奏の恋心(仮)
それは佐伯奏が二十歳になった年のこと。大学がもうすぐ夏休みに入ろうかという季節のある日、彼女は食事のときに祖父である佐伯勲からこんなことを尋ねられた。
「ところで奏。仕事のほうは、最近どうなんだい?」
「忙しいなぁ。学校もあるから、ほんと大変だよ。まあ、一番忙しかった時よりは落ち着いたし、就活もしなくて良いから、夏休みに入ればちょっと楽かな」
忙しいと言いつつも、奏の表情は明るい。彼女が立ち上げた会社、(株)LABYRINTH.comは主に次元迷宮攻略のグッズを扱っている。ターゲットを低階層に絞ったこと、またライバルが少なかったことが功を奏し、迷宮攻略が経済活動の一部になるにつれて売り上げを急速に伸ばした。
同時に会社の仕事量も売り上げに比例して増えていく。そのため奏は遊ぶ暇もなく、大変忙しい大学生活を送っていた。今は同級生を雇ったり、勲の伝手を頼ったりして人を増やしたので、彼女個人の仕事量はだいぶ減っている。とはいえ長い休みはなかなか取れそうにないのだが。
『友達が沖縄に行ってきたんですよ。で、写真見せて貰って、楽しそうだなって。その時思ったんです。会社も結構上手く行って、沖縄に行くお金なら持っているはずなのに、なんでわたしは沖縄が遠いんだろうって……』
奏はビデオ通話で秋斗に愚痴ったことを思い出す。ちなみにその時の会話の続きはこうだ。
『ははは。じゃあ、アレだ、推しに課金とかしてるの?』
『いえ、課金とかは……。あ、でもこの前、ちょっと昔のマンガ、電子版で大人買いしちゃいました。アプリなんですけど』
『それ、課金と差がなくない?』
『……え?』
まあそんなお金の使い方はいいとして。勲も孫娘の忙しさを良く知っている。それで彼は苦笑しながら奏にこう自分の経験を話した。
「自営業者や経営者は、仕事とプライベートの境目があいまいだからね。休みのつもりでも、いきなり電話が来て仕事が入ったりする。そのせいで、頭のどこかではいつも仕事のことを考えてしまっていたりする」
「そうそう!」
「仕事にやりがいがあると、ますますそうなる。だって苦じゃないからね。でもそのせいで、気がつくとプライベートの時間がなくなっているんだ」
「あ~、分かる。わたしも仕事して、大学の課題やって、寝て、って感じだもん」
「一生懸命に仕事をするのはいいことだ。いい加減な態度は相手方にも失礼だからね。だけどプライベートを犠牲にしてまで仕事をするのは、ちょっとやりすぎだと思うよ。私はそれで後悔した」
「……後悔って?」
「家族との時間をもっと大切にすれば良かった。今となっては特にそう思うよ」
「…………」
「最近はライフワークバランスも大切だと言われているし、仕事だけが大切なわけじゃない。ちょっとお説教くさくなっちゃったけど、まあ、バランス良く、ね」
「うん、気をつける」
奏は大きく頷いてそう答えた。それを見て勲も優しげに微笑む。そして彼はさらにこう尋ねた。
「その上で聞きたいのだけど、秋斗君とは最近どうなんだい?」
「どうって言われても……。何も、ないよ……? たまにお話をするくらい」
奏は少し気恥ずかしそうにそう答える。勲はそれに気付かないふりをしつつ、ちょっと考えるような素振りをしてからさらにこう言った。
「秋斗君は卒業後、迷宮のほうに力を入れるそうだ。彼のことだから、お金に困ることはないだろう。ただどうも、狭い人間関係で済ませようとしているように思えてね……。ちょっと心配なんだ。まあ、人間関係なんて広ければ良いというものでもないけれど……」
そう言って勲はまた少し考え込む。それからフッと苦笑を浮かべてこう続けた。
「いや、これこそ余計なお節介かな。迷宮のなかでも新しい出会いはあるかもしれないしね」
「え~、あるかなぁ」
「彼のことだからねぇ。例えば目の前でモンスターに苦戦している子達がいたら、きっと助けるだろう? 本人は片手間で助けたつもりでも、助けられた側の受け取り方は違うだろうし、ましてやそれが異性なら……」
「え~、ないよ、ないって。そんな三流小説みたいな展開」
その場はそう笑って流した奏だったが、食事が終わって自分の部屋に籠もっても、勲の話がなかなか頭から離れない。ついついスマホでネット検索してしまったのだが、検索結果は意外と豊富だった。
その大半は小説やマンガといった創作物だったが、そういう分野でも次元迷宮は受け入れられているということなのだろう。あるいはただ単にネタにしやすいというだけかもしれないが。
それは置いておくとしても、そういう作品のあらすじを見ていくと、勲が言っていたような展開の話は多い。幾つか試し読みをしてみたが、読む度に奏の顔から表情が抜け落ちていく。最終的に能面のようになった顔で、彼女はこう呟いた。
「落ち着きなさい、これは全てフィクションよ」
そう自分に言い聞かせ、奏はスマホをホーム画面に戻した。そして「はあ」とため息を吐く。ベッドの上に転がり天井を見上げると、考えてしまうのは秋斗のこと。額に手の甲を置きながら、彼女は小声でこう呟いた。
「秋斗さんは、わたしのこと、どう思ってるんだろ……」
