ベースプラント計画
「次元回廊迷宮化計画……。推移を見る限りは順調なようじゃないか」
タブレットに映る魔素消費量の推移を示すデータを眺めながら、シドリムは満足げにそう話した。そして琥珀色のお酒が入ったグラスを口元に運ぶ。ふわりと鼻腔をくすぐる芳醇な香りを楽しんでから、彼はそれを一口喉に流し込んだ。
このお酒は、今彼がいるのとは別のコロニーで作られた。似たようなお酒を作っているコロニーは幾つかあるが、それぞれに味わいは違う。もちろんそれぞれ職人達の創意工夫があるのだろうが、コロニーという画一化された人工的な環境で、しかしお酒にこれだけの個性が出るというのは彼の科学者としての好奇心を刺激する。
「順調と言えば順調だけどね。こちらの想定は下回っている。まあ、初めての試みでしかも異世界の事だから、正確な予測が難しいのは最初から分かっていたけど、そのあたりがリスクと言えばリスクかな」
シドリムの向かいで同じお酒を飲みながらゼファーがそう答える。ちなみにゼファーはアルコール度数の高い蒸留酒よりも自然発酵させた果実酒を好む。とはいえ蒸留酒も嫌いなわけではないので、今日はこうして友人に付き合っている次第だ。
次元回廊迷宮化計画の魔素消費量が予想を下回っているのは、大雑把に言って銃器(AMB)が原因だ。次元迷宮攻略のためのメインウェポンは今のところ銃器。だがAMBは比較的早い段階で通用しなくなり、そのために攻略の進捗速度が鈍っているのである。
もっとも想定を下回ったとは言え、魔素の消費量自体は増加し続けている。迷宮に入る人数も増加傾向が続いており、遠からず魔素の流入量と消費量は釣り合うだろう。ともかく積層結界に過剰な負荷さえかからなければ、あえて次元迷宮に手を出そうとする者はいないはずだ。
「ところでゼファー。コイツの話はもう聞いたか?」
そう言ってシドリムはタブレットを操作し、それをゼファーに見せる。その画面を見てゼファーは「ああ」と呟いて一つ頷き、こう答えた。
「もちろんだ。ベースプラント計画、参加するつもりでいるよ。シドリムはどうなんだい?」
「わたしも参加予定だ」
やっぱり、と言ってゼファーは小さく笑った。ベースプラント計画。それは捨てざるを得なかった母星に拠点を造る計画だ。拠点の性質としては軍事基地になるが、基地内には研究所の設備も造られる予定で、二人が関わるのは主にその部分になる。そしてこのベースプラント計画は次元回廊迷宮化計画を受けてのプロジェクトだった。
この計画は一言で言って「母星に軍事基地を造る計画」であるから、主導しているのは言うまでもなく軍部(防衛軍)である。大きなプロジェクトであり、当然ながら巨額の予算が必要になる。
その予算はどこから捻出されたのか。大きな出所の一つは、積層結界維持費の圧縮分である。次元回廊迷宮化計画によって積層結界にかかる圧力が減り、それが維持コストの大幅な圧縮に繋がったのだ。
「人類が宇宙に上がってから、軍部はずっと日陰者だったからな。鼻息も荒い」
グラスを傾けながら、シドリムはやや皮肉げにそう言って小さく笑った。コロニーごとに自治権が認められているとは言え、全てのコロニーは同一の政体に所属しており、つまり大きく括ればこの世界の人類は全員が同じ国の国民と言って良い。
異星人の存在も確認されておらず、よって対外戦争は想定されていない。そういう環境にあって軍隊の存在意義が問われるのは当然だろう。治安の維持ならば警察でよく、軍隊不要論は根強かった。
そんな中にあって訪れた好機。それが次元回廊迷宮化計画だった。この計画により、この世界は異世界と繋がった。「現在の脅威度は低いとは言え監視は必要」というのが軍部の主張であり、それがベースプラント計画の出発点だった。
つまり建設される軍事基地とは、次元迷宮の監視のための基地なのだ。とはいえ、ただ監視するだけなら大がかりな軍事基地など必要ない。そこで軍部がぶち上げたお題目は「母星帰還のための橋頭堡の建設」だった。
「母星への帰還、か。どこまで本気だと思う?」
「さて、ね。今のところは予算確保のための大義名分だと思うけど」
シドリムの皮肉げな問い掛けに、ゼファーも肩をすくめながらそう答える。母星への帰還。それはこの世界の人々にとって悲願と言って良い。少なくとも宇宙移民の第一世代にとっては。そしてその世代の人たちはもうすでにこの世にいない。
今現在コロニーで生活している人たちはみな、宇宙生まれの宇宙育ち。一昔まえは新世代などと言われたらしいが、その言葉も使われなくなって久しい。つまり宇宙で生まれ、宇宙で育ち、宇宙で死んでいくのが当たり前になっているのだ。
逆を言えば、母星を故郷としている者は今の時代に一人もいない。多くの人にとって母星とは歴史的なルーツの地ではあっても、個人的に何か関わりのある場所ではないのだ。そんな場所に「帰りたいか」と言われれば、大多数は首をかしげるだろう。
「そもそもだ、住環境で言えばコロニーのほうがよほど生活しやすい」
シドリムの言葉にゼファーも頷く。母星で暮らすとなれば、当然ながら自然環境の影響を大きく受ける。季節の気温差は大きいだろうし、雨も降れば風も吹く。だがコロニーならそう言った一切を人の手でコントロールできるのだ。
もちろんコロニーにも弱点はある。人工物であるコロニーはどうしても劣化する。長いスパンで見れば順次入れ替えていく必要がある。また外は宇宙であるから、仮に穴が空けばそれだけで致命傷になりかねない。
