ミモザ
八月のある蒸し暑い夜。秋斗は勲から飲みに誘われた。連れて行ってもらったのは、シックな雰囲気のバー。こういうお店に入るのは秋斗も初めてで、彼はキョロキョロと店内を見渡しながら、促されるままカウンター席に座る。その隣に座ると、勲はマスターにこう注文を入れた。
「マスター、ミモザを二杯」
勲がそう注文すると、マスターは一瞬だけグラスを磨く手を止めた。秋斗はそれに気付いたが、理由までは分からない。勲の方を盗み見てもニコニコと微笑むだけ。理由を聞いて良いのかも判断がつかず、結局黙ってカクテルが出てくるのを待った。
これは秋斗が後で知った話だが、ミモザはシャンパンをベースにしたカクテルで、つまり一杯作るだけでもシャンパンを一本開けることになる。その分の代金はきっちり請求されるわけで、つまり高いのだ。中には安いスパークリングワインを使うところもあるらしいが、勲がわざわざ秋斗をそんなお店に連れてくるはずもない。
注文したのが勲でなければ、もしかしたらマスターは客に事情を説明したかも知れない。だが勲もこの店にある程度通っているのだろう。マスターは何も言わず、慣れた手つきでミモザを作り始めた。そしてグラスに注いで二人に出す。勲に進められるまま、秋斗はそのお酒を一口飲んだ。
「あ、おいしい……」
秋斗は顔をほころばせた。スーパーで買う安物の缶チューハイとは雲泥の差である。それを見て勲は満足そうに微笑み、それから自分のグラスに口を付けた。
「それにしても勲さんに誘われるのはちょっと意外でした」
「はは、本当なら二十歳の誕生日に誘ってあげれば良かったんだけどね」
「あ、いえ、そういう意味ではなく。夜はあんまり家を空けないようにしていたんじゃないんですか?」
「まあ、そうなんだけどね。奏ももう高三だし、いつまでもジジイが孫離れできないようじゃ、あの子も鬱陶しいだろう?」
「そんなことは言わないと思いますけど……」
苦笑気味にそう答えながら、秋斗はミモザをもう一口飲む。彼が「ホントにおいしいな」と呟くと、勲は嬉しそうに笑って自分のグラスを空にした。そしてマスターにおかわりとつまみを頼む。
「マスター。シャンパンと、何かつまめるモノを。……ああ、秋斗君も自由に頼んでくれ。今日は私の奢りだ」
「ありがとうございます。……じゃあ、オレは同じのを」
マスターはすぐに二杯目を出してくれた。つまみが出てくるのを待ちながら、二人はそれをゆっくりと飲む。そして雑談に興じた。
「秋斗君は、普段どんなのを飲んでいるんだい?」
「缶チューハイが多いですね。色んな種類のをバラ買いして、気分で選びながら飲んでます」
「はは、楽しそうでいいね。そう言えば前にワインがどうとか言っていなかったかい?」
「飲みましたよ。半分以上は料理に使っちゃいましたけど。白はともかく、赤をそれだけで飲むのはちょっとキツかったですね」
「ワインは料理と一緒に楽しむものだよ」
「そう思いました。勲さんはどうなんですか?」
「ウィスキーが多いかな。冬は日本酒だね。暖かいのが欲しくなるから」
「あ~、なんかすごく雰囲気に合ってる感じがします」
秋斗がそう言うと、勲は少し照れた様子で笑った。そのタイミングでマスターがつまみを出してくれる。カナッペとサラミの盛り合わせだ。カナッペのチーズは自家製だという。盛り付けもお洒落で、秋斗は早速手を伸ばした。おいしい。彼はまた顔をほころばせた。
つまみが美味しいとお酒が進む。秋斗は二杯目を空にすると、三杯目にシャンパンを注文した。勲のマネである。勲のほうは慣れた様子で、サラミをつまみながら二杯目をゆっくりと楽しんでいる。そしてリラックスした雰囲気の中、彼は秋斗にこう尋ねた。
「……最近、大学はどうだい? ゲート関連が騒がしくなっているけど」
「あ~、最近増えてきましたからね」
ややバツが悪そうな顔をしながら、秋斗はそう答えた。彼が大学三年生の夏休みに入る頃、彼の言うように〈門〉絡みの情勢は一気に加速していた。これまでもほぼ毎日世界のどこかにゲートが出現していたが、一日当りの出現数が一気に増えたのである。その数、一日当りおよそ100個。
その影響を日本も受けている。七月末の時点で日本に出現したゲートは、北九州市に現れたNo.67の一カ所のみ。それが八月の初め頃から、だいたい三日に二個のペースでどこかにゲートが現れるようになったのである。
このときの日本国内の、いや世界の雰囲気をどう表現すればよいものか。何かとんでもないことが起こっているのではないか、あるいは起ころうとしているのではないか。人々は言い知れぬ恐怖を覚えずにいられなかった。
『The Dead Days of World End』
