60
ちょっと遅刻しました!
白いヘビを追いかけたら白い光が視界いっぱいに広がった。
明るい。いや、眩しくて何も見えない。
「エリーゼ?」
目を細めていると、聞きたかった声が上から降ってきた。呼びかけたかったが、喉がカラカラに乾いていて咳き込んでしまう。
唇に湿った指が当てられた。何度か指が唇を優しく撫でる。
水だ。水で指が湿らせてあったようでエリーゼはそっと唇を舐めた。
「あ、しぇる?」
まだ視界が明るいが、見覚えのある金髪が見えた。そう呼びかけると、エリーゼの左手に力がこめられる。手を握られているらしい。
「おかえり」
アシェルの声が降ってきて、応えるようにエリーゼも左手にゆっくり力を込めた。
「まったく。殿下は。カッコいいのか悪いのか。エリーゼ様の意識が戻ったら速攻気絶するなんて」
寝込んだアシェルをソファに抱えて運びながら、ブツブツ言うゼイン。
「あら、いいじゃない。ほとんど寝ずにエリーの手を握ってたんだから。はい、お水飲める? あとブルックリンを教会から呼び戻してね。フライアは脅迫、じゃないやアート様の監視をやめさせてっと。ハウスブルク夫妻とクリストファー様もここに呼んでちょうだい。他はえーっと、メイファアウラ殿下も」
エリーゼの口元にコップを差し出しながら、控えている使用人に慣れたように指示を飛ばすクロエ。
「めいめい……は?」
「エリー、酷い声よ。はい、お水飲んで、ゆっくりね。メイファアウラ殿下は傷一つなく無事よ。はい、横になって。私が勝手に喋るね。エリーを刺した短剣には毒が塗ってあったの。そのせいもあってエリーは十日間意識がなかったわ」
「とおか……も?」
「うん、エリー。無理して喋らなくても大丈夫。ハウスブルク伯爵夫人も来てくださってるからね。フライアもブルックリンもいるし。とにかく無事で良かった」
ずっと眠っていたので体力が落ちていた。クロエのおしゃべりを聞きながらまた眠ってしまい、また起きるとフライアが泣いていて、ブルックリンには「危ない真似をして!」と説教された。
寝て起きるたびに部屋に人が増えている。メイメイは泣きながらも事件について説明してくれた。やがて診察の時間だと、家族と眠りこけているアシェル以外は部屋から出される。
「残念ですが、毒の影響でお嬢様は妊娠できる可能性が非常に……低いかと」
医者の言葉に兄はもともと疲れで悪かった顔色をより悪くし、久しぶりに会う母は息を呑んだ。エリーゼは一瞬何を言われたか分からなかった。
「低いというだけですよね? ゼロというわけではないのですよね?」
母が何か必死で医者に言っている。
「ゼロではないですが、可能性は非常に低いです。国王陛下や王太子殿下にもこのことは報告をしませんと……」
必死な母に対して医者は気の毒そうにしながら歯切れが悪い。
やっとエリーゼの頭は何を言われたのか理解し始めた。私がアシェルにもう一度会いたいと思わなかったら、こんな心にぽっかり穴があいた思いはしなくてよかったんだろうか。
妊娠して子供ができる。具体的に想像したことはなかったが、それは自分の身にも当たり前に備わっているものだと思っていた。
私は妊娠できないかもしれない。いや、妊娠できない可能性の方が高い。
あぁ、そうか。アシェルには跡継ぎが必要だ。彼との婚約を解消しないといけない。
「報告はあなたの仕事だ。すればいいだろう」
久しぶりに聞く父の声がぼんやりしたエリーゼの耳に届いた。
「あなた!」
「医者は何も悪くない。彼だってこれほど言いづらそうなのだから」
座っていたはずの父は立ち上がっていた。
「だが、これだけは言わせてもらおう。私にとっては、娘は大切な家族だ。妊娠できるできないなんてどうでもいい。妊娠できないからと娘が大切でなくなるなんてことはない。私が家にも帰らず仕事漬けだったのは、家族のためだ。私は家庭に居場所の作り方が分からなかったから帰れなかったが、家族の幸せだけはずっと願っている」
兄が驚いているのか口を大きく開けている。父がこれほど喋るのをエリーゼは初めて聞いた。
「国王や王太子がどんな決定を下すかなど、私のような一介の貴族には分からない。だが、この国が娘をこれ以上傷つけることがあるのなら、私は仕える国と人を間違えていたのだろう。私はそんなことのために働いていたのではない。そのために犠牲を払ったんじゃない」
父はそれだけ言い切ると、再度イスに座った。
「それだけは陛下に伝えてほしい」
父とこれまた久しぶりに目が合った。ゆっくり父の口がエリーゼから視線をそらさずに開く。




