エピローグ
シャルロタをアニェーザの元へ送り届け、レオポルドは仕事に戻って行った。涙目のアニェーザにたんまり怒られ、シャルロタは深く、深く反省をした。
その後、エズメラルダは教会のバザーを見学し、孤児院の子供たちと鬼ごっこをしてから帰って行った。その間、近衛騎士たちはあちらこちらと振り回されていた。それでも彼らは嫌な顔一つせずに、ちい姫の視察が滞りなく進むよう気を配っていた。
教会の門の向こうでは、貧民街の住民が並んで中の様子を窺っていた。皆が落ち着いているのは、第三騎士団がしっかりと見守っているからだ。
何て平和な国だろう。
シャルロタは心からそう思った。
日傘を少しずらすと、いつの間にか空は灰色の雲に覆われていた。日傘など必要ないように思われたが、アニェーザに言わせればこういう時こそ日に焼けるそうなのだ。なるべくアニェーザの言うことは聞くようにしているシャルロタは、小さなため息を吐いてから日傘の影にしっかり隠れ、早朝の教会へ向かった。
「お嬢さん、おはよう」
まだ開店前の店の軒先にしゃがんだ二人の男がこちらを見ていた。くたびれたシャツにヨレヨレのズボン。汚れた靴。以前、パン屋に寄った帰りに絡んで来た破落戸だ。
「うむ。おはよう」
今はまだほとんど人通りも少ない早朝である。二人は眠そうにあくびをすると、ゆっくりと立ち上がりポケットに手を入れた。
「貴殿ら、仕事帰りか? 大儀である」
「おお、そうよ。俺らもたまには仕事してんだよ。夜中の荷積み作業でよお、これから家帰って寝るんだ」
「寝る前にきれいなお嬢さんの顔見れて、いい夢見れそうだよ」
そう言って、二人は笑った。目をこする手は爪まで真っ黒になっていて、一生懸命働いてきたのだろう。
学の無いものは、こういった力仕事が主になる。しかし、その仕事も毎日必ずあるわけではないそうだ。そう、レオポルドが言っていた。だから、彼らはお金がなくなるとすぐに犯罪に走ってしまう。
「ああ、そう言えば」
シャルロタは日傘をくるりとまわし、彼らに正面から向き合った。
「貧民街に、学校を作ることになった」
「はあ!?」
シャルロタの言葉に、男たちが顔を歪める。
「貧民街の子供らに簡単な読み書き計算を教えるのだ」
「誰もいかねーよ、そんなとこ」
男が吐き捨てるようにそう言うと、シャルロタは笑った。
「うむ。そう言うと思ってな、学校へ来たら朝食が出る。これは、子供を連れてきた親も食べて良い。学校が終わったら昼食が出る。もちろん、迎えに来た親の分もある。どうだ?」
「へえ。ガキ連れてくだけで飯にありつけるなら、行くかもな」
「そうであろう。まずはとにかく学校へ連れて来てほしいのだ。基本的な読み書き計算ができれば、将来の職の選択肢が少し増えるであろう」
「学校って金かかるだろ。国が出すのかよ」
「いや。貴族の寄付だ。後見にはエズメラルダ姫がついた。後々は王太子が引き継ぐ予定である」
貧民街に学校を作る案は、シャルロタが提案した。トビアーシュの娘の話を聞いて思いついたのだ。後見が王族であれば、貴族の寄付も集まりやすい。
「へえ……俺はもう無理だけど、もし……未来があるのなら、今付き合ってる女に子供産ませるのもいいな……」
男がそうつぶやくと、その隣で「えっ、お前、彼女いるの!?」ともう一人の男があせりだした。シャルロタはわあわあと言い合いを始めた二人を少しの間眺めていたが、曇り空を思い出して日傘を少し上げた。
「まあ、まだ先の話だ。姫もお忙しいようだしな。それがしはもう行くぞ。しからば、ごめん」
「おう、雨降りそうだから早めに帰れよ、お嬢さん」
気安く手を振って男たちは去って行った。
見上げれば、先ほどよりも雲の色が濃くなっている。本当に早めに帰ったほうがいいかもしれない。シャルロタは足早に教会へ向かった。
この教会の礼拝室は二十四時間いつでも出入りすることができる。しかし、こんな早朝に来るものはいない。一人静かに祈るこの時間が、シャルロタは好きだった。
