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1話・雲泥


 地平線まで見渡す限りの緑。穂を付ける前の稲が青々と広がる。

 風が葉を揺らし、さざ波を立てる。空には雲ひとつなく、太陽光が降り注いでいた。

 約五十万平方メートルという広大な田んぼの中を、管理用アンドロイドが歩いていく。

 顔やスタイルが少々整いすぎているくらいで、彼の見た目は人間と見分けが付かない。ゴム製の作業着と長靴を涼しい顔で着て汗一つかいていない点が奇妙なくらいであった。

 彼は、その眼球に搭載されたカメラとセンサーで地平線までを見通した。

 人の視力では不可能な距離であっても、地平線の先にある稲の様子ですら、彼にとっては難なく認識できる範囲であった。

 距離や風向が数値化され、彼の視界の隅に小さく並ぶ。

 故に、それが視えた。

 田んぼの中に何かいる。

 シルエットと一般的な成人男性のサイズから人間かと思ったが、その姿は真っ白であった。

 遠目にも異様に浮かび上がるその色彩は、自然の景観からは著しく乖離している。

 農作物プラントへの侵入者かと彼は警戒を強める。

 不法侵入者の排除も彼の仕事であるからだ。

 だが、暫しの観察の結果、その白い人型が人間としてはやはり奇妙であると結論付けた。

 首を激しく振っている。

 その動きに合わせて全身も大きく揺さぶられていた。

 だがそれは、全身を使って首を振った結果というわけではない。

 四肢がてんでバラバラに動いている。

 言うなれば全身をクネクネと、のたうち回っているかのように。

 その関節の動きは奇妙だ。

 青空の下、一面の緑の中、その白い影は異質であり、生物であることすら疑わしい。

 正体を確かめようと彼は更に目を凝らす。

 眼球内カメラが自動的にピントを調整して、その白い存在を鮮明な姿に変える。

 衣類の一つも纏っておらず、体表が白いのだと気が付く。

 目が離せなくなってしまった。

 そして理解してしまった。

 それが何者であるのかを。


◇ ◇


 「田んぼの怪異?」

 絵馬はそう問い返す。彼女の好奇心をくすぐるには十分すぎる、魅力的なキーワードであった。

 その言葉を耳にした瞬間、彼女の瞳は普段の眠たげなものとは別物となって、途端に表情を明るく眼光を鋭くした。

 彼女は先ほどまで読み耽っていた本を放り出し、身の丈まで乱雑に積み上げられた本の山へと飛び込んで崩しはじめる。

 その興味は田んぼの怪異へと移り変わり、それに関連しそうな本を手当たり次第に探しだしたのだ。

 部屋中に散乱する紙の束や背表紙の剥がれかけた古書は、部屋の中に何層もの壁を作り出していた。

 絵馬の部屋はまさに迷宮と呼ぶに相応しい。

 整頓の気配は一片もなく、ただ衝動のままに積み重なった紙と本の塔は、足を踏み入れることも躊躇う崩落必至の迷宮と言える。

 衝動性に突き動かされた探索法で目当ての物はいつ見つかるのやら。

 絵馬は様々な物を放り投げては山を切り崩し、新たな迷路を形成していく。

 埃は宙を舞い、締め切ったカーテンの隙間から漏れた太陽の光を受けて白く光る。

 度々、絵馬の頭が本の山から覗く様子は、まるで巣の中で動き回る毛玉の様だった。

 絵馬の低い背丈と小柄な体格、それを覆い隠さんばかりの長く癖のある栗毛と髪に埋もれた丸顔。

 それらの要素が小動物的な印象を強めていた。

 そんな見飽きた光景を前に、マノノは溜め息を吐いた。

 マノノの姿は絵馬と対照的である。

