宗方茂の話
大学院の卒業式を明日に控えた、ある静かな夜のこと。秋斗のスマホが呼び出し音を鳴らした。相手を確認すると、画面には「宗方茂」の名前が。秋斗は一度大きく深呼吸すると、画面をタップして電話に出た。
「はい、秋斗です」
「私だ。久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです、茂さん」
「ああ。……明日は、卒業式だったな。おめでとう」
「ありがとう、ございます」
そう答えながら、秋斗は少し意外な気がしていた。大学の卒業式の時には、茂は何の連絡も寄越さなかった。院に進学することは伝えていたので、社会に出る区切りではなかったのは確かだが、そういうわけだったので今回も連絡は無いだろうと思っていたのだ。だが茂はこうして連絡を寄越した。意外とマメな人なのかな、と秋斗は内心で呟いた。
「就職先はもう決まっているのか?」
「あ~、実は家の近くにゲートができまして。迷宮で稼ぐつもりです」
「それは……、いや……、その、生活できる目途は立っているのか?」
茂の声に怪訝なモノが混じる。秋斗は内心で「そりゃそうだよなぁ」と呟き苦笑を浮かべた。彼だって「オレ、迷宮一本で食っていくんだ!」と宣言しているヤツがいたら、「それ大丈夫なの?」と眉をひそめるだろう。曲がりなりにも親子であることを考えれば、茂の反応はごく真っ当だ。頭から否定しない分、穏当だとさえ言えるだろう。
「はい。何とか食っていけそうです」
秋斗はそう答えた。本当は一生遊んで暮らせるくらいの貯金がすでにあるのだが。それを話そうとすると諸々の説明が面倒なので伏せておくことにする。「食っていけそう」なのは本当だから、ウソはついていない。
「そうか。お前の人生だ、好きにやってみると良い。ただ、十分気をつけてな」
「分かってます。……その、茂さんの方は、どうですか?」
「どう、とは?」
「ダークネス・カーテンとか迷宮とか……。やっぱりお仕事にもいろいろありましたか?」
「そうだな。ダークネス・カーテンのときが一番酷くて、ずいぶん損失を出したな。だが早めに損切りしておいたおかげで致命傷は免れた。迷宮が現われてからは、世界情勢もまた安定しつつある。以前の状態には戻らんだろうが、もともと時々刻々と変化する世界だ。そういう意味では大して変わらん」
茂は淡々とそう語った。彼がこれほど長く喋るのは初めてだ。それで秋斗は軽い気持ちで「お仕事が好きなんですね」と言った。だが短い沈黙の後に茂が口にした言葉は意外なものだった。
「……向いているとは思っている。だが仕事が好きだと思ったことはない」
「え、じゃあ、どうして……?」
「どうして、か……。……美咲の、お前の母さんのことも関わっている。話すと少し長くなるが……」
「聞きたいです」
秋斗はやや食い気味にそう答えた。彼は父のことを、茂のことを何も知らない。話してくれるのであれば聞きたかった。そして彼がそう答えたので、茂は少し躊躇うようにしてからこう話し始めた。
「……私は四国の田舎の出身でな。両親は金を稼げる人が偉いと思っているような人たちで、そのくせ家は貧乏だった。共働きだったからそれなりの収入はあったはずなのだが、あやしい儲け話に飛びついて失敗を繰り返す。そんな人たちだった」
茂の声にはやや軽蔑の色がある。彼は「くっくっく」と喉の奥をならすようにして小さく笑うと、さらに続けてこう言った。
「秋斗、覚えておきなさい。『金は愚民』というが、そのくせ同族嫌悪の性質もあるらしい。賢い人間というのは、あやしい橋はそもそもわたらないものだ」
「はい……」
耳の痛い思いをしながら、秋斗はそう答えた。アナザーワールド関連の話は、少なくとも当初は「あやしい橋」だったと言うほかない。それでもここまで来られたのは、果たして運か実力か。「運かなぁ」と秋斗は内心で肩をすくめた。
「……私も、両親からは『金を稼げる人間になれ』と言われて育った。それがイヤでね、仕事と言うより金を稼ぐことそのものを斜めに見るようになった。だからあの頃は研究者になりたかった。だが『大学に行かせる金はない』と言われ、高校卒業後は地元の企業に就職した」
「……奨学金とかは使わなかったんですか?」
「言っただろう、家が貧乏だった、と。借金がどうのという話は両親が散々していたからな。奨学金も本質的には借金と変わらない。借金をしたいとは思わなかった」
電話の向こうで、茂はやや苦笑気味にそう答えた。そしてさらにこう続ける。
「就職して分かったのは、自分には金を稼ぐ才能があるということだった。上司も先輩も、なぜこんなことが分からないのかと不思議だった。自分よりできない連中に使われるのが馬鹿らしくて独立を考えたが、石の上にも三年と思い直して、三年間は我慢して働いた」