中ほどの長椅子の真ん中に腰掛け、胸の前で指を組み祈りを捧げる。
倒した敵のこと。どうか彼らの家族や友人は健やかに暮らしていますように。
死んだ同僚のこと。一緒に鍛錬したこと。厳しい戦場の中で見つけた涼やかな草原と美しい湖で休憩した事。
早くに亡くなった母。眺めの良い場所に葬られた父と兄。二人は最期まで主を守るために戦った。
生き延びた友たちは、武器を置き新しい人生を歩み始めた。
そして、もうその名を無くした故郷。新しい皇帝を迎え、もっと良い国になっていくだろう。
シャルロタもまた、遠く離れたこの平和な国でたくさんの出会いを得た。
きっと、これからもまだまだ命は続いてゆく。
そっと目を開ければ、目の前には大きな女神像がシャルロタを見下ろしていた。しんと静まり返った礼拝室にはシャルロタのドレスの衣擦れの音しかしない。耳を澄ませば心臓の音さえも聞こえてしまいそうだ。
「楽しい記憶の中で生きてゆけばよい」
誰に聞かせるわけでもなく、そうつぶやいてシャルロタは立ち上がった。もし足りないのならば、これからたくさん思い出を作ってゆけばよいのだ。
礼拝室を出ると、かすかに緑の匂いが濃くなった。開いたままの廊下の窓から、雨が入ってきてしまっている。窓を閉め、近くに置いてあったモップで濡れた床を拭いた。
窓から外をのぞけば細かい雨が降っていた。これくらいの雨、以前なら走って帰るところだったが、そんなことをしたらまたアニェーザが怒るだろう。
教会の軒先で雨宿りさせてもらおう。そう思った時、固い靴の足音がこちらに近付いて来た。
「シャルロタさん!」
そんな気はしていたが、やっぱりレオポルドだ。いつもの満面の笑みで駆けて来る彼の騎士服は雨に濡れ、巻き毛も少しだけしっとりとしている。
「レオポルド殿」
シャルロタが笑顔を見せると、レオポルドはすかさずその手を取りさっと口付けた。レオポルドの顔も雨に濡れているため、シャルロタの指先がべちゃっと濡れた。
今度こそそれがしの手で顔についた水滴を拭ったのかもしれぬ。いや、しかし、彼がそんな不躾なことするだろうか。
顔をしかめたシャルロタがハンカチを取り出そうとおそるおそるポケットに手を入れると、あわててレオポルドがその手を止めた。
「今のは挨拶のキスだから! 拭いたんじゃないです」
「うぬぅ。やはりそっちか」
レオポルドはそのままシャルロタの手を引っ張って礼拝室に入った。
「シャルロタさんが出てくるの待ってたんです。雨が強くなってきたので、もう少し雨宿りさせてもらってから帰りましょう」
「外で待っていたのか。入ればよいものを」
「いえ。邪魔しちゃ悪いんで」
入ってすぐの長椅子に並んで腰かけた二人は、雨が音をたててぶつかる窓に視線を奪われた。
しとしとと降る雨はしばらく止む様子もなく、窓に張り付いた雨のしずくが流れて落ちるのを二人は黙って見ていた。
「あの、シャルロタさん」
雨音の間隙を縫うように、レオポルドがこちらを見ないままに名前を呼ぶ。
「うむ」
「俺ずっと謝ろうと思っていて……勝手に、シャルロタさんと、その、結婚とかっ、早とちりしちゃって。母と妹に怒られました」
「うむ。いや、それは……それで、良いのだ」
くるっと振り返ったレオポルドは、申し訳なさそうな顔をして上目遣いにシャルロタを見た。それが何だか叱られた子供の様で、思わず笑ってしまう。すると、レオポルドも嬉しそうに笑う。
「シャルロタさんが笑ってくれると嬉しいです」
へへへ、と照れ笑いしたレオポルドは、足を組んで腕を振り上げ大きく伸びをした。きっと今日も夜勤明けなのだろう。彼の前髪からぽつりとしたたる水滴の清々しさに、心が切なく震え、シャルロタはその光景を目に焼き付けた。
「実は、昨日やっと合格点をもらうことができたのだ」
「ん? 何のですか?」
「令嬢言葉だ」
