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ナディアの心は荒れていた。
もちろん調度品を壊したり、枕を床に叩きつけたりなどしない。
「妃殿下、ロレンス殿下がいらっしゃっていますが……」
「体調が悪いから断って頂戴」
ベッドに横たわったまま天井を見上げてナディアは答える。
「よろしいのですか……?」
侍女が聞きづらそうに聞く。
「ええ。今は頑張ってこらえているのだけど、本当に調子が悪いの。あなたも分かるでしょう? 好きな人には万全な体調で会いたいもの」
「差し出がましい真似をいたしました。申し訳ございません。そのように伝えてまいります」
ナディアの冷たい雰囲気を感じ取ったのか侍女がそそくさと出ていく。ロレンスは部屋まで押し入ってくることはなかったが、しばらくして果物が届けられた。
ベッドに入ったままため息をついていると、窓がこんこんと音を立てる。
窓に目をやると――
「あなた、一体何をしているの」
「もうすぐ誰かに見つかりそうなのでぇ。入れてもらえますかぁ? それか地面に落ちるか、なんですがぁ」
「ふざけないでちょうだい」
「じゃあ入れてもらえますかぁ? ロレンス殿下はナ、じゃなかった妃殿下に拒絶されて塩のかかったナメクジ状態なので~」
上の階からロープを使って降りてきたらしいダラスがひらひらと窓の外で手を振っている。仕方なく窓を開けて迎え入れたが、よくみれば腰にはしっかり命綱がついていた。
「はぁ~やれやれ。ナディア様って呼ぶだけでロレンス殿下は睨んでくるんですから。仕事になりませんねぇ。ザルツ王国の第二王子は窓からトカゲを捕まえに出ていたと聞いたので真似しましたぁ」
間延びした喋り方のせいで、窓から入ってきても緊張感が皆無だ。
「懐妊がわかった後からずっとロレンス殿下に会っておられませんが、大丈夫ですかぁ? ロレンス殿下もそ~れはそれは落ち込んで。最初は見ていて面白かったんですが、今ではうざいです~」
ナディアの部屋には侍女もいるので二人きりではない。
扉をノックしても会ってもらえないと考えて窓から来たらしい。
「体調が悪いの」
「それは分かりますが、それ以外にもあるのでしょぉ?」
ダラスはロープをほどきながらニヤッと笑う。「でしょぉ」なんてどうやって発音しているんだか。
「そうね。でも口に出すことではないわ」
「夫婦なんですから口に出したらいいじゃあないですかぁ」
使ったロープをまとめ終わったダラスはイスに座る。ロレンスより小柄で身のこなしが軽い。
「ロレンス殿下って面倒くさい男なんですよぉ。あの方、前の婚約者を亡くしていらっしゃるでしょぉ?」
「そうね」
今、そんなことを聞く必要があるのだろうか。ナディアはイラっとした。
「だから、怖くて仕方がないんですよ。飄々とした様子であなたの前ではカッコつけまくってますがぁ、あなたに拒絶されてもうほんっとーにめんどくさくて。分かります?」
「分からないわ。だってそんなロレンスは見ていないもの」
ここまできて、落ち込んでいるロレンスがどれだけめんどくさいかだけを語るダラス。マウントだろうか、ナディアはさらにイライラした。
ナディアは弱いロレンスを見たことがない。落ち込んで仕事が手につかないロレンスなど見たことがないのだ。
「あなたを失う恐怖で頭おかしくなりそうになってますからねぇ。あのシナシナロレンス殿下のご様子を見せてあげたいですけどぉ。でも、ナ、じゃなかった妃殿下だって弱みを見せていないでしょぉ?」
「何が言いたいの?」
「八つ当たりはやめてくださいよぉ。妃殿下だってロレンス殿下に弱みを見せましたかぁ?って聞いてるんですぅ」
ナディアの目がすぅっと細くなる。ダラスも同じように目を細めた。
「分かりますよぉ、言いたいことは。知り合いがいない国に嫁いできて、弱みや愚痴なんて軽々しく言えませんよねぇ。懐妊したら安定期に入るまで友人には手紙で書くこともできない。そこはロレンス殿下がうまいことやればいい話なんですけどぉ。あの人も今、トラウマでダメダメなんでぇ。一度身近な人を失っていると、また失うのがとぉっても怖いんですよねぇ。だから妃殿下にちょっと拒絶されたら、塩のかかったナメクジですよぉ」
ダラスは話の内容のわりにおどけている、その上身振り手振りが激しい。
「どっちもどっちですけどねぇ。はーやれやれ。完璧な夫婦ってこわぁい」
正直、ナディアだってこんなに早く懐妊するとは思っていなかったのだ。
自分の心が荒れている原因が、子供じみていることが分かっているから言わない。
エリーゼの結婚式に出席できないかもしれない、と最初に頭をよぎった。ちょうど予定日と被りそうなのだ。どうしよう、楽しみにしていたのに。ロレンスはきっと行かせてくれない。
そして、次によぎったのは自分が母親になれるのかという不安だった。