その間にも考えは変わらなかったが、その時間は決して無駄ではなかった。将来のためにしっかりと計画を立てることができたからだ。そして三年間働いた後、茂は退職して東京を目指した。
「独立してからは、休みもなく働いた。これと言って目的があったわけではない。ただ稼ぐことを止めたら自分には価値がなくなるように思っていた。美咲に出会ったのは、そんな時だった」
出会いはふらりと入った居酒屋。客が多く、すぐに出ようと思ったのだが、その前に店員に声をかけられた。相席を了承し、案内された席にいたのが美咲だった。
「当時の彼女は、デザイナーになるため、アルバイトをしながら独学で勉強していた。あの時、具体的に何を話したのかは覚えていない。だが夢を語る彼女の目が輝いていた事だけは今でも覚えている」
気がついたら、二軒目に誘っていた。そして二軒目の店で彼女にこう聞かれた。
『あなたの夢はなに?』
「そう聞かれて焦った。夢など無かったからだ。だが私は若くて馬鹿だった。正直にないとは言えず、咄嗟にこう答えた」
『アメリカに行って、大きな仕事をして、ビッグになってやる』
彼女は疑いもせず「すご~い」と言って手を叩いた。その日は連絡先を交換して二軒目で別れたが、後日また一緒に食事をして、付き合うことになった。以後、二人の交際はおよそ一年半に及んだ。
「別れるきっかけは私の仕事だった。海外の仕事で、その後はアメリカに拠点を移すことになる。遠距離恋愛をしても続かないと思い、話し合って別れることにした」
出立の日、美咲は空港まで茂を見送りにきた。そんな彼女に茂はこう言った。
『デザイナーになって、大きな仕事で金が要るようになったら連絡しろよ。それまでに稼いでおくから』
「馬鹿な話だ。自覚があったかは分からないが、彼女はあの時すでに妊娠していた。そしてそれをきっかけにして、彼女は夢を諦めていたのだからな」
茂は淡々としつつも吐き捨てるようにそう言った。秋斗も聞いていて辛い。母が自分をきっかけに夢を諦めたと聞いたのだから。茂は一度息を吐いてから、さらに続きをこう語る。
「……アメリカに行ってからは、彼女と連絡は取らなかった。もう別れた相手で、私は昔の男。迷惑だろうと思ってな。それも、馬鹿な話だ」
茂の声に後悔が混じる。次に美咲から連絡が来たのは十数年後。彼女はすでに病で余命幾ばくもない状態だった。彼女は茂に事情を説明し、彼に子供のことを、秋斗のことを頼んだ。
『なぜ、どうして、産んだんだ……?』
『あなただけだったの。わたしの夢を聞いても、「そんなの無理だ」って言わなかったのは』
『せめて、教えてくれれば……!』
『だって、あなたはアメリカでビッグになるんでしょ……? 邪魔できないもの』
「……今でも後悔している。あの時、せめて空港で、『君の夢を応援したい。オレの金を使ってくれ』と、そう言えていれば……」
数秒の沈黙の後、「はあ」と息を吐く音がスマホの向こうから聞こえた。茂はまた淡々とした口調で続きをこう語った。
「……諸々の手続きを終えてお前とも別れた後、私は自分が何のために働くのか、何のために金を稼ぐのかを考えずにはいられなかった。だがいくら考えても意味のある答えは出ない。結局自分は惰性で働いていたのだと思い知らされて、死にたくなった」
だが茂は死ななかった。秋斗がいたからだ。少なくとも彼が自分で食っていけるようになるまでは、生活費を援助してやらなければならない。そしてそれは多少なりとも意味のある金の使い方であるように思えた。
「働くことに大した理由がないのなら、せめて意味のある金の使い方をしよう、意味のあることをしている人たちに使って貰おうと、そう考えるようになって、あちこちの団体に寄付するようになった。……それで篤志家などと呼ばれるのだから、皮肉なものだ」
そう言って茂はスマホ越しに苦笑した。そして彼はこう続ける。
「……どうして好きでもないのに働くのか、だったな。強いて言うなら他にやることがないからだ。熱中できるような趣味はないし、芸術方面の才能は皆無。それなら向いていることをやるほうがストレスは少ない。ただ、そうだな、今は自分の稼いだ金が少しでも有効に使われれば良いと、そう思っている」
「これでいいか?」と尋ねる茂に、秋斗は「……はい」と答えた。茂がこんなにも自分のことを話してくれたのはこれが初めてで、そして恐らくはこれが最後だ。何と言えばいいのか分からず、秋斗はただかしこまるしかない。そんな息子の気配を察したのか、茂は少し申し訳なさそうな声でこんなことを話し始めた。
「今だから言うが、今まで渡していた生活費は、本当ならもっとたくさん渡せていた。だがそれが良いことなのかどうか、判断がつきかねてな……」
「あ~、まあ、大変なときもありましたけど。経済観念が身についたと思ってます」
「そうか。それは良かった」
茂はそう言った。穏やかな声だった。
茂「金は愚民さ。私なんぞのところへ集まるのだからな」




