狂気の魔女
(もう手遅れだ)
その状態を見てレンはそう素早く判断した。
何度も見てきたからわかる。戦場で、そして町で、レンは何度も紅蔦病の患者を無力感とともに見送ってきた。
レンにできたのは彼らが周囲に被害を出したくないというのを受け入れて崖に空いた洞窟の中へと入っていくのを手伝うくらいのことだった。
しかしそれもさすがに敬愛するロランがかかった時には到底認めることができず、洞窟に入ろうとするロランを無理矢理に食い止め、結果として彼が重たい身体を引きずって森のほうへと失踪するきっかけを作ってしまうだけだった。
紅蔦病は蔦のような紅い痣が全身に広がっていく奇病だ。その蔦が全身に回るとその魔力は暴発し周囲に多大な被害を与えると言われている。
「どうしてここまで放って置いたんだっ!」
「それがっ! よそから来た奴のことなんて信用できないって……っ!」
やるせなさから思わず怒鳴ったレンにその患者の友人らしき男は涙ながらにそう言った。それに小さく舌打ちをする。
確かにハナコ・ヤマダだかエレノアだかどっちでもいいがあのよそ者のことは信用できない。しかしその治癒術師としての技量は確かだ。
彼女ならば治すことができるだろう。
(けど体力が持つかどうか……っ!)
根本的な治療が可能でもそれまでに失われた体力や魔力が戻るわけではない。見たところ彼の衰弱は非常に激しく、その皮膚や唇はぱさぱさに乾燥しており、目元は青白かった。
おそらく自ら栄養や水分を摂取することすら難しくなっていたのだろう。脱水と栄養不足が疑われる。
(とりあえず早く治療を……)
例え結果が残念なものに終わってもなにも手を尽くさないよりはましだ。走る速度が兵士であるレンよりは遅いハナコに促そうと背後を振り返ろうとしたところで、
「うあああああああっ!」
悲鳴が上がって再び患者へと目を向ける。そこには、
「まずいっ! みんな下がれ……っ!」
全身に絡みついた紅い蔦のような痣が鈍い光を放ち、まるでひび割れるようにその部分が盛り上がる様子が見えた。
魔力の暴発の前兆である。
(間に合わなかった……っ!!)
しかし絶望する時間もない。すぐに近くにいた数人を爆発に巻き込まれないようにと突き飛ばすように逃げるように促す。皆悲鳴を上げて出口へと殺到する中で、
「おいっ! 何をやってる……っ!!」
一人だけその波に逆らい患者に近づく馬鹿がいた。
ハナコだ。
慌ててその右手を掴んで引きずろうとしたが、彼女はそんなレンには目もくれずに「治療だ」と一言告げた。
その左手に素早くカラスの守護精霊がとまり、黒いステッキへとその姿を変える。
そのステッキの先端が蔦へと触れる。
しかしそのひび割れも光もどんどん強さを増すだけだ。
「おいっ! 死ぬ気かっ! 早く逃げろっ!!」
「大丈夫、安心しなさい。必ず治してあげよう」
ハナコのその言葉に患者の男の唇がわずかに安心したようにほころんだように見えた。
その瞬間、周囲に閃光が放たれた。
たまらずレンはハナコの手を離す。
「…………っ!!」
(死んだ)
そう覚悟して数秒、自らの身体がそのままあることに疑問を覚えてレンはその緑色の目をおそるおそる開けた。
「……っ! おい……っ!!」
目の前には血が流れていた。
彼女のステッキを構えたままの左手は患者の男性の身体に触れたまま、その肩まで赤く焼けただれている。
そこから大量の血が流れているのだ。
(魔力の暴発の一部を引き受けたのか……っ!?)
どういうからくりかはわからないが、そうでもないと説明がつかない。それぐらい彼女の左腕以外には暴発の被害が及んでいないのだ。
彼女の黒いステッキからは淡い光が放たれていた。それが徐々に男性の紅い痣へと広がり、そのひび割れや盛り上がった皮膚を穏やかに鎮めていく。
男性の肌のひびが塞がり、白い皮膚が見え始めるのと同時にハナコの左腕の肉が所々はじけ飛びぼこぼことその皮膚がただれて血を流した。
あふれ出す魔力をその身で引き受けながら同時に治癒術を使っているのだ。
「おまえ……っ!!」
絶句したままレンは立ち尽くす。レンだけではない。治療院の外へと逃げ出していた人々も、逃げそびれて二階から降りるか戸惑っていた人々もその姿に何も言えずに立ち尽くしていた。
ハナコの顔は痛みからの苦痛に多少ゆがんでいる。だがそれだけだ。男に添えられた手は外されることなく、どんどん増えている傷というにはあまりにグロテスクなただれにも微動だにしない。
泣きわめくどころか、失神してもおかしくないほどの痛みのはずだ。
(それとももう痛覚すら感じないほどの痛みなのか……)
ある程度の痛みになると身体の防御反応により痛覚がシャットアウトされるという話を聞いたことがある。それが本当なのかはわからないが、戦場でとんでもない傷を負ってもそのまま特攻をしかける兵士の存在は知っていた。
「サンドラ! 経口輸液を!!」
静かにハナコの治癒術の光が消えた。と同時に彼女は怒鳴る。
「あっ! はいっ! ただいまっ!」