 高い背丈に端正すぎる顔立ち、短い黒髪。そして丈の長いモノトーンのメイド服に身を包んでいる。絵馬に命じられるまま、それを仕事着としていた。

「詳細を続けて、マノノ」

「稲作を行っているプラント内で農作物管理用のアンドロイドが相次いで失踪。職員がその異常を確認するために派遣されたところ、奇妙な白い人影を見たとのことです」

 失踪、と訝しむ絵馬に対してマノノは依頼元からログのデータを見せる。

 マノノの手には小型の情報端末があり、それが何もない空間に画像を投影する。アンドロイドの行動ログデータが宙に浮かんでいた。

 大戦中に一気に普及した空間投影技術は、今や一市民の端末に標準搭載されている程普及している。

 農業プラントでは多くのアンドロイドが農作物管理の為に稼働しており、彼らは一定周期でデータサーバーにログを送信している。

 マノノの表示したデータを一瞥して、絵馬はまた山を掘り進めた。

「そのアンドロイド達は共通して何かを発見したシグナルを出している、そしてその直後のログから異常値が出ているみたいだけどさ」

 絵馬はそこまで言ってから急に手を止めた。思いついた様子で言葉を口にする。

「それってさ、まるで見てはいけないものを見て、気が触れてしまったみたいじゃない?」

「非科学的だと思いますが」

 マノノは否定こそしたものの、アンドロイド達が何かを視認したことが、異常の引き金となっているのは確かであった。

 絵馬が読み解いた通り、失踪したアンドロイド達は全て何かを視認している。

 そしてそこから異常値をサーバーに送信するばかりであり、足取りが追えなくなっていた。

「依頼人のプラント管理者は、事態の原因解明と対策の立案。そして失踪したアンドロイドの回収を希望しています。製造メーカーや運用コンサルからは原因不明とされて、うちに来たようです」

「失踪前にアンドロイド達がトラブルを抱えていたとかは?」

「特にない、と」

「うーん、とりあえず現地に行ってみるしかないかな。先方には引き受けると返事しておいて。アンドロイドの回収は……確約出来ないって条件で」

 マノノは絵馬の指示通りプラントの管理者へ手元の端末で返信をした。「異常事象対策コンサルティング・ドロアーアンドロア」と末尾に署名をして。

 短い電子音が送信完了を告げる。

 そうしてマノノはずっと気になっていたことを問いかける。

「それで、ずっと何を探しているんですか」

 絵馬は目当ての物を見つけたらしく、本の山の中から手だけが飛び出した。突き上げられたその手には一冊の書籍があった。

 この電子化の時代にあっても絵馬は旧時代の紙媒体に拘った。

 それは彼女の偏屈さ故という側面もあるが、興味の対象かつ専門分野がインターネットという電子の海から喪失してしまったからでもある。

「今回の案件を引き受けた理由ってやつ」

 絵馬が山を崩さないよう器用に身を捩りながら部屋の外へと這い出してくる。

 埃を引き連れた姿を見てマノノは、この後の予定に掃除を入れた。

 絵馬はマノノに見えるよう本を広げて身を寄せる。埃の臭いが鼻を突く。

「かつて語られていたロアの中に似たような話があったんだよ」

 ロア。高度情報化社会へと進む中で抜け落ちていった口伝形式の伝承である。その中でも古いネットロア、つまり大戦前の旧世代インターネット上でかつて語られていた伝承が絵馬の研究分野だった。

 本の頁を手早くめくりながら絵馬は続ける。マノノは埃まみれの彼女の髪を梳いてやりながら、楽しげな彼女の解説を聞く。

「話の流れは同じだよ。田んぼの中に奇妙な動きをする白い人影。それを目撃した人間は気が触れた結果、それと同じモノになって最後は田んぼの中に消えていってしまうという話」

