英雄ロラン・グラッド
荒れ地に地響きが鳴っている。
馬に乗って鎧を着た騎士や歩兵達がめいめいに自らの守護精霊を武器へと変えて構えていた。
双方の隊列が見合っている。片側にはジェダイト帝国の国旗が掲げられ、もう片側にはリジェル王国とアゼリア王国の国旗が掲げられていた。雄叫びとともに双方の軍が衝突する。ーーその寸前、
雷鳴がとどろいた。
青い稲妻が走り、駆けていたジェダイト帝国側の兵隊達を吹き飛ばした。その稲妻の放たれた先、そこには銀色の槍を構える男が立っていた。
(ああ、そうだ……。わたしは彼を知っている)
後方で怪我人の治療をしていたその拠点にふいをついて攻め込まれ、取るものも取れずに逃げ出す途中でかばうようにして到着したアゼリア王国の軍隊の中に彼はいた。
「アゼリアの悪魔」
誰かがそうつぶやくのが聞こえた。
視線を向けたそこには、黒い短髪に紅に輝くの切れ長の瞳をした精悍な青年が立っていた。
(あの戦で武功を立てた将軍だったのか……)
『帝国戦争』と呼ばれるあの戦争。過去の夢から目覚めて、ぼんやりとエレノアはベッドの天蓋を見上げた。そのままむくりと身体を起こすとそのまま布団から抜けだして窓を開ける。
(でも目の色が違ったな……)
今の彼は透き通った水色だが、戦場での彼は鈍く輝くような紅の瞳をしていた。
それこそ、女神教の聖書に載っていた邪教の悪魔のように。
(まぁ、それは仲が良くなってからおいおい聞けばいいか)
見上げた夜明け前の空はまだ薄暗かった。けれどわずかに朝日がのぞいており、東側の空は白み始めている。
領主であるロランの屋敷は小高い丘の上に立っていた。エリスフィアの領地は一部を崖に、そして一部はリジェル王国へと続く森に囲まれている。崖の一部にはぽっかりと洞窟が空いており、その光景には見覚えがあった。
確か乙女ゲームではあの洞窟を超えた先に『試練の塔』と呼ばれる女神の祝福を受けるための塔があったはずである。
(洞窟を超えていくのは確か『第三の塔』だったか)
アゼリア王国に七つある試練の内のひとつだ。
視線を移すと見下ろした街並みではもう人々が活動を始めているのか食事を作るための煙などがぽつぽつと上がり始めていた。
(思いのほか清潔な道だ)
町の中心に位置する広場やそこから伸びる街道を見ながらエレノアはぼんやりと思う。エレノアが幼い時のリジェル王国の王都は酷かった。衛生観念というものがなく、街中にはゴミや汚水が垂れ流されていたものだ。それを聖女に任命された六歳の時から十年ほどかけて汚染は疫病の原因になると説いて回り、街道や広場を掃除する清掃員を国家予算を使用して増員することを了承させ、最近ではとても清潔な街並みへとなっていた。
しかしこの町はそんなことをするまでもなく、かつての王都よりは遥かに清潔だ。
(田舎だからかな……)
不思議に思って尋ねたエレノアに、ロランは「排泄物の類いは肥料にしている」と言っていた。王都には畑などがないからそのまま垂れ流しだったが、このような場所では貴重な資源として一所に蓄えているようだ。
そしてもう一つ。ここエリスフィアでは少なくとも傷口をアルコールで消毒する、という観念はあるようだった。
エレノアの治療をしてくれた男は医師というわけではなく、普段は兵士をしているらしい。治癒術師が幅を利かせるこの世界では、一応『医師』と呼ばれる者はいるものの、その地位は果てしなく低い。怪我は魔法で治すのが主流であり、病気は魔法と、たまに薬師が対応する。そして魔法を使うまでもないかすり傷のみが医師の治療の範囲となる。治癒魔法を使える者がいない田舎の地域でのみその需要はあった。
エレノアには治癒魔法が効かない。エレノアだけではなく、治癒魔法を使える者には元々治癒魔法が効きづらい傾向があり、これは治癒魔法を使う度にその魔力が自身にも降り注ぐことにより耐性がついてしまうためではと言われていた。そのため自分より魔力もその威力も強い治癒術師に魔法をかけてもらえば効きづらいものの効果がみられ、だいたいの治癒術師はそうやって対応している。
しかし『聖女』であり女神から授けられた治癒魔法の力を持つエレノアは自分よりも強い治癒魔法の使い手になどこれまで会ったことはない。
結果として、エレノアが病気にかかれば薬師に対応してもらい、怪我を負えば医師に対応してもらうしかないのだ。
(リジェル王国では祈祷師が来ることもあったな……)
ひたすら魔法ですらない呪文をそばで唱え続けられたり、謎の儀式につき合わされたり、ほんのちょっとだが『瀉血療法』と言われ、特に膿みを出すとかいう理由があるわけでもないのに無意味に出血させられたこともある。
そう言う意味でいえば、傷口にワインをぶっかけて矢を綺麗に抜き取り、焼きごてで傷口を焼いて止血するという対応を取ってくれた今回の主治医はかなり上等な部類であると言える。
(めっっっちゃ痛かったけど!)
なにせノー麻酔である。普通に死ぬほどの激痛だ。
救いは一番痛いところの処置はエレノアが気を失っている間に終わってくれていたことだろうか。
(とはいえ……)
はぁ、とエレノアはため息をついた。
衛生問題も治療法も良い方ではあるが、それはあくまで『かつての王都』と比べての話であり、花子の生きていた現代日本には遥かに劣る。それにこのエリスフィアにも完璧に衛生や治療方法が行き届いているわけでもないようだ。
レンと名乗った治療を行った兵士は、その方法は兵士達が戦闘で怪我を負う中、経験則で築き上げられた手法だと言っていた。
あまり一般的ではないと思う、とも。
(ロランはここに滞在してもいいと言った)
エレノアは街並みを眺めながら思案する。
エレノアの目的はケイトが安全に過ごせる生活拠点を築くこと、そしてエレノアがこれまでと変わらず医療従事者として過ごすことだ。
(あとついでに女神に布教も頼まれていたか……)
やらなかったところで夢で文句を言われるだけな気もするが、一応形だけでも布教するそぶりは見せた方がいいだろう。
「まずは、仕事をもらいついでに治療環境を整えるか」
にやり、とエレノアは朝日を浴びて何かをたくらむように不気味に微笑んだ。
「予習はもうすでに済んでいる。今回はもっとスムーズに行くだろう」
なにせエレノアは故郷リジェル王国ですでに一度、衛生問題の解決と治療システムの構築を行ってきたのだ。
「まずはこの町をわたしの望み通りに改造してくれる! ふっふっふ! はーはっはっはっは……っ!!」
窓のカーテンを手で振り払い、エレノアは高笑いを響かせた。それはしらけた目をしたケイトが「お嬢様、近所迷惑でございます」と扉を開けて注意するまで続いた。
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