紅蔦病の呪い
夕暮れの中、花子は治療院の一室にたたずんでいた。
目の前にはベッドで眠る患者がいる。彼女の身体には紅い蔦が巻き付くような痣が浮かび上がっている。
まだ軽症だが、このまま放っておけばみるみる紅い蔦は全身に広がっていくことだろう。
「お嬢様?」
ケイトがいぶかしげな声をかけてくる。さもありなん。この患者が運び込まれたのはつい先ほどのことだ。そしていつも花子ならばもうこの患者に治癒術をほどこしてとっくに治している。
その花子が患者を見つめたまま動かないのだ。
いぶかしむ声をあげたくもなるだろう。
(これが呪いならば……)
目の前のこの呪いを足がかりにして、すべての紅蔦病に影響を及ぼしこの世から消し去ることができるのではないか。
花子はそっとその紅い蔦の痣を指でなぞる。
「おい! 治さないのかよっ!」
彼女を病室に運ぶのを手伝ったレンもしびれを切らしたようにそう声をかけてきた。
花子はそんな彼のことを振り返る。
赤く染まる夕日が差し込む中、彼女の顔は逆光で陰り、そのサファイアの瞳だけが青い輝きを放っていた。
「うん、解呪する(なおす)よ」
それはぞっとするような視線だ。
そこに含まれる感情は怒りか悲しみか、それとももっと計り知れない何かなのか。
花子はすぐに患者へと向き直るとその手を握る。
(ああ、大丈夫だ)
これは解呪することができる。
そう確信を得て力を入れようとしてーー、突如として彼女の視界はホワイトアウトした。
(ああ……)
意識が遠のく。それが何に起因するのかも花子は知っている。
(あなたは邪魔するのか……)
だとしたら、やはりこれは悪意をもって成されたことなのだ。
花子はうっすらと目を開ける。写るのはまばゆいばかりに真っ白な空間、真っ白な姿。
虹色の瞳が強い意志を宿して花子のことを見ていた。
「女神アリア様……」
「いますぐおやめなさい、エレノア」
彼女はいつもの夢の空間で、そう花子へと告げた。
「いますぐおやめなさい、エレノア。それを解くことはわたくしが許しません」
いつもの夢の空間で、女神アリアはそう告げた。
彼女の白い眉はつり上がり、長く豊かに波打つ髪は怒りにわずかに逆立っている。
花子は床に膝をついたまま、その美しい女神を見上げた。
「なぜですか?」
そして静かに問いかける。
「なぜ、このような呪いを世に放ったのですか? 女神アリア様」
「『悪魔』になりうる異教徒に裁きを下すのは当然のことよ」
彼女は凍えるような瞳をしてそう言い捨てた。
「『悪魔』……」
「『紅い瞳を持つ悪魔』よ。エレノア、あなたも出会ったでしょう。ああ、最初に出会ってしまった時にきちんと警告を与えるべきだったわ。悪魔を生み出す異教徒共でもわたくしを信仰するというのならば温情を与えようとしたのが間違いだった」
そのままアリアは嘆くようにうつむいた。
「大精霊ヨキ。あれの祝福を受けた狂戦士。それこそがあの『ロラン・グラッド』と名乗る男の正体よ」
「『狂戦士』……」
『狂化』のことか、と花子は思う。やはりゲームで登場する『狂化』をロランはしており、そのため戦場では紅い瞳をしていたのだ。そしてゲームではそれは『闇落ち』として悪いものだと認識されていたが、この時代ではどうやら『大精霊ヨキ』の祝福というそこまで悪い印象のものではないらしい。
アゼリア王国と長年争い合う関係にあったリジェル王国の女神、アリアの認識を除けば。
国を守らなければならなかったアリアにとっては、確かにそれは忌まわしい『祝福』だったことだろう。
「『紅い瞳を持つ悪魔』以外にも呪いは生じていたようですが……」
「ある一定以上の魔力を持つ者に発症するように呪いをかけたの。とはいえいつ発症するかはわたくしにもコントロールできていないわ。若い内から出る者もいれば年老いてから出る者もいるわ」
「…………」
花子は押し黙る。そしてしばし考えてから口を開いた。
「女神アリア様。確かにアゼリア王国はかつての敵国、あなた様が憎く思うのも仕方がないのかもしれません」
