6 胸の痛み
いつしか街では、クラシカルなドレスを着た美女が教会にやって来ると噂になっていた。毎日欠かすことなく熱心に祈る様子に、密かに彼女を聖女と呼ぶ人もいた。
亜麻色の髪を美しく結い上げ、姿勢を崩すことなく颯爽と歩く姿を一目見るために早朝から出勤する人が増え、パン屋が開店を早めたという。
そんな噂も知らずに、シャルロタは今朝も教会へ通い、いつものルートを通って帰宅した。そして、のんびりと起きるレーモとフローリアと一緒に朝食をとる。食後は涼しい庭を散歩する。
なんて平和な日々だろう。シャルロタは思う。
もしかしたら自分はすでに戦場で死んでいて、ここは天国なのかもしれない。だったら、先に死んだ同僚も、父も母も兄も、そして殺した敵さえもここにいるのではないのだろうか。
もし彼らが目の前に現れたとき、自分は何と声をかけるだろう。
二本の大木に隠れるようにして立っている、小さな木の枝にシャルロタは手を伸ばした。そこには葉の陰に小さな青い実が生っていた。誰にも見つからないように、そっと静かに息をひそめて生るこの実をむしってしまえば、このぬるい夢も覚めるのではないか。
すると、いつの間にか背後に迫っていた大きな影から、ぬっと手が伸びてきて、シャルロタの手を掴んだ。
「その実はまだ採るには早いですよ。もっと赤くなってからじゃないと、ものすごく酸っぱいです」
ハッとして振り向けば、そこには普段着姿のレオポルドが立っていた。考え事をしていたとはいえ、こんなにも近付かれても気付かなかったとは。
「ふう……戦場であれば殺されていたところであった……」
「ん? んん?」
生け垣のドアから勝手に入って来たのであろうレオポルドは、慣れた様子で庭を見回した。気まずそうにそっと目を逸らしたその顔は、よく見れば少しだけ赤らんでいる。
「俺、今日も夜勤明けで……シャルロタ様いるかなーって思って教会に行ったら帰った後だったんです。その、一緒に帰れたらいいなって思ったんですけど、遅かったようです」
「そうであったか。あの時間はなかなか人が多くてな。貴殿を見つけることは叶わなかった」
「ああ……最近、やけに人が多くなったんですよ。あの時間」
レオポルドは左手を背に隠したまま、せわしなく体を揺らしている。何だろう、とシャルロタが覗き込むも、体を逸らされてなかなか見せてもらえない。
「うちの母が連日押しかけているそうで、すみません」
「ああ。かまわぬ。むしろ、それがしが義母上とトスカ殿の邪魔をしているようなものだ。そうだ、貴殿は衛兵ではなく、騎士団所属だったのだな。無礼を詫びる」
「いえいえ、俺は第三騎士団所属ですので、衛兵みたいなものです。近衛騎士が王族の護衛、第一騎士団と第二騎士団は国の守備、第三騎士団は王都の警備担当なんです。いわゆる、おまわりさんってやつです」
「おまわりさん?」
「あれ? 帝国ではおまわりさんって言わないのかな。まあ、街の破落戸をやっつけたり、市民の喧嘩を仲裁したり」
「うむ、力だけでは解決しなさそうな、難儀な任務のようだ」
「えっ、俺の仕事に超理解示してくれてる……どうしよう、嬉しい……」
右手でぎゅうと左胸を押さえるレオポルドに、シャルロタが心配そうに眉を寄せた。
親子そろって心臓に病を抱えているというのに、二人ともなんと朗らかな人柄なのだろう。
シャルロタが密かに感心してうなずいていると、レオポルドがおそるおそる隠していた左手を前に持って来た。その手には、色とりどりの可愛らしい花束があった。
「あの、シャルロタ様にこれをお渡ししたくって、その、俺っ」
「ああ、かたじけない。そろそろ玄関の花瓶の花を替えようと思っていたところだったのだ。花壇の花がまだ咲いておらず、困じておった」
そう言って、花束を受け取ったシャルロタは自然な仕草で花束に顔を寄せ、その香りを嗅いだ。シャルロタの長いまつ毛に見とれていたら、レオポルドはこの後何を言おうと思っていたのかすっかりと忘れてしまった。
「ええと、その、また、もし時間が合えば、教会から一緒に帰ってもいいでしょうか」
レオポルドのしどろもどろな様子にパチリと瞬いたシャルロタは、花束に顔をうずめたまま優雅に目を細めた。
「無論」
「っ……、あ、ありがとうございますっ」
「そうだった、貴殿は夜勤明けであったか。引き止めて悪かった」
「あの、俺の事は、レオポルドって呼んでください。なんならもっと気軽に、レオぽんでも」
