45
いつもお読みいただきありがとうございます!
夜になって、ダラスに何か吹き込まれたであろうロレンスがナディアの部屋にやってきた。
彼は長身な方だが、心なしか普段よりも小さく見える。これがシナシナロレンス、あるいは塩のかかったナメクジという意味だろうか。
「ナディア……その……体調は?」
「今はいいわ」
「そうか」
ロレンスはベッドサイドのイスに腰掛けると、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
明かりに照らされて彼の顔に影が出来ている。隈が濃くなっているのは気のせいではないようだ。
「どうして怒っているのか教えてくれないか」
「怒ってなどいませんわ」
「いや、怒っているように見える」
ナディアはため息をついた。それにロレンスはびくりと体を跳ねさせる。
「ナディア」
ロレンスがナディアに呼びかける声は弱弱しい。
「情けないんだが、本当に君のことが分からない。君を失ったらと考えただけで恐ろしくて、頭がおかしくなりそうなんだ」
ナディアは顔を覆うロレンスを見た。
「何か不満があるなら言って欲しい。俺を捨てないでくれ。一人にしないでくれ」
ナディアは思わず目を瞬いた。
アルウェン王国の王太子が自分に「捨てないでくれ」と弱弱しく縋っている。しかも演技ではなく本心のようだ。でなければ、荒れたナディアの心にロレンスの声が割って入ることはなかっただろう。
「こんなに早く妊娠するとは思っていなかったから驚いているの」
「それだけじゃないだろう?」
さすがにずっとロレンスに会わないわけにもいかないし、理由を黙り続けていることもできないのでナディアはゆっくり口を開く。まだ自分の中で整理はできていない。
「それだけって。私にはそれだけ、なんかじゃないわ。こんなに早く妊娠して一年もたたないうちに生まれるのよ? 母親になれる気がしないの」
「どうして?」
「どうしてって。あなたは私のことを調べさせているから知っているでしょう。私のお母さまの体が弱いことくらい」
「そうだな……だから俺は心配なんだ。これまでナディアが体調を崩したところを見ていなかったから……失うかもしれないと思うと……」
「私が心配しているのは、そういうことじゃないわ。私が体の弱いお母さまと過ごした記憶はほとんどないの。乳母も家庭教師も優しい使用人もいてくれたけど……私は母親がどういうものか分かっていないの。だから母親になれる自信がないの」
ロレンスとの些細な食い違いにナディアはイライラしてつい強い口調になった。いつもならゆっくり会話を重ねていけばいいと分かっているのに。
「ごめんなさい。吐き気がしてイライラしていて」
「ナディアが感情的になっているのは珍しいな。でも、ナディアにどれだけイライラされようが俺は気にしてない」
ロレンスはそう言いながらも恐る恐るナディアの手を握る。
「俺はナディアがいてくれるだけでいいんだ。苦しませたいわけじゃない」
「えぇ」
「いい母親になろうと気負わなくていいと思うんだ。乳母だって、他の使用人だって、俺だっている。君は他国から嫁いできて十分頑張ってくれている」
「もう頑張らなくていいと言われたって無理よ」
「そうだろうな。ナディアは頑張り屋だからな」
ナディアは手を握られたままそのあとは何も言わなかった。ロレンスもそれ以上は何も言わなかった。
体調が思わしくないせいで、自分が想像以上に頑ななのは分かっている。今話し合いをしてもロレンスと揉めるだけだ。
エリーの結婚式に出席できないかもしれない焦りと、きちんとした母親になれるのか、母親になって子供を愛せるのか分からない不安。
少なくともナディアにとって母親というものは弱弱しくて、頼るべき存在ではなかった。だから、ナディアはずっと一人で頑張ってきた。母親の愛情というものをナディアはよく知らない。
こんな私が母親になれるのか。子供に失望されないだろうか。
ザルツ王国の王妃様だって最初は完璧に見えた。でも、彼女は子供たちにとっていい母親なんだろうか。ロレンスのお母さまだって分からない。
いろいろ頭の中で考えるうちにナディアはウトウトまどろみ始めた。
夢うつつでロレンスが額にキスを落として部屋から出ていくのが分かる。
その日は幼い頃の夢を見た。
体調の良かった母親と温かい庭でクッキーを食べている夢だ。母は儚げで控えめに笑っている。
母の様子はエリーによく似ていた。クッキーもエリーが作ってくれたものと似ていた気がする。
あぁ。
だから私は。エリーのことが最初から、言葉を交わす前からあんなに気になったのね。




