19.思い込みはやめて!
迫りくる魔獣を見て、春子は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。逃げることは勿論、目を閉じることすら忘れてしまったのだ。
ただ、まっすぐと向かってくる虎のような魔獣の牙の鋭さだけが、目に付いた。
しかし。
ギャオン、という鳴き声と共に、その魔獣が何かに弾かれるようにして少し後退する。
「ハルコ嬢! こちらへ!!」
「っ!? ファルディンさん……」
呆然と魔獣を見ていると、不意に手を引かれた。そして春子の返事を待たずに魔獣とは反対方向へ走り出すのはファルディンだ。
フーディーと共に、街道に置いてきたのだが、追いかけて来てくれていたのだろう。
半ば引きずれられるように森の中を走っているうちに、ネジュとも合流していた。二人とも、とても険しい表情をしている。
少し距離を離せたが、決して安心できる状況ではないのだろう。
そんな時、後方でバリン、と何かが割れるような音が聞こえた。
「ちっ、もう結界を破られましたか……」
「あれ、上位魔獣だよね」
「ええ。貴方と私の二人だけでは、倒すのは無理でしょう」
「……分かった」
「っネジュさん!?」
走りながら会話をしていたネジュは、不意に足を止めた。
驚いて一緒に足を止めた春子に、ネジュは淡く微笑む。そしてファルディンに向かい、告げるのだった。
「僕が囮になる。その間に、春子さんを連れて逃げて」
「ネジュさん、何をっ!」
「ネジュ殿……」
「ほら、早く行って! 僕で足止め出来る時間なんて、少ししかないから。早くっ!!」
ネジュはいつも丸まっている背中を伸ばし、鋭く促す。覚悟を決めてしまったその顔には悲壮な色はなく、ただ必死さだけがあった。
そんなネジュの思いを汲んだファルディンも、春子を促すように手を引く。
「ハルコ嬢、早く」
「春子さん、お願いだよ。早く行って!」
二人の声は必死だ。後方から、早くも獣の唸り声が近付いて来ている。間違いなく、魔獣はこちらに迫っている。
このまま立ち止まっていては、3人とも魔獣の餌食になってしまう。
少しでも助かる確率を上げるにはネジュが囮になる、というのも一つの作戦だろう。
でも、こんなこと認められない。
ネジュを見捨てて、助かっても意味がない。
無理やり春子を連れて逃げようとするファルディンの手を振り払う。
「ハルコ嬢!?」
「春子さん……!?」
「そんなの、イヤ!!」
叫びながら、ネジュに抱きつく。そしてネジュ越しに、迫る魔獣を見た。
絶対に、置いて逃げない。
絶対に、一緒に助かる。
ただ、そんな思いだけだった。
あとはもう、がむしゃらだった。
魔獣に掌を向ける。そして何の加減をすることなく、ただひたすらに魔力を放出する。
「消えてぇぇ!!!!」
「っはるこ、さん!?」
「っ……!」
全身から掌へ魔力の奔流が沸き起こり、そしてそのまま純粋な魔力の塊が放たれた。
ただの魔力は属性などは持たない。純粋な、力の塊だ。
しかし春子が全力で放出した魔力の量は尋常ではない。
轟音を伴って掌から放たれた魔力は衝撃波となり、人の身を超える程巨大な魔獣を軽々と吹き飛ばしていた。さらに魔獣ごと周囲の木々もなぎ倒し、周囲の景色は一変することになる。
「なんと…………」
「春子さん……」
はるか後方に吹き飛ばした魔獣が起き上がる気配もないことに春子は唇の端を上げる。ちらりとファルディンを見れば、呆れたように肩を竦め、小さく頷く。
「粉微塵です。上位魔獣を一撃、ですか……」
「ふふ、やっつけた!」
「春子さん、無茶苦茶だよ……」
へにょり、と眉を下げるネジュに、春子は顔を顰めた。そして抱きついていた状態から、一発頭突きをお見舞いする。
「っい!?」
「ハルコ嬢!?」
「ネジュさん! あなたに無茶苦茶とか言われる謂れはないと思うの!」
身長差がありすぎるせいでネジュの顎に頭が当たり、春子としてもかなり痛い。
しかしそんな痛みにはめげず、ネジュの襟首に掴みかかる。そして長身の彼を引き寄せ、言い募る。
「囮って何!? なんで、そんなこと、すぐに考えるの!?」
「それは……。助かるためには、それが一番……」
「なんで!? 二人掛かりでも勝てない魔獣に、一人で囮になって、そんなに効果があると思ったの? どうして、そんな捨て身なの!?」