「同じモノと言いますが、それは何なんですか」

「明確な言及は無いよ。大概そういうものだけど。共通しているのは、それが何者であるかを理解して初めて気が触れるということかな」

 絵馬から本を渡されてマノノは目を落とす。ロアをまとめた書籍の中に、田んぼの怪異と銘打った章がある。同類の話がまとめて記載されていた。

 この類の話が現れたのは西暦二千年から二千十年頃、今から五十年以上も前だ。

 絵馬が語った通り、話のパターンはいくつか存在するようだが本筋はおおよそ同じ。

 田んぼ、謎の白い影、奇妙な動き、その正体を知った人間は発狂し田んぼに消えていく。最後には同じ存在へ変質する。

 それが何であるかを理解をすることで、同質化する。

 その構造が忌避と恐怖を生むのだろう、と絵馬は語る。

「この怪しげな話が、今回のアンドロイド失踪事件と関係があると絵馬ちゃんは本当に思っているんですか」

「それを確かめにいくのが、あたし達の仕事でしょ、現地に行くよマノノ」


◇ ◇


 急激な人口減による地方の過疎化、第三次世界大戦の戦火による被害。

 その解決手段として急速に発展したアンドロイド技術と高速通信ネットワーク技術によって、日本の各地方は広大な農地と工業地帯へと姿を変えた。

 人口過多の都市部への食糧供給を一手に担うこの農業プラントも、まさにその状況を体現している。

 到着した絵馬とマノノを出迎えたのは、プラント管理者であるベジファクエンジニアリング社から派遣されてきた飯田であった。

 この農業プラント以外も統括している部門責任者である。

 恰幅の良い男性であった。

 大型バイクから降りてきた少女二人の姿に飯田は不安そうな表情を見せた。

 背丈にあっていない大きすぎるライダースジャケットを着させられている幼く見える少女と、奇抜なメイド服姿の二人組。そして真っ赤な車体が緑一面の景色の中でひどく浮いていた。

「ご依頼ありがとうございます」

 そう言ってから、マノノは横で突っ立っている絵馬を小突いた。

 絵馬が慌てて名刺データを表示する。

 異常事象対策コンサルティング・ドロアーアンドロアという怪しげな肩書と見た目からして若い少女二人組、そして片方の小さい方が代表を名乗ったのだ。

 飯田の表情には無理もないとマノノは思う。

 毎度のことではある。

 ただ、国内シェアトップを誇るベジファクエンジニアリング程の大企業が、こんな得体の知れない二人組に頼らざるを得ない程の状況はひっ迫しているのだろう。

 表情こそ変わらないが飯田は言葉を全て飲み込んだ様子で案内をする。

 稲の上を農薬散布用のドローンが音を立てて飛び交っている。

 飯田の解説が移動の間を埋める。

「稲作用の露天型プラントは従来難しいとされてきました。しかし当社では、大量のセンサーによる監視と農作業ドローンによる適切な農薬と水の散布、そして管理用アンドロイドの配備によって可能としたのです。しかし、度重なるアンドロイドの失踪で管理体制に影響が出ています。出荷に影響する前に解決をお願いしたい」

「心労お察しします」

 マノノが深刻な面持ちをもって頷くと絵馬が聞く。

「このプラントに人間の従業員っています?」

「管理者である私だけです。従業員は全てアンドロイドです」

 日本、なかでも本州の地形は大規模農場と相性が悪い。それが長らくの常識だった。

 この壁を破ったのがベジファクエンジニアリングである。彼らは技術革新と物量投入を組み合わせ、ドローンでは手が届かない領域を多数のアンドロイドで埋めていった。政府のアンドロイド推進策も追い風となり、同社はその象徴的存在になっている。

 大戦後の混乱期の最中、日本はアンドロイドを人間と同等に雇用し、人間性を与え、社会生活に参加させることで、減少した人口の穴を補い内需回復による経済成長の道を選んだ。ドローンは衣食住を必要としないが、だからこそ消費を生まない。多少の非効率があっても、アンドロイドに人間と同じ生活を送らせることに意味があった。