その声にサンドラが慌ただしくその場を駆け去った。脱水している患者に少しでも水分を取らせたいのだろう。このあたりでは貴重な塩分と砂糖を混ぜた贅沢な水である『経口輸液』もハナコが発案して作らせたものだ。それらは確かに脱水の患者には良く効いた。
倒れている男は紅蔦病の末期患者だったとは思えないほど綺麗な肌をしていた。今は意識を失ってしまったのか目を閉じているが呼吸は規則ただしい。しかしそれと同時にハナコの左腕は急に力を失ったようにがくん、と床へと落ちた。
「……っ! 彼をベッドへと運んでくれ、薬も飲ませられるようなら飲ませたいが、まずは水分の摂取を優先して」
「言ってる場合か!!」
怒鳴ってレンはハナコへと駆け寄った。左腕は酷い裂傷と火傷を負っていて大量の血を流している。
(これは……)
「アルコールと、……焼きごてをもってこい! すぐに!」
「は、はいっ!!」
ばたばたとスタッフの一人が駆けていく音がする。
(傷口が大きすぎる。焼いて塞ぐしかない)
縫って塞ぐにはあまりに出血量が多すぎる。ひとまずすぐに焼いて傷口をふさぎ、これ以上の出血を押さえるのが優先だろう。
とはいえ縫える部分も存在する。
レンは手にもっていた救急箱から針と糸を取り出し、小瓶に入ったアルコールで素早く消毒すると残りは傷口にかけて血と汚れをある程度荒い流し、可能な場所から縫い始めた。
「ふふふ、びっくりするくらい痛くない」
「黙ってろ!」
額から冷や汗をだらだら流しながらもいつもと変わらぬ笑みを浮かべてそううそぶくハナコにレンは怒鳴る。
痛みを感じないなどそれはまったくいいことではない。むしろそれだけ内部まで損傷があるかもしれないということだ。
レンは慎重に傷口を縫い進める。
「レン様! 焼きごてとアルコールです!」
「焼きごてを一度アルコールに浸せ! それから熱してくれ!」
「はいっ!」
後ろで作業している音がする。紅蔦病だった男もどうやら無事にベッドに運ばれたようだ。
「おまえ、なんであんな真似をした」
「あんな真似とは?」
ぼんやりと傷口が縫われるのを眺めているハナコにレンは尋ねた。質問に返される質問にレンはいらいらと怒鳴る。
「無傷ですまないことくらいわかってただろう! こんなの運がよかっただけだ! 死んでいてもおかしくなかった!!」
「そうだな」
「そうだな、だと!?」
レンのいらだちは止まらない。初めて会った時もそうだった。盗賊に襲われていた時、レンもロランに付き従ってあの場にいた。そして目の前のこの女はその自分を襲った盗賊の治療を優先して倒れたのだ。
「自分の命を惜しいと思わないのか!! 無関係な人間を助けて……っ! それもおまえのことを信用しなかったせいで手遅れになった奴だ!! おまけにおまえっ! おまえのこと襲った盗賊にも同じことしただろ!!」
「わたしは医療従事者だ」
レンの言葉に彼女はうろんな目を向けてそう告げた。
「医療従事者は等しくすべての人に治療をおこなわなくてはならない。善悪で人を区別して助ける助けないを決めるというのは、ともすれば好き嫌いで人の生き死にを判別することにつながる」
「だからって……っ!」
「命の選別をするのは神の仕事であって、わたしの仕事じゃない」
サファイアの瞳がゆっくりと瞬きをしてレンのことを見た。その温度にレンの背筋は凍り付く。
それは凍えるような冷たい瞳だった。
「おまえ、おまえは……、すべての人間を平等に愛せるとでもいいたいのか?」
「いいや?」
「ただわたしはわたし自身の判断を信じていない。この判断は正しいのかと考える時間の間に一人でも多く治療できるかもしれない。だからわたしは迷わないためにすべての人を治療するとあらかじめ決めている」
「…………っ!!」
「要するに、ただの責任放棄だ。わたしは助けないという選択に責任を取りたくない」
(責任放棄だと? これが……?)
ぼろぼろになった左手を握ってレンはうめく。
「責任放棄ならすべてを助けなければいいだろう」
その押し殺した声にハナコは小さく笑った。
「なにがおかしいっ!!」
「いやすまない。きみは優しいな」
ハナコのサファイアの瞳がふわりと微笑んだ。その瞳はもうさきほどの凍えるような温度ではない。
「これはわたしのエゴだよ。自分が医療従事者であるという誇りを守るためのただの自己満足だ」
(そのためだけにためらいもなく自分の命を投げ出すのか?)
レンはぞっとする。レンにはそんなことは無理だ。さきほどだって周囲の安全のために指示は出せても身体を張って爆発を止めるという判断はとっさに出なかった。
当たり前だ。そんな判断がとっさに出る方がおかしい。そんな考え方をする奴はそれこそ自殺志願者か、
「おまえ、頭おかしいよ」
狂っているやつだけだ。
「そうかもな」
ハナコは笑う。その笑みに含まれているものがなになのかはレンにはわからない。
「レン様、焼きごての準備ができました」
「……ああ」
レンはうなずいてそれを受け取る。周りのスタッフが気を利かせてハナコに布をかませた。
彼女の微笑みは不気味だが確かに美しかった。