「それ、は……」
口を噤み、目を反らすネジュに、春子は唇を噛む。溢れそうになる涙を、必死で堪えた。
そして絞り出すように、問い掛ける。
「私が、ファルディンさんと一緒になるって思ったから……?」
「…………」
ネジュは肯定も否定もしない。でもこの沈黙は、肯定だろう。
春子は大きくため息を吐く。
ちゃんと伝えていなかった自分に、後悔が募る。そしてそれと共に、勝手に決めつけているネジュに、苛立った。
「ネジュさん、私はネジュさんが好き」
「うそ……」
「嘘じゃない、本当。私が好きなのは、ネジュさんなの」
はくはくと、口を開閉するネジュは首を左右に振る。そしてうわ言のように、否定の言葉を連ねるのだった。
「そんなわけ、ない。僕を好きだなんて、そんなの、ただの刷り込みだよ。僕なんかを、好きになるわけない」
「ネジュさん……」
「だって、僕なんて、ただの落ちこぼれだ。ファルディンとか、騎士の方が、何倍も良い相手だよ。そっちの方が、絶対に幸せになれる。それなのに、僕を好きになるなんて、あり得ないよ……」
ひたすらに自己を卑下し、ネジュは春子の言葉を信じようとしない。
今まで言葉にしたことはなかったが、祝福の結晶石が付いたペンダントを贈ったりもしたのだ。そんなに信じて貰えないとは思っていなかった。
折角、面と向かって好意を告げたのだ。
それなのに、ここまで否定されると、段々とイライラしてしまう。
ガシリ、とネジュの頬を両手で包み、迷子のように不安気な青灰色の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「でもでもだって、って煩い! 私は、ネジュさんが良いの! 刷り込みでも、何でも、あなたが私を見つけてくれて、だからここに居ようと思ったの!!」
「っ……」
言い募りながら、感情が高ぶり、涙が頬に零れるのを感じた。
「私の幸せを、勝手に決めつけないで。あなたの思い込みで、私の気持ちを否定しないで……!」
「春子さん…………」
溢れ続ける涙に、両手で顔を覆った春子をネジュがそっと抱きしめる。
「春子さん、ごめん。僕が、意気地なしなせいで、春子さんを、傷付けた。春子さんが僕を好きだなんて、信じられなくて……」
「信じてよ……」
「うん、そう、だよね。春子さんが、そんな嘘、言うわけないもんね」
顔を覆っている手を取り、涙を零し続ける春子の目元を拭う。そしてネジュは、目線を合わせるように身を屈ませた。
近い距離で見つめる青灰色の瞳には、まだ不安の色は残っている。しかし、それと同時にしっかりとした決意の色も見えていた。
「春子さん。本当なら、僕から言うべきなのに、言わせちゃって、ごめん。沢山泣かせちゃって、ごめん。すごく、嬉しい」
「うぅぅぅ~……」
ほにゃり、と笑うネジュの顔はとても幸せそうだ。思わず、また涙が溢れ出した。
ボロボロと涙を流す春子に、ネジュは困った様に笑う。
「春子さん、僕も、春子さんのことが好き。僕と、この先もずっと一緒に居てくれませんか?」
「ネジュさん……!」
何度も頷き、ネジュの胸へと飛び込む。
もう、言葉にすることも出来なかった。ただひたすら、ギュッとネジュへと抱き着く。ネジュも、優しく抱き返してくれる。
そうしてしばらく抱き合っていると、少し離れた場所からやる気のない拍手を送られた。
「っ!?」
「……ファルディン。まだ居たんだ……」
「一応、周囲を警戒していたのに、その言い草とはひどいですね」
肩を竦めたファルディンは、少し呆れた様子でありながらも、満足そうに笑っている。
今のやり取りを聞かれていたと思うと恥ずかしくて仕方ない。顔が真っ赤になっているのを感じながら、そっとネジュから離れる。
「その、ファルディンさん……」
「無事、まとまった様で良かったです。おめでとうございます」
「う……。ありがとうございます」
にこやかに祝われるが、なんだか素直に受け取り難い。少し眉間に皺を寄せてファルディンを見上げれば、にっこりと笑い返される。
その笑顔はとても美しいのだが、何故だか黒いものを感じ、背筋が寒くなった。思わずネジュと二人、身を寄せ合ってしまう。
「さて、お二人とも。ここから一つ、楽しい計画にご協力頂きましょうか」