 結果的に日本はいち早く立ち直り、爆発的に膨らんだ内需が国を支えた。今の日本は、アンドロイドという生活する労働力の存在を前提に成り立っている。

「アンドロイドを市民、そして従業員として扱う以上、職場や人間関係でのトラブルを抱えることもある。失踪した八人にそういったトラブルは?」

「ありませんね」

 絵馬の問いに対して、飯田は即答であった。

「何も?」

「定期的に行っている当社の従業員満足度はいつも満点評価。ストレスチェックの値にも問題ありません」

 飯田がそのデータを手首に装着した端末で空間投影した。ストレス値は全従業員「ゼロ」と表示されている。

「そしてこれが依頼のあったプラント内の地図と失踪前の足取りです」

 飯田がそのまま資料を切り替えた。絵馬の端末にも同じものが送信されてくる。

 飯田から提供されたプラント内の地図データには軌跡が分かりやすくマッピングされていた。

 絵馬はそれを何度も指でなぞり辿る。指先が通るたび、薄く拡大されたルートが脈拍のように点滅する。

 八人のアンドロイド、何れも失踪時の様相は同じ。

 定期巡回時には何の不可解な点もなく、突如失踪している。失踪した彼らには問題を抱えていた様子もなく、共通点も見当たらない。

 やはり外的要因かと、マノノは飯田に問う。

「それで、白い影というのは、どの辺りで目撃されたのですか?」

 飯田が指先で地図を指し示して点を打ち込む。絵馬はその箇所を指尺で測りながら何かを計算し始めた。

 執念じみたその姿に気圧される飯田を見てマノノは慌てて言う。

「その場所に案内していただけますか」

「管理用機体に案内させましょう」

 飯田が手を挙げて合図すると、遠くに待機していた男が走ってくる。

 見た目は人間と変わらないが、走る挙動の正確さから彼がアンドロイドであるのは明らかであった。靴音が一定の間隔で土を打ち、無駄な上下動が一切ない。

「タジマです。私は管理室におりますので、何かあればそちらへ。タジマ二人をこのポイントまで案内させろ」

「了解しました」

「解決よろしくお願いしますよ」

 タジマが引き継いだ。飯田が人影を目撃したというポイントを目指して絵馬達は移動する。

 地平線まで広がる青々とした光景はいくら歩いても変わらない。風が稲を均等に撫で、同じ波がどこまでも反復される。

 飛んでいるのはドローンのみで、足元にも風の合間にも生き物の気配もない。徹底的な農薬散布と異物の排除が完璧な作物を作るのだとベジファクエンジニアリングが広報で説明していた。

