不眠
夏休みが終わろうとしている。小・中・高校の夏休みではない。大学の夏休みだ。つまり今は九月の末である。昼間はまだ暑いが、夜風はずいぶん涼しくなった。夏の盛りに比べれば過ごしやすくなった秋の夜、しかし秋斗は眠れない夜を過ごしていた。
枕元においた時計を見ると、午前二時を回っている。寝ようと思って横になってから、すでに三時間弱だ。寝なければと思うほど眠気が遠ざかっていくようで、秋斗は横になりながら「はあ」とため息を吐いた。
こうして眠れない夜を過ごすのは、初めてではない。ただこうして度々悩まされるようになったのは最近だ。つまりアリスの協力を取り付けてから、アナザーワールドからリアルワールドへ魔素を逃がすための迂回路を塞ごうとしないことを明言した頃からである。
(あの選択は……)
あの選択は、果たして正しかったのか。眠れない夜はそんなことばかり考える。正しかった、はずなのだ。アリスと戦って勝てたとは思わないし、仮に勝てたとしてもそれですぐに次元の坑を塞げるわけではない。
まずは坑を探さないといけないし、見つけたとして空中にあるなどの場合はなかなか手が出せない。不確定要素は他にもたくさんある。そういうことを考え合わせれば、アリスの協力を取り付けたことはベストではないとしてもベターな選択ではあったはずだ。
(でも……)
そう、「でも」。秋斗は考えてしまうのだ。別の選択をしていれば、今の状況は違っていたかも知れないし、犠牲も少なくて済んだかも知れない、と。
ダークネス・カーテン(最近ではD.Cと約されることが多い)による影響は、拡大の一途をたどっている。これは世界規模での話になるが、最近ではD.Cが発生していない時間のほうが短くなった。このためにモンスターによる被害もさることながら、特に物流への影響が大きく出ている。
そして物流に影響が出れば、そこから連鎖的に方々へ影響が及ぶ。グローバルなサプライチェーンの問題といえば分かりやすいか。つまり部品を持ってこられなくなり、そのために工業製品の生産量が低下している。
より深刻なのは農業製品かもしれない。世界の国々の食料自給率には大きな差がある。要するに食料を輸入に頼る割合が大きな国が結構あるのだ。そのため物流が滞ることで食料はあるのに食糧危機に面する、という事態が起こっている。
そしてそれは、当然ながら日本も例外ではない。スーパーへ行けば食料品は軒並み値上がりしている。空の棚も目立つようになった。「原材料が入ってこないので工場の稼働を止めざるを得ない」というニュースもよく耳にする。生活は間違いなく、そして急速に苦しくなっている。そして今のところそれが好転する兆しはない。
モンスターによる被害だけではない。ダークネス・カーテンそのものが、いわば日本社会の首をギリギリと締め上げているかのようである。そして日本社会はもがいてももがいても、その手を振り払えずにいる。秋斗にはそんな風に思えるのだ。
もちろん、その全てが秋斗の責任であるはずがない。しかし彼が責任を感じてしまうのも無理からぬことであろう。彼が誰よりも事の真相に近い位置にいることは、紛れもない事実なのだから。そしてその立ち位置こそが、ある意味で彼を追い立てている。
(早く……!)
早く何か手を打たなければならない。だが今のところ、有効な手立ては立てられていない。方向性さえ定まらないまま、大学二年生の夏休みが終わろうとしている。そして無為に過ぎていくように思える時間が、また彼を焦らせるのだ。
秋斗は今回の件を勲や百合子には相談していない。相談するには事が大きすぎると思ったのだ。ただしそれは「相談しても役に立たない」という意味ではない。「相談したら意見が割れるのではないか」と危惧しているのだ。
特に勲は「今からでもアリスを討つべし」と主張するのではないか。秋斗はそう思っている。だが秋斗はすでにアリスと契約を交わしたのだ。今更それを違えることはできない。というか、勲と二人がかりでもアリスには勝てる気がしない。
(それに……)
それにアナザーワールドの専門家としても、アリスは唯一無二の存在だ。ある意味では秋斗よりも勲よりも百合子よりも、失ってはいけない存在である。
思い出すのは、アリスがリアルワールドに来たときのこと。秋斗にとっては全くの不意打ちだったが、それでも彼女がこちら側へ来たことには大きな意味があった。カスタードクリームのフルーツタルトを平らげた後、やおらアリスはこんなことを語り始めたのだ。
『アキトよ。お主が言っておった、例の件じゃが』
『どの件だ?』
『ほれ、ダークネス・カーテンが通過した地域では軒並み気温が下がったとかなんとか』
『ああ、アレね』
『うむ。アレじゃが、どうやら本当に魔素が原因のようじゃぞ』
『え……。それって、日光が遮られてとか、そういう話じゃなくて……?』
『そうじゃ。軽く探っただけじゃが、こちらの世界に来た魔素はエネルギー量が減衰しておるようじゃの。どうもそれを大気中の熱エネルギーで補っておる感じじゃな』
『そいつはまた……』
秋斗は険しい顔をしながらそう呟いた。アリスの言うことが本当なら、魔素は地球を冷却していることになる。地球温暖化が叫ばれるようになってから久しいが、ダークネス・カーテンはその解決策になるかも知れない。もっとも、いきすぎて地球がアイスボールになる未来まで見えているが。
『どうすればいい?』と聞きかけて、秋斗は口をつぐんだ。根本的な解決策は一つ、つまり次元の坑を塞ぐしかない。だがそれはしないと秋斗はアリスに誓っている。それで彼は代わりにこう尋ねた。
『つまり、どういう事なんだ?』
