夢の治療院
「それで、さきほど治療院という話がでたが……」
なんとかダメージから立ち直ったロランがそう口火を切った。さきほど花子が『自警団か治療院に移行していきたい』と言った件についてだろう。彼はまだ気まずげにごほんごほんと咳払いをしているが、それどころではない。
花子の目がキラリ、と光った。
「いいのか!?」
「うん?」
「その話を勧めて良いのか!?」
そう言うといそいそと花子は分厚い羊皮紙を取り出した。そしてテーブルの上めいっぱいに広げてみせる。
「ひとまずはこれを全部やりたい!」
「ひとまず……?」
「今時間はどれくらいあるかな? 説明にそれなりの時間がかかるのだが……」
「あー、うん。とりあえず手っ取り早く手のつけられるところから分割して聞こうか」
「『手っ取り早く手のつけられるところから』……」
花子はしばし悩む。
「では、消毒と衛生環境からだろうか……」
「『消毒と衛生環境』とは?」
その問いかけに花子は自信満々に胸を張って見せた。
ナイチンゲールという人物を知っているだろうか。
彼女は看護師の祖にしてパイオニアである。名前を聞いたことがある人も多いだろう。
そしてそんな彼女が作り上げた功績の中に「衛生管理」が存在する。
彼女はその徹底した衛生管理により、患者の死亡率を大幅に引き下げたのだ。
今や日本では清潔な環境やアルコールによる消毒は常識である。細菌やウイルスの存在を知っているのだから当然だ。
しかし当時は常識ではなかった。
細菌もウイルスも目には見えない。そして目には見えない物の立証は難しい。
それはこの世界でも言えることだ。
(でもナイチンゲールは天才だった)
実は彼女は優れた統計学者である。
ただなんとなく、「いや、なんか清潔にしたほうがよくね?」と考えたわけではなく、実績のある数字に基づきそれを分析、実行さらにはわかりやすくプレゼンテーションしたのである。
これのどんなに偉大なことか。
これにより片方の患者を不潔な環境下で、もう片方を清潔な環境下で治療する、などという人非道的な人体実験で実証することなく、『衛生環境を整えた方が死亡率が低下する』ということを科学的に明確な数字で示して見せたのだ。
彼女のその卓越したプレゼンテーション能力と統計学の知識により、国が動き現代の看護体制が築かれたのだ。
これのどんなに偉大なことか!
(とはいえ……)
花子は凡人だ。そして生粋の文系である。
こんなエクセルどころかパソコンも電卓も存在しない世界で統計などできるだけの計算能力はない。
そして細菌だのなんだのという概念を信じ込ませるだけの根拠も花子は持っていない。
事実、リジェル王国にいた頃は誰も花子の話など信用してくれず、最初はなかなか苦労したのだ。
(しかし問題はない!)
それでも花子はリジェル王国で衛生環境の大事さをきちんと布教できたのだから。
その時に有効だった伝家の宝刀をここでも使う時である。
花子は自信満々に告げた。
「女神様からのお告げで、環境や傷口を清潔に保つことにより感染症が移る確率や死亡率が低下すると言われたのだ」
その場にしばし沈黙が落ちる。ややしてロランは首をひねった。
「いや、それだけじゃちょっと根拠が弱いな」
「え」
花子はきょとんと首をひねった。
「だめか」
「うん、いや、きみを疑うわけではないが、説得力が弱いな。できればもう少し説明が欲しいんだが……」
眉をあげる。
(説明など……)
リジェル王国では誰も聞いてはくれなかった。花子の言葉は『女神からの託宣』以外の価値はなかったのだから。
「部下に説明して実践するにしても、ある程度の理由がないとな……」
しかしどうやらこの国では違うらしい。
「そうだな、前世の話を元にした説明になってしまうが、それでもかまわないか?」
少し躊躇しつつも花子はそう尋ねた。それに彼は静かにうなずく。
「ああ、かまわないよ。それが適切なものであるかどうかはすべて聞いた上で判断しよう」
その瞳はどこまでも真っ直ぐで、けっして花子のことを幼い小娘だからと馬鹿にするような色は含まれていなかった。