 無言で前を行く管理用アンドロイドのタジマに対して絵馬は話しかける。

「この辺はさっきのドローンがとんでないけど何で?」

「テスト用エリアという都合で、私達が手作業で行っています。ポンプと散水ホースが各所に設置されています。新技術の実地試験を行っています」

「こっちは稲がないよね。一面泥だらけだけど?」

「耕作時期をずらしています。代掻きを終えたところです。土をならして平らにする作業です」

 タジマのいうように泥だけの田があった。ポンプと散水ホースが収納されているのであろう金属の大きな箱が設置されている。

 絵馬が聞く。

「こんな事件があって働くのが不安にならない?」

「質問の意味が理解できません」

「同僚が失踪していて怖いとかならないのかなって?」

「よく分かりません」

 絵馬が首を傾げた。

「うーん? まぁいいや。その怪しげな白い人とやらは見たことある?」

「いえ。ですが、ここからでも見える位置です」

 そこまで言ってタジマが何かを指さした。  絵馬は目を凝らす。

 かすかに、地平線にまるで浮かぶかのように白い何かが見えたような気がした。

 視力の悪い絵馬は背負っていた鞄から眼鏡を取り出そうとしながら言う。

「あたしには、よく見えないけど確かに何かが……何だろう」

「分かりました」

 タジマの声は、先ほどよりも無機質であった。音の抑揚が一段抜け落ち、言葉が記号のように平坦に並ぶ。

 絵馬がタジマへ振り返る瞬間。

 激しい衝撃を背に感じた。

 身体が宙を舞っていることを遅れて絵馬が理解した時には、口の中では土の味がした。 湿った土の粒が歯の間に入り、鉄の味が舌に広がる。

 混乱する絵馬を庇うようにマノノが前に立つ。

 その敵意の向かう先はタジマであった。

「何を」

 マノノの言葉は途切れる。

 突如として絵馬を攻撃したタジマの様子は奇妙だった。

 その手を激しく鞭のように振るい、身体はその為に大きくくねらせている。

 その眼に光はなく、表情も喪失している。

 まともでないのが一目で分かった。

 それが突如拳を振り上げて、明確な敵意を露わにした。

「なにを」

マノノが咄嗟にその拳を受け止める。

力の流れを利用し、洗練された体術でその身体を拘束しようとする。

 しかし、タジマの動きは人間離れした奇妙な動きで体術を逃れる。関節の回転が常軌を逸した角度となり、重心がずれた体勢からマノノを軽々蹴り上げた。

 マノノとタジマは揉み合いながら地面を転がった。

 力任せに暴れるタジマであったが、しかしそこには攻撃の意思があった。

 マノノには体術の心得があったが、全力で暴れるアンドロイドの四肢を拘束することは非常に難しい。

 抑え込もうとしたが跳ね飛ばされた。

 マノノが田んぼに落ちる手前で体勢を立て直す。

 その間にタジマは全身をくねらせながら絵馬へと向かっていく。

 その腕を鞭のように振るって絵馬を打つ。

「絵馬ちゃん!」

 マノノが感情に任せてタジマの背から飛びかかる。勢いをつけて飛び上がったまま足で思い切り蹴り飛ばした。

 地面を転がったタジマへとそのままのしかかり、その足首に手を掛ける。そして躊躇いなく、その脚をねじ曲げた。

 タジマの膝が明後日の方向に曲がり、皮膚素材が剥がれて内部の機械構造が露出した。弾け飛んだ金属片が周囲に散らばる。

 タジマが悲鳴を上げることもなく動かなくなったの見て、マノノは絵馬の側に慌てて向かった。

 地面に伏した絵馬を抱き起こす。蒼白といった表情のマノノを絵馬は宥めた。

「大丈夫だよ、めっちゃ痛いけど。それより一体、何だって急に」

 絵馬とマノノが確認に行くと、倒れたタジマの体表が白く変わり始めていた。肌色の部分はもう僅かしかない。

「ナノマテリアルの書き換え? なんでそんなこと」

 体表色の表現に使われているナノマテリアルが白くなった肌の上に模様を刻んでいく。

「タジさんは分かった、と言っていた。どういう意味だ」

「向こうに何かを見つけた様子でしたよね」

 マノノがその方向へ顔を向けようとするのを絵馬が手で制した。

「待って」

「何ですか」

「人間とアンドロイドは視力が勿論違う。私にはぼんやりとしか見えなかったけど、タジマさんなら鮮明に見えた筈。あの距離であっても本当に鮮明に」

 絵馬が早口で続ける。

「だから、この意味不明な模様も読めたんだじゃないか」

「読めたって、先ほどの人影にも同じ模様があったってことですか。そもそも何の意味が」

 そう言いながら紋様を凝視したマノノであったが、絵馬が慌てて止める。飛びついて無理矢理上を向かせた。絵馬の乱暴な手に頬を潰されながらもマノノは冷静に問い返した。

「何ですか」

「見ないでマノノ」

「え?」

「この紋様はスクリプト文になってるんだ」

 マノノが何故今、絵馬の手によって空を見させられているのかを理解した。

 スクリプト、機械に対する命令文だ。

 タジマの白く変わった体表に浮かんだ模様は、意味を持つ何かのパターンとなっていると絵馬は断言する。絵馬はマノノの事を押し留めたまま言葉を続ける。

「アンドロイドの視覚認識を利用した攻撃なんだよ。人間には意味が分からないけど、この模様に仕込まれたスクリプトをアンドロイドなら理解できる。そして、読んで理解したなら、タジマさんと同じようになる。恐らく失踪したアンドロイド達も同じだ。みんなスクリプト攻撃によって暴走したんだ」

