追放
(まさか『聖女』じゃなくなる日が来ようとは……)
がらがらと走る馬車の車輪の音を聞きながら、エレノアはぼんやりと頬杖をついていた。
思い出されるのはいつかの夜の会話だ。たまたま治療した行きずりの男。名前は確か、
(ロラン・グラッドといったか……)
まさかあの男が言うように『聖女』以外の仕事を探すことになろうとは。なんとも不思議な気持ちである。
とはいえ、エレノアの行動は変わらないだろう。
エレノアの前世、田中花子は医療従事者だった。特に崇高な志があるわけではなく手に職が欲しかっただけだが、それでも必要最低限の職業倫理は持っていた。医療に携わる人間ならば一度は聞いたことがあるのではないかと思うが、前世の世界には『ヒポクラテスの誓い』というものがある。これは医師の職業倫理について書かれた宣誓文であり、二千年以上前のものであったため時代に合わせて更新された『ジュネーブ宣言』が主流だが、その大本となった考え方である。
花子とて時代背景の違うヒポクラテスの誓いすべてに同意はできないが、その一部はなんとなく脳内に刻まれている。
その内容を要約すると、金銭にこだわることなく自分の持つ医療技術を教える。患者の利益になる治療を行い害となる治療は行わない、依頼されても人を殺す薬は与えない、相手が誰であろうと差別・不正を犯すことなく医療を行う、医療に関わるかどうかに関係なく患者などの秘密を守る、というものだ。
エレノアがこれまで『聖女』として人々に治療を施してきたのは、慈悲でも慈愛でもなく、その医療に携わっていた人間としての矜持ゆえだ。どのような職業でもそうだろうが、『肩書き』とは面白いもので、その肩書きで呼ばれ続けると行動が自然とその職業に寄っていってしまうことがある。例えば警察官ならば社会的規範に反しない行動を職務外でも心がける人間が多いだろうし、親ならば自分の子どものことを自分自身より優先することがあるだろう。さらに言うなら職業だけではなく、『自分は真面目』と思っている人間は真面目な行動を心がけることだろう。もちろん例外もあるだろうが、少なくとも花子はそれが職業倫理であり、矜持なのではないかと思っていた。
花子とて同じだ。自分は医療従事者であるという自負があるから人が倒れていれば声をかけに行くし、できうる限りの支援を行う。
おそらく医療に携わらない仕事に就いていれば、花子はそんなことはしなかっただろう。
これは特別なことでも『善意』でもない。いうなればみんな服を着るように『立場』を身にまとって行動しているに過ぎない。
人は選択肢が多すぎるとなかなか選べない生き物だ。しかし『自分は医療従事者だから』という洋服が一枚あるだけで、エレノアは迷うことなく傷ついた人に手を差し伸べることができる。洋服を着ることにメリットがあるから、洋服を好んで着ているのだ。
もちろん、洋服を着ていない人もいるだろうが、少なくともエレノアは好んで着込んでいる。なぜならそのほうが、迷わなくて良い分判断が楽だからだ。
傷ついている人、苦しんでいる人を見かけたら思考停止で素早く手を差し出す。
そこにはなんの葛藤も心理的負担も存在しない。
なぜなら何も考えていないからだ。
これはエレノアにとっては紛れもないメリットである。
そしてそれはエレノアとして生まれ変わった今も染みついている。この仕事に対する矜持、職業倫理を失った時、きっと花子は本当の意味で死ぬのだろう。
だから『聖女』でなくなったところで、エレノアの行動は変わらない。
肩書きが一つなくなっただけで、医療に携わる人間であるという自負は消えない。
医療従事者としてその職業倫理に基づき、患者に利益のある行動を行い続ける。
(けど……)
馬車の外の景色はカーテンで仕切られて見えない。もとより開けたところで外は深夜。真っ暗闇だ。現代日本とは違い明かりも乏しい状態で景色などろくに見えないだろう。