だがコロニーでは自然災害が起こらない。地震も、台風も、洪水も、干ばつもない、そういう環境なのである。それで技術レベルが一定以上になり、各種の基準がきちんと守られているなら、コロニーとは存外住みやすい場所と言って良い。
そういう場所で暮らしてきた人々が、今更母星に帰りたいと思うだろうか。シドリムもゼファーも懐疑的だ。ただ二人とも計画へは参加予定で、計画それ自体を否定的に捉えているわけではない。それでゼファーはこんなふうに答えた。
「まあ『母星への帰還』というよりは、『新たなフロンティアの開拓』と言った方が、事実に即しているとは思うよ」
ではなぜわざわざ「母星への帰還」などと銘打っているのか。一言で言えば、いわゆる憲法にそれが明記されているからである。そこに宇宙移民第一世代の意向が強く働いていることは間違いないが、ともかくそこにそう書いてある以上、政体としてはそれを無視できないのである。
ただ二人が指摘しているように、現在の人類が「母星への帰還」を熱望しているかと言えば、たぶんそんなことはない。だから軍部の主張はどうしても予算を得るための方便に聞こえてしまう。実際、その側面は大いにあるだろう。ただそれを踏まえても、彼らはベースプラント計画を肯定的に捉えている。
「現在の社会は行き詰まっていて、多くの人がそれを感じている。そこに突破口を開けるなら、『母星への帰還』もアリじゃないかな」
「実際、軍部はそのつもりらしいな。行動計画の中には『地図の作成』、『魔素濃度とモンスター分布の確認』も含まれている」
これは言うまでもなく、今後の活動の前準備である。つまり軍は将来的にかなり広範囲での活動を予定している、ということだ。そしてその計画が承認されたということは、政治レベルではすでに「入植」を考え始めているのだろう。
もっとも過去を鑑みれば母星にはかなり強力な、それこそ防衛軍が太刀打ちできるのか分からないようなモンスターがいてもおかしくはない。そういうモンスターはどうするつもりなのか。ひょっとしたらその脅威度を軽視しているのではないかとも思える。
「アリス女史に頼み込むという手もあると思うが、それを防衛軍が良しとするかな……。まあそれは軍部が考えれば良いことだ。案外、そういうモンスターをテコにして新たな予算の獲得を狙っているのかもしれないぞ」
「ありそうだなぁ」
「組織というのは常に拡大を狙うものだからな。それが社会の拡大に伴うものなら文句はないし、ついでに研究予算も増やしてもらえれば言うことはないな」
シドリムはニヤリと笑って琥珀色の液体を飲み干した。そして空になったグラスにまたお酒を注ぐ。その物言いに苦笑しながら、ゼファーも同じお酒を一口なめる。
軍部の思惑はともかくとして、シドリムの視線と興味はすでに研究のほうに向いている。そしてそれはゼファーも同じだった。
「不謹慎かもしれないけど、次元結晶、魔素、ひいては世界の仕組みや構造について研究するのに、今のあの星ほど適した場所はない」
ゼファーの言葉にシドリムも頷く。彼の言うとおり、研究対象としてこれほど好奇心をそそられる対象はない。何しろ次元の壁が自然発生していて、それが手で触れられるくらいに安定しているのだ。そんな場所、宇宙広しといえどもここにしかないだろう。
また空間が歪み、土地が増えていることも観測されている。ただその仕組みや状態についてはまったく手つかずで、全てはこれから。例えば地質がどうなっているのかなど、調べたいことはいくらでも思いつく。
このほかにも未知の不思議な現象がどこかで起こっているかも知れない。未知の物質がどこかで生成されているかも知れない。動物・植物・菌類を問わず、新種が誕生している可能性だってある。
研究分野という意味でも、巨大で果てしないフロンティアが広がっているのだ。これで心躍らないヤツは研究者じゃない。それこそが研究者の本懐だと、シドリムはワリと本気でそう思っている。
「最近は研究以外のことを考えねばならんことが多かったからな。できることならしばらくは研究に没頭したいものだ」
「ははは、まったくだね。ところでシドリム、一つ聞きたいことがあるのだけれど」
「なんだ?」
「あの星で、いや我々の社会で特に魔素についての研究を行っていく上で、次元抗のことは避けては通れない問題だと思う。それでもし次元抗を塞げるとなったとき、果たしてそれは実行されるかな?」
「…………少なくとも完全に塞いでしまうことはないだろうな」
少し考えてからシドリムはそう答えた。次元坑はつまり魔素の流入口であり、これを塞げば積層結界を崩壊させかねない内圧の問題は解決する。だが同時に無限とも思える魔素資源も失われることになる。エネルギーの大部分を魔素に依存している現在の社会はそれを許容できないだろう。
「ただ、魔素の流入量はずっと増加傾向にある。これは次元抗が徐々に拡大していることを示唆している。最悪、星が次元抗に呑まれるかも知れん。それを避けるためにも、次元抗の縮小ならニーズがあるんじゃないのか?」
「なるほど。じゃあ研究テーマとしては有力候補だね」
「なんだ、お前のテーマはそれか?」
「まだ決めたわけじゃないけど。でも予算の取れそうなテーマだろ?」
「なるほど。そいつは重要だな」
そう言ってシドリムは楽しげに笑った。異世界の二人の科学者。次元回廊迷宮化計画を区切りとして、彼らもまた新たな段階へ進もうとしている。
シドリム「宇宙に進出した我々の次のステップが母星への帰還とはな。コイツは歴史的に見て進歩と言えるのかな?」
ゼファー「歴史の正道に戻ったのさ。たぶんね」