「つまり、田んぼの中にいる白い人影は失踪したアンドロイドで、彼らはスクリプト攻撃によって暴走していて、その影響の一環でそのコードを身に纏っていると?」

「そう、連鎖的な感染が期待できる。理解して同質化する。まるでロアを模したみたいだ。誰がこんな攻撃を仕掛けたかは知らないけど、アンドロイドを標的にした高度な攻撃なのは間違いないよ。視覚認識を利用したスクリプト攻撃、しかも体表のナノマテリアルを書き換えて他のアンドロイドに感染させるなんて高度なやり方、聞いたこともない」

 マノノはタジマの方を見ないようにしながら、絵馬を自分の身体から軽々引き離した。

「それで、どうします? 私も感染する可能性があるなら、対処の仕様がありませんね?」

「スクリプトを解析して対策用のプログラムを作るしかない。ただ感染済みの子達は助けられないかも。どうやって探し出して捕まえるかって問題がある」

「それについてですが、見つけることは出来そうですよ。集まってきています」

「え?」

「周囲からアンドロイドの接近を確認しています。全部で八体」

 田んぼの中から白い人型が姿を現す。

 どれも一様に、タジマと同じく手足を振り回していた。稲の青い葉が散る。

「失踪した全部ってことか。マノノが感染していないから、スクリプト攻撃を確実にするために距離を詰めてきているのかも」

「私達を排除するつもりなのでは。感染させるだけなら、タジマが絵馬ちゃんを物理的に攻撃してくる意味が分かりません」

 もし本当に人間が標的なのならば、つまり絵馬が危険ならば、マノノは強く憤りを覚えた。

 絵馬の安全の為にいち早くこの場を離れなければ。そう思うマノノに反して絵馬は言う。

「可哀想だけど荒っぽいやり方を取ろう。向こうから集まってきてくれてるならチャンスだ」

 絵馬は背負っていた鞄を下ろす。

 中から取り出したのは黒い刀だった。鞘に走る細い擦り傷が使われてきた時間を言葉なく語る。護身用の真剣だった。

 それをマノノに渡すと絵馬は言う。

「私に考えがある。暫く目を開けないでよ!」

「目を瞑って戦えとでも言わないでくださいよ」

「何とかするから、そこで待ってて! 高度なハッキングには、こっちも高度な技術で対抗する」

 マノノは彼らの体表のスクリプトを認識しないよう、絵馬に言われるがままに従った。

 駆け出した絵馬の足音が遠くなる。大きな物音を立てて何かをしているのは分かる。

 絵馬の行動をマノノは不審に思うも、目は開けなかった。

 人型が近づいてくる音がする。

 暴走したアンドロイド八体に包囲されつつある。

 おそらくその腕を振り回しているのだろう、鈍い空を切る音が続けて聞こえる。

 その音が近付いてくる。

 見えない恐怖。

 絵馬の叫び声が聞こえた。

「いいよ! マノノ!」

 目を開く。

 視界が黒く染まっていた。

 宙から降り注いでいるのは大量の泥であった。

 マノノへと近づいていた白く染まったアンドロイド、それ目掛けて絵馬が泥を噴射していたのだ。

 絵馬が手にしているのは巨大なホースであり、田んぼの泥をポンプで吸い上げて空中に撒き散らしていた。

 その噴射に巻き込まれてアンドロイド達は身を仰け反らせていた。泥が飛び散る中でマノノは疑問を悲鳴のように叫んだ。

「何なんですか!」

「スクリプトを物理的に見えなくするんだよ」

「馬鹿じゃないんですか、高度な技術って何だったんですか!?」

「これだけ大量の泥を吸い上げて放出なんて素晴らしいポンプでしょ!」

「スクリプト対抗の防御プログラムを組むとかじゃないんですか!?」

「そんな時間ないよ!」

 泥まみれになった彼らはその白くなった肌は見えず、肌に浮かんでいるであろうスクリプトの模様も泥によって見えない。飛び込んできたアンドロイドに対してマノノは躊躇いなく刀を振るった。