(本当にこれからどうするか……)
そしてちらりとエレノアは向かいに座る侍女、ケイトを見た。彼女は澄ました顔で座り、静かに荷物の整理をしていたが、視線に気づいたのか顔を上げる。
「どういたしました? お嬢様」
「君、本当についてくるの?」
それがエレノアの一番の悩みである。自身にそれなりの地位があった頃ならともかく、王子は『聖女』剥奪、ならびに『国外追放』を言い渡したわけである。
つまり見知らぬ土地で身分も何もない状態で過ごすことになる。エレノアは別にかまわないが、彼女の将来を考えるとなかなかにハードだ。
「貴族の侍女という安定した職を捨てるなんて馬鹿なことだ」
「馬鹿で結構です」
しかし忠告をするエレノアにケイトはぴしゃりと言い放った。その薄桃色の瞳がエレノアのことをじっと見つめる。
「『紅い目』は女神への反抗、そう教会の教義で謳われるリジェル王国で、このような目の色を持って生まれてしまった私を受け入れてくださったのはお嬢様だけです。お嬢様に拾っていただかなければ、今頃私は道ばたでのたれ死んでいたことでしょう。その私がお嬢様の危機に付き従わなくてどうするというのです」
その言葉にエレノアはため息をついた。
ケイトは確かに幼い頃にその瞳の色から迫害され道ばたでうずくまっているのをエレノアが拾い、同い年ぐらいだからちょうどいいだろうと侍女頭に教育を頼んで側付きとして置いた子だ。しかしエレノアが彼女を拾ったのも当然ながら別に慈悲や哀れみの心からではない。
「なんども言っているけどね。わたしのその行動はただの職業倫理によるものだ。わたしは腐っても医療に携わる人間だからね」
ただの職業倫理だ。
エレノアはその職業倫理に従い、差別により怪我を負って倒れるケイトのことを治療しただけだ。
ついでに家に拾って帰ってきたのは、そのままにしておくとまた同じことが起こりケイトが怪我を負うことが簡単に予期できたからだ。
(虐待されている子を通報する場所も保護する施設もこの世界にはないからなぁ)
本来なら教会がその役目を果たすのだが、その教会の教義によって差別を受けているのだからあの時はエレノアが保護するより仕方がなかった。
ケイトはそのエレノアの言葉に、凜とした真っ直ぐな視線を向けながら「かまいません」と告げた。
「お嬢様が私のことをどう思おうと、思ってなかろうとなんでもかまいません。ただ私はお嬢様に救われたと思い、お慕い申し上げているのです。必ずや役に立ってみせます。ですからどうかお側においてください」
「うーん」
エレノアは困ったように首をかしげた。そのことにケイトが緊張したように表情を固くするのがわかる。
「君は哀れな子だねぇ。こんなわたしに執着して付き従うなど、幸せにはなれないよ?」
「か、かまいません!」
ケイトがうつむく。その手はぎゅうと力が込められ強く握られていた。エレノアは苦笑するとその手をとって開かせる。
「あんまり強く握ると爪で傷ついてしまうよ。よしよし、かわいい子だ。そうだね、わたしは細々としたことが苦手だから君がいると助かるだろう」
「じゃあ……っ!」
わずかに涙ぐみながら顔をあげるケイトに、エレノアは微笑んだ。
「これからもよろしく頼むよ。地獄に落ちる覚悟はあるかな?」
「かまいません! もとより私の人生はお嬢様に出会うまで地獄のようなものでした!」
(まぁ、いいか)
エレノアは考える。
幸いなことに連れて行かれるのは森の国境。つまり森を抜けた先にある隣国、国外追放先とはおそらくアイゼア王国のことである。
リジェル王国とは違い、アイゼア王国は女神教を信仰してはいなかったはずだ。ということは『紅い目』も差別の対象ではなく、ケイトもこちらの国のほうが健やかに過ごせるだろう。
(まずはこの子が安全に過ごせる環境を確保しなくては……)
よしよしと泣きじゃくるケイトを抱きしめてその頭をなでながら、エレノアはそう思案した。