いや、それは何となく分かる。秋斗にとって奏は「勲の孫娘」であり「年下の女の子」だ。異性としては見ていないだろうし、なんなら見ないように意識している節さえある。
「じゃあ、わたし、は……?」
奏は自分にそう問い掛ける。自分は秋斗のことをどう見てどう思っているのだろうか。奏は枕を抱きかかえるようにしながら自分と向き合った。
奏にとって秋斗はまず第一に「恩人」である。ただ彼女自身に回復して貰ったときの記憶はない。勲からその時の様子を教えてもらっただけで、そういう意味では実感が薄い。また彼女の主観としてはずっと寝ていただけで、つまり苦しかった覚えはなく、そこから救って貰ったと言われてもいまいちぴんとこない部分があるのも事実だった。
ただ奏が秋斗を敬遠しているかといえばそんなことはない。奏にとって秋斗は「年上のお兄さん」だった。彼女は一人っ子だったから、「もし自分にお兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな」と思うこともあった。
少し話は逸れるが、奏は目鼻立ちの整った美少女だ。学校で告白されたことは一度や二度ではないし、モデルやアイドルのスカウトに声をかけられたこともある。もっとも彼女がそれらに「イエス」と答えたことはない。
芸能界に憧れがなかったわけではないし、自分なんて通用しないとはなから諦めていたわけでもない。ただ自分がその世界に入ると考えたとき、ワクワクすることがなかったのだ。後に起業のことを考えたときはワクワクしたから、結局芸能界は自分に向いていなかったのだろうと奏は思っている。
そして同級生(先輩や後輩を含む)からの告白。正直に言って、奏は驚いたことはあってもドキドキしたことはない。奏から見ると、同級生はみんな子供に見えた。「カッコ良く見せよう」というのが目に付き、それがむしろ子供っぽく思えてしまったのだ。
その比較対象となっているのは、言うまでもなく秋斗だった。十代における三歳は大きい。加えて彼は一人暮らしをしていたから、同年代と比べても自立している。また祖父である勲と対等に話をしている姿は、奏の目に「大人」として映った。そこには憧れもあったように思う。
前述した通り、秋斗はこれまで奏のことを「知り合いの、年下の女の子」として扱ってきた。それによって二人の主観と関係性はかみ合ったと言える。秋斗にとって奏は「面倒を見るべき相手」であり、奏にとって秋斗は「ほどほどに甘えて良い相手」だったのだ。
「甘えていた、だけ……? 好きだったわけじゃ、ない……?」
否定の言葉は出てこない。ただ認めてしまうのは胸が痛かった。その痛みは本物、だと思う。そして痛みを感じるのは、今までのままじゃいられなくなったからではないだろうか。変化には痛みがつきものだと言う。
「恋じゃ、なかったなぁ……」
枕に顔を押しつけながら、奏はそう呟いた。好きか嫌いかで言えば、もちろん秋斗のことは好きだ。ただそれが恋だったのか、奏は自信がない。いや、たぶん恋ではなかった。一番近いのは憧れだろうか。
秋斗が「お兄さん」に思え、そんな彼が自分に付き合ってくれるのが嬉しかったのだ。もちろんそれだけではない。人の心は、女の子の心はそんなに単純ではない。けれども恋と呼ぶにはあまりにも幼かった。
(うわぁ、恥ずかしい……)
奏は枕を被って赤くなった顔を隠す。「同級生は子供っぽい」とか言っておいて、これではどちらが子供か分からない。「ほらわたしブランクがあるから」と誰にともなく言い訳してみる。さらに恥ずかしくなった。
「こ、これからよ。大事なのはこれからよ」
ベッドの上に座り、枕を胸に抱きしめながら、奏は自分にそう言い聞かせる。人は変わるし、人の関係性も変わる。今まで恋していなかったからといって、これからも恋しないわけではない。さっき感じた胸の痛みは本物だと、奏は信じている。そして彼女はもう一度自分に問い掛ける。「自分は秋斗のことをどう思っているのだろうか?」と。
(分かんない……。分かんないよ……)
本当に分からなかった。好きなことは間違いない。だがそれが恋愛的な意味なのかと言うと、まったく何も分からない。視点を変えて「秋斗と恋愛関係になりたいのか?」と自問しても、やはりハッキリとした答えは出てこない。かといって彼が自分の知らない誰かと付き合っているとしたらと思うと、胸は痛いしモヤモヤする。
(やっぱり、好き、なの……?)
言い切れない。自信がない。それが奏を不安にさせる。どうすればいいのか分からず、悶々としたまま考え続け、そのうちに彼女はだんだんイライラしてきた。だってそうではないか、奏がこんなにも悩んで苦しんでいるというのに、当の秋斗は彼女をそもそも異性として見ていないのだ。それどころかずっと子供扱いである。
「決めた……!」
やや据わった目をしながら、奏はそう呟いた。まずは秋斗に自分を女として意識させる。惚れさせて、恋させて、「付き合って下さい」と言わせてやる。実際に付き合うかどうかは、そのとき奏が秋斗を好きかどうか、それ次第だ。
「ふふふぅ……、覚悟しろぉ、秋斗さん……」
奏と秋斗の、長きにわたるアレコレの始まり、かもしれない。
百合子「あの子、意外とポンコツ……?」