かつて二大モンスターが暴れていた頃、囁かれた言葉である。人々の絶望が表われていると言っていい。その時と比べると、人々は絶望しているわけではなかった。人々は不安だった。何か破滅的なことが起こるのではないか。その予感を否定できずにいたのだ。
ただ実際のところ、「破滅的」といえるほど酷いことはまだ起こっていない。スタンピードもエジプトの一回以来確認されていない。もっとも起こっていないだけで「起こらない」とは言えない。それが不安と恐怖を駆り立てるのだろう。
そのあおりを受けてなのか、政権支持率は下落傾向にある。秋斗から見て、今のところ政府に大きな瑕疵があるようには思えないのだが、そういうことは人々にはあまり関係ないのだろう。
人々は不安であり、安心が欲しいのだ。それなのに安心できる要素が見当たらない。目途も立たない。期待に応えてくれない政府には辛口になる。要するにそういう事なのだろうと秋斗は思っている。
「……大学は、前よりはむしろ雰囲気が明るくなったと思いますよ」
「おや、そうなのかい?」
「ええ。モンスターもあんまり出なくなりましたし。ダークネス・カーテンが消えて、それでいてゲートが近くにないからだと思いますけど」
「なるほど。言ってみれば安全地帯になったわけだ」
「いや、少なくなったけどモンスターは出ますけどね。でもまあ、そうですね。前よりは安全になったと思いますよ。……いつまでもつかは分かりませんけど。ゲートは増え続けてますから」
「……秋斗君は、ゲートが無限に増え続けると思うかい?」
「いや、無限には増えないと思いますよ、さすがに。でも、それなりの数にはなるんじゃないでしょうか」
「どうしてそう思うんだい?」
「……ダークネス・カーテンが小さくなったことと、ゲートの出現は無関係じゃないと思うんです。どちらもモンスターが絡んでいますから。ということは、ゲートもダークネス・カーテンと同じくらいの規模というか、脅威度にはなるんじゃないでしょうか」
「ふぅむ、ゲートとダークネス・カーテンは単純に比べられるモノではないと思うが……。ただ言わんとするところは何となく分かるよ」
勲はそう言って苦笑気味の口元へグラスを運んだ。彼の言うとおり、ゲートとダークネス・カーテンの脅威度は単純に比べられるモノではない。ただ基準を瘴気(魔素)にした場合、その量がガクッと減ったというのは納得できる。であればその量が元に戻るまでゲートが増え続けるというは、あり得るように思えた。
(まあ、私の主観だがね)
心の中でそう呟きながら、勲はグラスを空にした。カナッペを一つ食べてから、二杯目のシャンパンを注文する。ボトルに中途半端な量が残ってしまったが、それは秋斗が引き受けた。
「……それにしても、シャンパンって美味しいんですね。シャンパンとスパークリングワインって、どう違うんですか?」
「シャンパンもスパークリングワインの一種ですよ。ただしシャンパンはフランスの法律でこういうモノだと定められています。産地も指定されていますから、仮に日本で同じ製法で作ったとしても、それはシャンパンとは認められませんね」
「へぇ……」
マスターの解説を聞き、秋斗は興味深そうな顔をした。そしてグラスのシャンパンを口に運ぶ。そんな彼に勲が悪戯っぽい笑みを浮かべながらこんなことを尋ねた。
「秋斗君は、友達と飲み会、今は合コンっていうのかな、そういうのは行ったりするのかい?」
「まあ、何度か」
「おや。じゃあ、女の子と連絡先を交換したり?」
「いやほとんど無いですね。男だけの飲み会の時に、ユリのことをちょっと話しちゃって。年上の音大生の知り合いがいる、みたいな。そしたら合コンの時に話すんですよ、それを、友達が。それで女の子がなんか引いちゃうのかなぁ」
「おやおや。でも手強く感じてしまうのかな、女の子の側にしてみたら」
「全然付き合ってもいないんですけどね、ユリとは。飯一緒に食べるって言ったってラーメンだし。何なんですかね、ライバル減らそうとしてんのかな」
そう言って秋斗が首をかしげると、勲は可笑しそうに笑った。秋斗もつられて笑い、それから話題を変えて勲にこう尋ねる。
「ところで、ゲートの攻略って実際どうなっているのか、勲さん何か知ってますか?」
「そっちは自衛隊がやっているからねぇ。私も詳しいことは。ただ知り合いは、場所によっては面倒なことになる、と心配していたね」
「と言うと?」
「例えば私有地で、所有者と連絡が取れないと、封鎖も攻略もできないということになりかねない。無人島や山奥だとスタンピードが起こるまで気付かないなんてこともありそうだし、まあ悪い方へ考えれば色々あるよ」
「大変ですね」
秋斗は他人事のようにそう言った。勲はそれを見て苦笑する。「やれやれ」と言いたげな顔をしながら、彼は静かにグラスを傾けるのだった。
秋斗(探られてんなぁ)
シキ(そりゃ、気になるだろうよ)