「わかっているのならいいわ」
「しかし」
花子は遮るように言葉を続けた。そのサファイアの瞳で真っ直ぐにアリアの虹色の瞳を見据える。
「今は同盟国でもあります。アゼリア王国の助力がなければ我々リジェル王国も帝国の手に堕ちていたかもしれません」
「そんなことは……」
「今は協力関係にあります」
静かに、しかし揺るぎない強さをもった声音で花子は訴える。
しくじることが恐ろしい。女神アリアの恐ろしさは幼い時からずっと知っている。
その身勝手さも。
「呪いを解いていただけませんか」
「だめよ」
彼女の返答は早かった。
わずかに考える様子もなく、花子の懇願をはねつける。
「今は同盟関係といってもそこまで良好な関係ではないでしょう? それにあの『悪魔』の凶悪さを野放しにするわけにはいかないわ。いつわたくしに牙を剥くかわかったものじゃない」
「…………」
傲然と言い放つ女神に、花子はうつむいた。
地面をひっかくように手を握るが、どこまでも真白い空間は花子がひっかいた程度ではなんの傷もつかない。
花子の爪はただ花子自身の手のひらを傷つけるだけだ。
手のひらに爪が食い込み、わずかに血がにじむ。
「……。わたくしの可愛いエレノア。わたくしに逆らい呪いを解くような真似をすればどうなるかわかっているでしょう?」
女神は猫なで声でそんな花子に問いかけた。
「いくら愛するあなたでも、わたくしに逆らうのなら罰を与えなくては。そんなことをされたらわたくしはあなたに授けた能力すべてを取り上げることになるわ」
「はい、女神アリア様」
その言葉に花子はうなずく。
「わたしとて、今あなたの加護を失うのは本意ではありません」
花子のその言葉にアリアの表情がぱっと明るくなる。
「ならば……」
「しかし」
花子は手のひらを開く。強く握りすぎてこわばる手は開くのに力を要した。その手のひらをしっかりと地面につき、顔を上げる。
その美しいサファイアの瞳に宿るのは決意だ。
「そうしなければ亡くなってしまう人がいます。それを解決する手段をわたしは持っています」
「あなた、何を言っているのかわかっているの?」
「この状態でその方を見捨てれば、それは医療従事者としての誇りに反する。そんなわたしは、もはやわたしではない」
アリアの横暴さは恐ろしい。その力で下される天罰もだ。
しかしその言葉は花子の行動を止めるくさびにはならない。
「どうぞ、奪いたければ奪ってください。女神アリア」
花子の言葉はかけらも震えなかった。揺らぐことなどはない。この程度のことでは。
花子は医療従事者だ。患者の治療を優先するのは当然のことだ。
「たとえあなたが何を奪おうと、わたしの意思は奪われない。わたしがわたしを捨てることはない」
「……後悔するわよ」
きつくこちらをにらみ下ろし、吐き捨てる女神に花子は首をかしげてみせた。
「わたしがこのような人間だったから、あなたはわたしのことを選んだのでしょう?」
花子の言葉にアリアは目を見開く。それを不思議そうに花子は見つめた。
「わたしが医療者としての業務に忠実だから、聖女としての務めもかかさず果たすはずと利用するためにわたしを聖女に据えたのはあなただ」
それは本当に今更の話だった。
花子が『こういう性質』なのを女神アリアは知っていたはずなのだから。
それが『たまたま』これまでは女神アリアの望む形で発揮されていただけで、相反すればただ決裂するだけなのはわかりきっていたことだった。
「エレノア……っ!!」
花子のその言葉に女神は激高し大きく手を振りかぶった。花子はその動きを目を閉じることもせずに見守る。
そして祈った。
呪いが解けるようにと。
花子の祈りが世界に放たれるのと女神の手が花子の頬に触れたのはほぼ同時だった。その瞬間、何かが弾けるような強い音が響き花子の身体は衝撃に弾き飛ばされる。
(呪いが……)
砕け散った。そう確かに花子は確信した。
唇が微笑みの形につり上がる。
彼女は目を覚ました。




