155.オフィスにて(4)
それにしても……と魚住は思う。実際将棋なんてまだマシだよ。静香は女流ではともかく一般の棋戦であればそれなりに負けている。魚住から見ると、本当にまずいのは歌や演技の方で、おそらく将棋以下の練習時間しか千夜は使っていない。これもそのうちに明らかになるだろう。
練習をしないということは別に悪くない。千夜はきちんと結果を出しているからだ。だがそれが理解されるかどうかはわからない。
やがてはその時が来て、更なるバッシングにつながるのではないかと思う。そして、その火消しは魚住の仕事になるだろう。それなりに難しいと思う。
魚住は鎌プロからはそれなりの給料をもらっているけど、割にあうだろうか? でも自分も結局はショービジネスの世界から足を洗えなかった人間だ。多分自分はぶつくさ言いながらも、今の仕事が楽しいのだと思う。
『舞鶴さんが天才的なシンガーで、ギタリストなのはわかっています。でも時間がないから他の人が付いていけない。合わせる時間がないんです。アルバムだって、ライブだって、舞鶴さんはソロでものすごいクオリティを出してきます。だから僕もそれに頼ってしまいます。舞鶴さんのソロだとすぐに素晴らしい作品ができます』
最近千夜のアルバムや、たまに開かれるコンサートなどではソロが多い。
『でも、逆に言えば誰かと合わせようとするとものすごく時間がかかるんです。あっ、舞鶴さんのほうが合わせにいったらすぐに終わりますよ。でもそれって意味ないですよね。他のミュージシャンが下手くそだ、って言ってるんじゃないです。本来人と人が合わせるのには時間がかかるものなのです』
普通、シングルとかアルバムを作成する際、時間をずらして録音するのが当たり前だ。だがその順番にはいくつかセオリーがある。通常はより低音のリズムパートから録音していく。例えばドラム、ベース、キーボード、ギター、あるならバイオリンやサックス、そして最後にボーカル。あるならメインのあとにバックコーラス。
大久保はある時、以下の順番で録音を行ったという。
まず千夜に弾き語りをさせる。この場合はアコギを使った弾き語りを録音した。それにソフトで加工してプロトタイプを作る。それを参考に上記の楽器の順番で録音していく。だがギターを録音する時に問題が起きる。
『この部分アレンジすればいいと思うんですよね。でももう録音しちゃってますよね』
プロデューサーが千夜のギターを聞くと確かにその方がいい。
そうすると合わなくなったドラム、ベース、キーボードを再度録音することになる。もう一度ギターを録音する際に、千夜は言う。
『ここをこう転調した方がかっこいいですよね。でもそうするとまたやり直しになっちゃいますね』
ここでまたプロデューサーが判断することになる。プロデューサーがやり直しを判断した場合は振り出しに戻る。そうでない場合は、その他の楽器を入れて、ボーカルを入れるが、ここでもギターの時と同じ判断をプロデューサーは千夜から叩きつけられる。
結局これはかなりのコストとストレスを産む。幸い売り上げがそれらのコストを押し流してくれるが、それでもストレスは残る。
今は千夜がベースを弾けるので、静香がベースを弾き、続け様にギターを弾き、さらに連続してボーカルを入れる。千夜は高いレベルでアドリブしながらも完璧に演奏するので、1パート1テイクで録音が終わる。これがもっともコストが低く、高品質のものができる。
もしベースからボーカルの収録までに時間を開けると、やり直しになることがあるので一気にやるのが良いというのが現場の判断だ。それと弾き語りを比べて良い方が市場に出る。いくつかの作品は弾き語りの方が良かったりするのだという。
そして千夜はドラマや映画など演技をしている。演技については音楽よりもわかりやすく、こちらはあまり問題がでていない。
千夜はつまらないミスをしない。演技のレベルもアドリブを仕掛ける場合でも受ける場合でも、相手のレベルを見計らってしかける。だから千夜を起因としたリテイクはあまりない。
千夜に関するリテイクがあるとすると、ディレクションがずれた場合、つまり演出家と表現の方法が違う場合で、それがあった場合でも一回で合わせる。だからミスはほとんど共演者が起こすものか、あるいはちょっとしたハプニング、風などで飛んできたゴミが画面に入ってしまった、などによるものになる。
一番出演時間の多い主役のリテイクがないと当然撮影はどんどん進む。そして自分の出演シーンが終わると千夜は別の仕事場へと向かい、主役不在のシーンがその続きであったり、また別の日に撮影される。
ドラマではなくてCM、あるいは写真の撮影の場合も、演技と同じあるいはもっと簡単に済む。
天道静香/舞鶴千夜の時間はそうやって講義や対局、録音、撮影、に費やされている。そもそもひとりの人間が、それだけのことをこなせていることがおかしいのだ。