 足元は悪く浅い踏み込みだった。だが、それで十分だった。

 アンドロイドから振り下ろされた腕はその勢いは最早凶器と呼んで差し支えなかったが、マノノの一閃はそれを容易く断ち切った。

 刃はまず泥を被った皮膚を裂き、ケーブルが露出し、そして難なく骨格へ噛み込む。硬質の手応えが掌に跳ね返り、マノノは再度刀を振り切った。切り離された前腕は泥を吸い、鈍い音で田の水面に沈んだ。

 腕を喪いバランスを崩したアンドロイドをそのまま容易く袈裟切りにする。

 絵馬がポンプで泥を撒き散らす、その中でマノノは踊るように押し寄せるアンドロイドを袈裟斬りにしていく。泥が跳ね、刃の軌跡に沿って泥水が弧を描いた。

 泥にまみれて突進してくるアンドロイドの一撃をマノノは前傾のまま低く潜り、泥を跳ね上げながら刀を振るってアンドロイドの首を落とした。刀に付いたオイルと泥を、既に泥まみれのメイド服で拭った。

 泥まみれになった二人は、すべてが終わった後に顔を見合わせて笑った。



◇ ◇


「とんでもない損失ですよ。戦闘のあったエリアの作物は出荷できないし、失踪中のアンドロイドは全て破壊されて」

 飯田が苛立った様子で机を叩き額の汗を袖で乱暴に拭った。。事務所まで戻ってきた絵馬とマノノからは、清潔なオフィスには似合わない、むせ返るような土臭さと濁った水滴が滴り落ちていた。磨かれた床に、二人が運び込んだ茶色の斑点が点々と続いている。それらが飯田の神経をより一層逆撫でしているのは間違いなかった。

 絵馬はそれを気にする素振りもなく言い返す。

「飯田さん、アンドロイドの感情機構外したでしょ」

「なにを」

 飯田の肩が一度だけ跳ねる。絵馬の言葉より先に、筋肉が反応したのをマノノは見逃さなかった。

 絵馬は怒りや憤慨した様子もなく、ただ疲れ切った声で気だるげに言う。

「感情機構が搭載されているアンドロイドについて、日本では人権が認められている。それに手を付けるなんて御法度なのはさ、説明するまでもないわけだけど……」

「あいつらが一丁前に怖がって働こうとしないからだ! 人間じゃあるまいに、何を恐れる必要がある。あいつらは生きてないんだぞ。何が田んぼの怪異だ、馬鹿馬鹿しい。訳の分からない噂話に怯えて出勤拒否だ! そんな馬鹿な話があるか!?」