『言ったとおりの意味じゃが……。でもそうじゃな、アナザーワールドとリアルワールドを繋ぐ、便宜上「次元回廊」とでも呼ぶかの、魔素はそこを通って来るワケじゃが、そこには魔素を消耗させる抵抗のようなモノがあるのかもしれぬの。いや、そもそもそういう環境なのかもしれぬが』
『分かるような分かんないような……。仮にだけどさ、その次元回廊の中で魔素のエネルギー量が完全にゼロになったら、それは魔素が無害化したってことになるのかな?』
『どうじゃろうなぁ……。いや、仮にエネルギー量がゼロになったとしても、魔素が流れ込んでくることには変わりない。そしてコッチで大気中の熱エネルギーを吸収しておるらしいからの。ということは吸収される熱の量が増えるわけで、地球の冷却化が加速することになるのではないかの?』
『アイスボール一直線か……。ソイツはヤバいな。っていうか一つ疑問なんだけどさ、魔素に大気中の熱を吸収する性質があるなら、なんでアナザーワールドはアイスボールになってないんだ?』
『ふむ。恐らくじゃが、流れ込んでくる際のエネルギーの減衰量が無視できるほど小さいのじゃろう。次元回廊が短いか、ほとんどないのかも知れぬ』
『そっか。じゃあ、アナザーワールドにはダークネス・カーテンもないのか?』
『厳密に同じモノは観測されておらぬ。じゃが似たようなモノならばある』
ほれ、と言ってアリスは秋斗にとある画像を見せた。どこかの空だろうか、そこでは黒い風が吹き荒れている。魔素だろう。しかもそれだけではない。空間の歪みのようなモノさえ見える。
『CG?』
『そんなはずなかろう。加工など一切しておらぬ。我がこの目で確認したモノじゃ』
アリスがそう断言するのを聞いて、秋斗は眉間にシワを寄せた。自然に空間が歪むなど、ただ事ではない。間違いなく魔素の影響なのだろうが、こんな影響が出るのであれば本当に魔素だけで世界が滅びてしまってもおかしくはない。
ただ画像を見て秋斗は違和感も覚えた。ダークネス・カーテンよりも魔素の量が少ないように思えたのだ。D.Cの中は真っ暗だったという。しかしこの画像は真っ暗というほどではない。そのことを指摘すると、アリスは苦笑しながらこう説明した。
『以前にも話したが、そもそもアナザーワールドに大量の魔素が流入するようになったのは、次元抗掘削計画が発端。つまり次元の坑が空いているわけじゃ。そしてそこには誰も近づけぬ』
『近づけない? アリスもか?』
『うむ。空間の歪みが酷くての。近づこうとすると弾かれる。漁った資料によると、ブレイク・フォールなどと呼ばれておったわ。世界が崩壊していく大穴、と言ったところかの。そして近づけるギリギリのラインのことはエンド・ラインと呼ばれておった。こちらはさしずめ世界が終わる境界線じゃな。先ほどの画像はそのエンド・ライン付近で撮ったものじゃ』
ブレイク・フォールにエンド・ライン。予想はしていたが、アナザーワールドはリアルワールドよりもはるかに異界化しているようだ。ただ秋斗が知るアナザーワールドは、何というかもっと穏やかな気がする。
いやモンスターがひっきりなしに出現するのだから「穏やか」というのは誤解を招く表現だろう。ただ、言うほど地獄じみているわけではない。それが秋斗の主観だ。そのことを言うと、アリスはこう答えた。
『アナザーワールドはアレでもう安定しておるのじゃ。もちろん人間が暮らしていくのに適した環境ではない。だが急激な変化が起こる時期はもう過ぎておる。そういう意味での安定をお主は「穏やか」と感じたのじゃろう』
なるほど、と秋斗は思った。ただ逆を言えば、このまま魔素が増え続ければリアルワールドでも「急激な変化」が起こるということである。そしてそれは単なるモンスターの出現以上のものであるに違いない。
リアルワールドはその変化に耐えられるだろうか。秋斗は「無理だな」と心の中で呟いた。魔素という存在がはるかに身近だったアナザーワールドでさえ、対応できずに現在のような状況に至ったのだ。瘴気(魔素)に全く無知なリアルワールドが対応できるとは思えない。
早く何か手を打たなければならない。分かりきっていることを、秋斗はまたもう一度強く認識した。しかし認識したからと言って良いアイディアを閃くわけではない。このときの話し合いも、有意義ではあったが成果と呼べるものはなく終わった。そして前述した通り方向性さえ定まらないまま、夏休みが終わろうとしている。
(眠れないなぁ)
横になりながら、秋斗はまた心の中でそうぼやいた。日が昇れば、安眠アイマスクを使うことができる。いざとなればアナザーワールドで好きなだけ寝ることもできる。おかげで眠れない夜が増えても寝不足にはなっていない。とはいえそれで彼のストレスが減っているわけでもない。
「はあ」
ため息を吐いてから、眠れないことを承知で秋斗は目をつぶった。まとまらない考えがグルグルと頭の中を巡る。そんな中で耳にこだまするのはアリスの言葉。
『あまり焦るな。アイスボールになどそうそうなるものではない。空間の歪みが出るのもずっと先じゃ。ざっと見積もっても50年は時間がある。それだけ時間があれば、魔道炉を普及させることもできるじゃろう。あまり一人で気負うな』
その言葉の半分くらいは気休めだろう。だが秋斗にとってはありがたい気休めだった。もしも「タイムリミットはあと一年」とか言われたら、秋斗は本当にハゲていたかもしれない。
ただ彼は忘れていたと言わなければならない。決断は突然に迫られるのだということを。
シキ「ヘキサ・シープが一匹、ヘキサ・シープが二匹……」
秋斗「ぐわ、体当たりされた!? 口の中に草がっ……!」