「レオぽん?」
「ぐはあっ……可愛っ……やばっ、俺死んじゃう、死んじゃうっ。あだ名呼びの破壊力すげえ……。やっぱりその、レオぽんはもっと俺の心の準備ができてからで」
レオポルドはどしどしと左胸を叩いている。弱い心臓をそんなに強く叩いて平気なのか。シャルロタは首を傾げた。
「うむ。では、レオポルド殿。それがしも、様、などいらぬ。シャルロタ、と呼ぶがよい」
「そ、そんなっ、いきなり恋人呼びは、俺の心臓が持ちませんっ! はぁぁ……、たまらん。じゃあ、その、それはおいおい、いつか呼ぶ関係になるとして、シャルロタさんて呼びますね」
早口で何を言っているのかよく理解できなかったが、とりあえず頷いたシャルロタに、満足そうに手を振ってレオポルドは自宅へ戻って行った。
花束を抱え屋敷に戻ると、いつも部屋のどこかには必ずいるメイドが一人もいなかった。勝手に花瓶の花を替えても良いものか。使用人の仕事を奪わないことも貴族の務めなのだそうだ。迷ったシャルロタは花束を抱え屋敷を練り歩くことにした。
うろうろと彷徨っているうちに、荷下ろしをする為の勝手口の方から幾人かの話し声が聞こえてきたのでそちらへ足を向けた。
「ええ、ええ、そうなんです。やっとこさ王都へたどり着くことができましてね、俺もこれを売ってからでないと。村には飢えたばあちゃんと病気の妻がいて、まだ小さな子供が日照りで乾いた畑に水を撒くために川まで……っ、うおっ、せ、聖女!?」
勝手口でぺこぺこと頭を下げる汚い身なりの男が、シャルロタに気付いて飛び上がった。そこには執事と料理長、そしてフローリアがいて、皆きょとんとした表情でその男を見ていた。
「客人か、義母上」
「国境辺りの村からいらしたりんご農家の方なんですって。今年は日照りであまり良いりんごが採れなかったから売れなくて困っているそうよ」
「え、ええ……。あの、できれば、買ってもらえれば……嬉しいなって」
シャルロタの姿を見てから急に大人しくなった男は、そろそろとりんごの入った木箱をしまい始めた。山盛りになっているりんごは色も悪く、傷付いたものばかりだった。
シャルロタは小脇に花束を抱えたまま、じっと男を見つめた。木箱へ伸ばした手を引っ込めたり伸ばしたり、男はちらちらとシャルロタの顔色を窺っているが、当のシャルロタはただ黙ってその様子を見つめていた。
「え、ええっと、あ、俺、ちょっとこの後用事が……ひぃぃっ」
ただただ男を見つめているだけなのに、シャルロタの背後からはどす黒いオーラがゴゴゴと噴出しているように見える。勝手口付近は異様な緊迫感に包まれ、誰一人として口を開くことができなかった。りんご売りの男はすでに涙目である。
「うむ。適正価格でなら買おう」
「っふぁ~~ぅありがとうございますぅぅぅ~~」
正規の代金を受け取った男は逃げるようにして屋敷を飛び出して行った。料理長が箱のりんごをひとつひとつ検分する。
「見た目が悪いものはジャムにしましょう」
「あら。たくさんできたらご近所にもおすそ分けしましょうね」
先ほどの不審なやり取りなどなかったかのように、料理長とフローリアがのん気に会話を始めた。執事がすすっと音もなくシャルロタに近寄って来る。
「お嬢様、ありがとうございます。追い返そうにもなかなかしつこく……ご覧の通り奥様が奴にいたく同情してしまいまして、困っていたところでした」
「なあに、かまわぬ。今朝、あの男が教会の前でりんごを売っておったのを覚えていただけのことよ。そこでは、孤児院の子供たちが一生懸命収穫したりんごだ、と言って、寄付金を含めた価格でさばいておった。それでもここで提示した金額の半額であったがな」
「そうでございましたか」
シャルロタは花束を抱え直すと玄関の方へ視線を向けた。
「しかし、大量のりんごを運んでいたところを見ると、あの男もどうしても売らねばならぬ理由があるのであろう。さて、この花束を隣家のレオポルド殿から託された。玄関に飾ろうと思うのだが。それがしが勝手に花瓶を触っても良いものか、それを確認しに参った」
「もちろんです。しかし、お手が汚れますのでメイドにお申し付けください」
「ふむ。それがしはかまわぬのだが、そうしろと言うのならば従おう」
ニコニコと笑顔になった執事に連れられ、シャルロタは玄関に向かった。
皆さんもどうぞ、レオぽん、って呼んであげてくださいね。