レオポルドが目を大きく見開いて固まった。シャルロタは拳を口元にあて、こほん、と一つ咳ばらいをした。
「普段の言葉を頭の中で令嬢言葉に変換することはわりとすぐに習得することができた。しかし、なかなか声の出し方がうまくいかなかったのだ」
真面目なシャルロタは何度も繰り返して小説を読み、いわゆる貴族令嬢の話し言葉をしっかりと暗記した。しかし、どうにも発音だけがうまくいかない。長年、腹から低い声を出して話していたシャルロタには、女性特有の鼻に抜けるような柔らかい声を出すことがどうしてもできなかった。
アニェーザとアマンダの厳しい指導により、やっとコツを掴み、女性らしい声を出せるようになったのだ。
「だから、まず一番初めに、貴殿に聞いてもらいたいと思っている」
「え! 俺?」
「うむ」
「いいんですか? 俺で!」
レオポルドが嬉しそうにくるりと体を横に向け、シャルロタに正面から向き合った。
「まず最初はアマンダ殿からおススメいただいた小説の一節にしようぞ。アマンダ殿が、これを言えば貴殿がとても喜ぶに違いない、と言っていたのでな。始めはどうかと思ったが、今ではそれがしもこれが一番良いと判断した」
「へえ。何だろう、俺が喜ぶ言葉って」
「心して聞くがよい」
シャルロタも体を横に向け、レオポルドと向かい合う。しばらく見つめ合った後、シャルロタはにっと口元をほころばせた。
「レオポルド殿」
「うわっ」
シャルロタが猛特訓の末獲得したまろやかな声は、普段よりも少し高めでまさに見た目通り可憐で艶のあるものだった。思わずのけぞったレオポルドに顔を近付けるように椅子に手をついたシャルロタは、ぱちりと大きな瞳を瞬かせた。
「レオポルド殿、わたくし、あなた様をお慕いしております」
「…………えっ?」
見開いた目をさらに大きくさせたレオポルドの動きが止まったと思ったら、みるみるその顔が真っ赤になった。
「え? え? ちょっ、あのっ」
「うぬ? 聞こえなかったか?」
普段の口調に戻ったものの、すぐに切り替えたシャルロタはさらにレオポルドの耳元に口を寄せて言った。
「レオポルド殿、わたくし、あなた様を、お慕いしております」
「う、わあああああ! きっ、聞こえてますぅぅぅ。ちょっと待って、いきなりそんなこと言われたら、死んじゃう! 俺っ、死んじゃうっ!!」
ゆっくりと、はっきりと。言い聞かすように伝えたシャルロタは満足そうに姿勢を正し、胸を押さえてもだえるレオポルドの様子を、わずかに首を傾げてしばらく眺めていた。
「そうだわ。アマンダ様にこれも教えていただいたのです。レオポルド様。……うぬ? ……違うな、……こほん、……レオポルド様♡」
「わーーーー!! 待って、待って、何それ! 俺を殺す気!?」
真っ赤な顔で胸を押さえ、椅子からずり落ちんばかりのレオポルドを、シャルロタは優しい微笑みを浮かべてじっと見下ろした。
「そんなに喜んでいただけて、わたくしも嬉しいです」
「シャルロタさん……か、可愛い……可愛すぎ」
「れおぽん♡」
「うわーーーー!! ころっ、殺されっ……!! アマンダ、あいつっ、何を教えてやがるっ」
「れーおぽん♡」
「ほ、本気だ……本気で俺を殺す気だ……でも、嬉しい……幸せすぎて死んでもいいけど死にたくない……」
口元を手で押さえたレオポルドはもうシャルロタから目を離すことはできない。調子に乗ったシャルロタが不用意に身を寄せる。
「れおぽん♡♡」
「うわああああ」
雨はさらに強くなっていた。廊下の窓を閉めに来た神父がレオポルドの叫び声に気が付いて礼拝室をのぞいたものの、すぐにそっと身を引いた。そして、静かに扉を閉めると、ゆっくりとその場を離れて行った。
礼拝堂の短くなったろうそくの火先が揺れる中、シャルロタとレオポルドの影が一つになるのを女神像だけが密やかに見つめていた。
良かったね、レオぽん!
最後までお付き合いいただきありがとうございました!!




