしながらあたりを見る。どこかの部屋であることは確かだが、自分の部屋でもなく病院でもなさそうだった。病室にしてはベッドがあり得ないくらいに広い。
体にも違和感がある。落下の後遺症だろうか。あれだけの距離の落下なら打撲くらいあってもおかしくないはずだ。
「おお、起きた」
声のする方に視線を向けると一人の男がベッド脇に置かれた椅子に座っていた。座っていても背が高い男だと思えた。
「へぇ? 目も黒とか、言い逃れ出来ないな。これは」
顔をのぞき込まれて、彼女はやや後ろに逃げる。しかし、負けたような気がして見返す。
美形というより男前だ。焦げ茶色の髪を伸ばし首の後ろでいるが少々白髪が見受けられるとなるとそんなに若くないのかもしれない。シャツのボタンを外し、さらに腕まくりしているあたり暑いのだろう。やや、目のやり場に困る。
「あの、ここはどこですか?」
声を出して彼女は眉を寄せた。記憶にある自分の声と違う気がしてならない。子供っぽい甲高い声は、電話で男と間違われ続けた低音ボイスとは違う。
「王城の一室。ということを聞きたいのではないだろう? アッシュが言うには、螺旋状にある異世界の上から落ちてきたらしい。詳細は知らん」
彼女は首をかしげる。落下は確かにしたが、それは道路の陥没事故であったはずだ。
室内を見てもアンティークなホテルの一室と言えなくもない。そもそも日本語が通じる。
「責任者は夕方にならないと来ない。とりあえず、現実を知りたまえ」
男はにやにや笑いながら、手鏡を彼女に渡した。その時点で、結果はわかっていたような気がした。ため息をついて覗いた鏡には、知らない幼女が映っていた。
近い将来、美少女確定の人形のような整った顔立ち、白い肌、サラサラの黒髪、やや目つきがキツイのはご愛敬といったところだろうか。
もちろん、彼女の元々の顔とは著しく違う。同じなのは色だけだ。
「私は私として意識を持続している以上、これも私なのでしょうが、戻れませんか?」
「この世界仕様にあわせて調整した結果なので無理。料理を原材料に戻すくらい。と言っていたな。上の世界にあがる方法は力になれんな。落ちてきたのは二人目だそうだから」
「前の方は?」
「対処が間に合わなくて、すぐ死んだ。そうだ」
「はぁ」
「当面保護してやるからどうにかしてみるんだな」
なんだそれはと言ったところで何も解決しないのだろう。すべて伝聞風な男に聞いたところで、益になりそうにない。
彼女はため息をついて目を閉じる。
暫定的に現状維持以外できることがない。もしかしたら、これが夢で起きるまで待っていれば良いのかもしれない。
そんなこと、ないのかもしれないけれど。
「今せねばならんことをがあるんだが」
「なんでしょう」
「名前を決めねばならん」
嫌そうな顔で言うことかと彼女は首をかしげた。
「我々のしきたりで、目や髪の色にちなんだ名前をつけることになっている。しかし、この国では完全な黒髪は滅多に生まれない。だから、過去候補にもあたれず、自力で当たり障りのない単語を拾わなければならない」
まずは、と言って分厚い本とそれ以上に分厚い本が三冊出てきた。
「この古代語辞典からソレっぽい単語を拾って、古代語辞典は今では使われない古典語で訳されていて、古典語の現代語訳がこっち。総合図鑑がこれ。古代語の発音辞典がこれだ」
「古代語直訳現代語辞典がないと」
重々しく男はうなずいた。それには彼女も苦笑するしかなかった。これは時間のかかりそうな作業だ。
彼女は図鑑を手に取りめくる。文字が認識出来ないわけでも書かれている絵に違和感を覚えることもなかった。ただ、翻訳しているように文字と意味がずれているような気がする。
「黒いものならなんでも問題ないのですか?」
「色に限定したいところだが、黒は黒、としか表現しないらしい。石でも植物でも現象でもいいが、変な名前にするとあとがツライぞ」
「……ところで、ご参考までにお名前は?」
「シスル。紫っぽい花かなんかだったか。候補を出して検討だな」
そうして、ああでもないこうでもないと二人で言い合ううちに部屋が薄暗くなってきていた。
「……なにしてるんです? 貴方がた」
声をかけられ彼女はびくっと顔をあげた。新しい顔とそっくりな青年が立っていた。
季節にあわない黒衣。男性的とは言えないが明らかに男性と思えるのはややきつめの目と短すぎるくらい髪のせいだった。無関係と言うには似すぎている。親兄弟あたりが妥当な関係性に思えた。実際他人だが。
一体いつ表れたのだろうか。
男が全く驚いていない様子に気がつかなかっただけかと納得する。
「陛下は病気療養中では?」
「安静にしている」
「それで、決まりましたか?」
青年の言葉に含まれていないが、この人はどうしょうもないな、と言いたげだと彼女は感じた。つまり親しい間柄であると感じさせる。
「フェルベライト」
男はもったいも付けずに名を言う。彼女の新しい名前。
これこれっ! と彼女は図鑑を指さす。鉄を多く含んだ黒い石らしい。結晶の形がエッジが効いていてかっこよかった。と男に言ったら変な顔をされもしたが、反対はされなかった。おそらく飽きたのだろう。
青年は、妙なものでも見るように二人を見比べてこう述べた。
「親子みたいですね」