 吐き捨てるような声が響き渡る。オフィスには誰も居なかった。巨大なモニターにはドローンの稼働状況が音もなく更新され続けている。

 絵馬が泥にまみれた手でジャケットのポケットに手を突っ込み、何かを探しながら言う。

「今の私達の社会は人間だけで成り立っているわけじゃない。その隣人は、恐怖すら感じないような存在ではなく、笑ったり怒ったりするような人であってほしいと私は思うよ」

「全て破壊しておいてよくそんなことを言えるな。感情機構の搭載されたアンドロイドの破壊は、それこそ暴行罪だろう」

「暴走したアンドロイドに対しては正当防衛になるだろうけど、まぁそれは面倒なのでお互い目を瞑るってことで。口止め料も解決料も結構なんで」

「当たり前だろう!」

 飯田の剣幕に圧されることもなく絵馬は変わらない調子であった。そして、その泥にまみれた手をポケットから出す。

 小型の物理メモリが握られていた。それを飯田の座るデスクにおいて、手の泥をそのまま机で拭った。

 磨かれた高価そうなデスクに泥をつけられて憤慨する飯田に絵馬は言う。

「今回のスクリプト攻撃はあまりにも前例がなくて、現状対応できるのは私が組んだ作成したセキュリティプログラムだけなんだけど。お安くしときますよ」

 見送りはなかった。

 二人の足でありお気に入りのバイクに、その泥だらけの身体を預けるか暫く悩んだ後、絵馬は渋々バイクにまたがった。

 車体に落ちた細かい泥の斑点が絵馬の気持ちを重くする。マノノを後ろに乗せて絵馬が沈んだ様子で言う。

「帰ったら洗車からだね」

「手伝いませんよ」

「何でよ」

「泥撒き散らしたの、絵馬なんですから」

 田泥と青い草の臭いを風で受けながら走る中、マノノは解決しなかった疑問を口にした。

「誰が何の目的でこんなセキュリティ攻撃をしかけたのでしょうか。ベジファクエンジニアリングは大手企業ですが、企業テロにしては何の声明もないですし攻撃目的も不明です。これだけの技術力があればアンドロイドを暴走させて田んぼに逃がす以上の事が出来るでしょうに」

 ただのハッキングにしては無駄に手が込んでいる。

 絵馬は口の中で言葉の手触りを確かめるように、論を積み上げていく。

 ロアとの酷似も偶然とは思えない。何か意図があるように感じる、そう語る絵馬の言葉が途絶えた。

 風が渡るたび、稲の穂先が一定の角度で身をよじらせ、同じ方向に波が走る。まるで、その中に何か答えを見つけたかのように言う。

「真似して作ったのではなく、怪異の側が真似ているとしたら?」

 青々と広がる田に視線を遣ったまま絵馬は続ける。何の異変もない景色の中、明らかに異質なのは二人の側であったが、絵馬の言葉には世界の側に異質を見つけたかのように。

「怪異が人間ではなくアンドロイドを標的として適応化していった結果なのだとしたら。怪異を見た人間の気が狂って同質化する理由は明らかにされてないけど、これが彼らの生存戦略。つまり増やし方だとするなら。今や人間よりもアンドロイドの方が多いんだ。そっちを狙う戦略にシフトしたとは考えられない?」

 そこまで捲し立てた絵馬はマノノの反応の無さに口を尖らせた。

「真面目に聞いてないでしょ」

「この科学の時代に誰がそんな話に取り合うんです?」

「人も科学もそんなに万能じゃないと思うけどね」

「だから野山に、まだ謎の生物が生息していると言うんですか?」

 マノノは田んぼの中に人影を見つけた。

  視界の奥で、一本だけ風の法則から外れて揺れる白。それは全身が白く、陽射しを眩しく照り返している。

 まだ感染したアンドロイドがいたのかとマノノは焦った。鼓動が一拍早まる。見つめてしまったと。

 しかし、その体表には何もなかった。皮膚の起伏も、継ぎ目もない。その四肢は明らかに長く、無造作に振り回している。

 腕とも脚ともつかない白い帯が、風のない風に煽られて、揺れているかのようだった。

 人の顔の様に見えたが、目と口の位置に空洞があるのみだった。穴はただの欠けであって、何かの感覚器官や起伏ではなかった。

 絵馬には見せていけない。

 暴走したアンドロイドとは全く違う、何か異質な物だと。

「絵馬ちゃん」

 咄嗟にマノノは絵馬の視界を遮った。それは謂わば直感の様な物だった。

 マノノの手のひらが飛び出してきて絵馬は咄嗟にブレーキを握って車体を横滑りさせた。急停止しても尚、バランスを崩さないのが絵馬の慣れと技量を感じさせる。

「何!?」

 マノノは一瞬だけ息を殺し、指をそっと離す。

 その一瞬の間に白い姿は消えていた。

 ただ一面には、完全に管理された青々とした田が広がるばかりである。

 遠くの空で雲が割れ、薄日が落ち、稲の列は規則正しく光を照り返していた。


【雲泥 完】

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