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「私はショコラを池に返しに行きますが、殿下はどうされるんですか。また廊下を徘徊しますか」
「徘徊してたわけじゃない。ザカリーに会いに行こうか迷っていただけだ」
「あぁ、では不本意ですがご一緒しましょう。ショコラを返してからになりますので」
「なんでお前まで一緒に来るんだよ。あと本心出てるぞ」
スチュアートは不機嫌そうに、ゼインはいつも通りの無表情に戻っている。
「王女殿下に続いてザカリー・キャンベルにまで逃げだされると面倒ですから」
「俺が逃がすと言いたいのか」
「こんな夜に会いに行くなんてそう思われても仕方がないのではないですか」
「そんなことはしない」
「その言葉が信用されるなら、その辺のネズミがチューチュー鳴いていても信用されるでしょうね」
「俺がネズミより下だと言いたいのか」
「殿下はそれほどのことを過去になさいました。信頼は一度失うと簡単に取り戻せません。エリーゼ嬢ではなく、あなたが代わりに刺されていれば少しは信頼も回復したかもしれませんが」
スチュアートの睨みをゼインは相変わらずの無表情で受け止める。
「俺にあいつのような度胸があるわけないだろ」
そんなスチュアートの言葉にゼインはやっと反応を見せた。
「ご自分のことを分かっていらっしゃるなら、良かったです」
***
アシェルの髪に寝ぐせがついているとか、そういえば自分の髪は長らく寝ていたのに剛毛であるせいか全然寝ぐせなんてついていなかったとか、ショコラはあんな風にされて大丈夫だろうかとか、池のカエルたちは踏み荒らされて無事だろうかとか。
重要な場面であればあるほど、今考えなくていいことが頭の中でぐるぐる回る。これが現実逃避だろうか。
「エリーゼが眠っている時に分かったんだ」
アシェルの言葉で思考が引き戻される。唇に当てられていた指が今度は頬をするりと撫でた。
「いてくれるだけでいいって。どうしてそんな簡単なことに気付かないんだろうね」
「……でも、跡継ぎは、必要なはずだから……」
「どうでもいいよ、そんなこと」
「どうでもって……」
「エリーゼを失うかもしれないことに比べたらそんなことはどうでもいいよ」
「でも、王太子殿下は……」
顎に指がかかって少し上を向かされたと思ったら、激しい口づけが降ってきた。いつもの優しい触れるだけのものとは違う激しさだ。
アシェルの胸を押し返したが、軽々と手首を掴まれた。力で勝てることなどなくベッドに押し倒される。
「なんで、そんなに自分を要らない存在にしようとするんだよ。兄上なんて今どうでもいいだろ」
見上げたアシェルは泣きそうな顔をしていた。穏やかな彼のこんな表情は初めて見る。どんな時でもアシェルは穏やかで冷静だったはずだ。私の言葉が、私が刺されたことが彼をこれほど苦しめたのだろうか。
アシェルが近づいてきて目じりを舐められた。気付かないうちに涙がまた伝っていたようだ。
「私が……無能、だから。妊娠もできないかもって……」
「エリーゼは婚約者でいることが嫌なの?」
「だって、このままじゃ……アシェルに迷惑かけちゃうから……」
涙をまた舐められながらとぎれとぎれに話す。
「迷惑なんて思ってない。エリーゼは嫌なの? 僕との婚約が。嫌いになったって?」
腰に手が回ってきつく抱き寄せられて首筋にアシェルが顔をうずめる。近い。とんでもなく、今までで一番アシェルとの距離が近い。
「ち、がう」
「じゃあなんで婚約を解消なんて言うんだよ。もう僕に会いたくないってこと? 刺される危険性のあるような王子の婚約者なんてお断り?」
きつく抱きしめられてアシェルの体温を間近に感じる。こころなしか彼は震えているようだ。
「離れるなんて無理だ。せっかくまた会えたんだから」
彼は泣いているのだろうか。鼻をすする音が間近で聞こえて、思わずアシェルの背に両手を回した。
こんなこと思ってはいけない。私は妊娠もできないかもしれない。アシェルとは離れるべきだ。それでも、胸にともったほの暗い喜びは先ほどから大きくなる一方だ。
「あの、ね。目覚める前にもう一度アシェルに会いたいと思った」
またアシェルにきつく抱きしめられて涙が落ちた。
一度でいいから、何かを信じてみたい。自分の中にもしも愛があるのなら。
「私に、一滴も愛がなくても、それでも私はアシェルを愛してる」




