エレノア・ホワイトは聖女だった。
よろしくお願いします。
これは『とある乙女ゲーム』が開始する約150年前のこと、
現代日本の技術と知識をもちい、たった一人でその世界の文明レべルを500年以上引き上げ、
意図せずその『乙女ゲーム』の舞台を作り上げてしまった、一人の少女がいた。
これは、彼女が女神に×××××するまでの物語。
*
それは蒸し暑い真夏の夜の出来事であった。
「そこのきみ、よければ傷の具合をみてあげよう」
そう声をかけたのは水色の髪をした少女だった。
彼女は治癒術師特有の真白いローブへと身を包み、草むらからふらりと現れた。ともすれば夜の闇の中に浮かび上がるその白い姿は、少女の美しさも相まって幽鬼にでも見えそうだったが、彼女の浮かべた柔和な笑みと態度が不思議と警戒心を呼び起こさせない。
サファイヤのように青い瞳がにこりと微笑む。
「近づくな」
しかし木の根元に横たわった黒い影は鋭い声で拒絶した。
ぐったりと横たわった彼は元々は精悍な顔つきをした青年だったのだろう。しかし元々は上等な礼服だったであろう服は泥で薄汚れ、短い黒髪はぼさぼさに乱れていた。そして何よりも目元から走る赤い蔦が絡まるようなアザにより元の姿はもはや見る影もない。
その赤い蔦は首を伝って全身へと広がっているようだった。
その側には彼に付き従うようにして精悍な銀色の毛並みをした大型犬が歯をむき出しにしてうなっていた。
「魔力が暴走しかけている。危ないから逃げてくれ」
しかし横たわる彼から放たれる声音は理性的で諭すようだ。その淡い水色のの瞳には知性と諦観を宿している。
「そうかい」
「おい」
しかし少女は小首をかしげるとその男の忠告を無視してひょいっと近づいた。思わず非難の声をあげる男に少女はにこりと笑う。
「これ、紅蔦病だね。体内の魔力がなんらかの原因で暴走してしまうと起こるという。都市伝説ではこれが原因で街が一つ滅びたとか聞いたことあるよ、ふっふっふっ」
「わかっているのなら……っ」
「ここまで全身に紅蔦が広がっているということは随分と長い間耐えてきたのだろう? なら、あと数十分は頑張れるはずだ。さあ、我慢して身体を差しだしたまえ」
そのあまりに軽い物言いに呆気に取られる男に、彼女はふいに幼い子どもに向けるように優しげな表情を作った。
「大丈夫。あともう少し我慢してくれれば、ちゃんと治してあげるよ」
なんの根拠もない言葉なのに、その声は確信に満ちて不思議な説得力があった。思わずそれに男は全身の力を抜く。
少女はそれを見てとると、裾が汚れるのもかまわず男のすぐそばへと膝をついた。そのまま背負っていた荷物の中から治療道具と思しき包帯や薬などを取り出してならべ始める。
「どうしてこんなことを?」
「実はわたしは聖女というやつでね」
「……それは、慈悲深いことだ」
男はあきれたように吐息で笑った。それにちょっと困った顔をして彼女は言う。
「いやぁ、慈悲とかはちょっとないね」
「え、ないのか?」
「ないねぇ」
ーー沈黙。
周囲からはフクロウがホウホウと鳴く声がした。
「じゃあなんで助けてくれるんだ?」
男はなんとか気を取り直したように尋ねた。しかしそれに少女はにこりと意味深に笑うだけだ。
「助けるとかも特にないねぇ、私は治療をするだけだから」
「それは助けるのとは違うのか」
「違うね。ただの業務さ。君は自身の仕事に意義を見いだしているのかい?」
「ああ。領民が穏やかに暮らし飢えないために務めているつもりだ」
「……なるほど?」
真剣に告げる男に少女は皮肉気な笑みを浮かべた。しかしそれも一瞬のことで彼女はすぐに治療へと戻る。
「それは良いことだね。君は人に愛され、人を愛しているのだろう」
「おまえは違うのか」
「さぁてね」
少女は顔をあげない。てきぱきと男の身体の様子を診察し、状態を確認していく。
「それを決めるのは私ではないよ」
「……でも俺はおまえのことを愛するだろう」
その男の言葉に、そこではじめて少女の手は止まった。
「……は?」
呆けた顔で男のことを見上げる。男は生真面目な色をその水色の瞳に乗せて、彼女のことをまっすぐに見返した。
「よしんばここで命が尽きたとしても『見捨てずに治療を行ってくれた』、それだけで感謝するのは十分だ。おまえは人に感謝され、慕われ、愛されるのに値する人間だ」
「あー……そういう。なるほどなるほど。まぁ、ありがとう。しかしさっきも言ったみたいに私はそんなにご大層な人間ではなくてね。善人でもないんだ」
「謙遜か?」
「事実だよ。ただの義務感で『聖女』という仕事を遂行している」
「ではおまえは聖女でなくなったらもう治療をしないのか」
「さてねぇ」
男のそのぶしつけな、しかし全く悪意がないのであろう純粋な問いかけに彼女は困った子どもの質問に答えるように笑った。
「どうだろうね、でも私にはこれしかないんだ」
「これ?」
「これ」
そう言って彼女は手を空へ向けた。羽ばたきとともにその手に何かが降りて留まる。それはカラスだ。暗闇に紛れて見えなかっただけで、その真っ黒な鳥はずっとそばにいたらしい。彼女が手の向きを変えるとその姿が指揮者のタクトのような黒い杖へと変わった。
その杖の先が男の肌、一番紅い蔦に覆われた目の下へと軽く触れる。と同時にぽうと小さな光がそこから生まれ、それは徐々に蔦の痣を伝播するように全身へと広がりやがて粉々に砕け散るように消えた。
「……っ、これは」
それと同時に男の全身から紅い蔦のような痣は消えていた。自分の紅く無くなった腕の皮膚をためつすがめつ眺める男に、少女はこてん、と首を横にして話す。
「聖女じゃなくなったら……、うーん、そうだねぇ。なにかこの技能が活かせそうな別の仕事につくかな、医者とか薬師とか?」
「……。おまえならなんでもやっていけそうだが、……もし今の仕事が嫌になったら俺に相談するといい」
「え?」
予想外の提案に少女は目を見開く。それに男は姿勢をただすと深々と頭を下げた。
「おまえは命の恩人だ。この恩は必ず返そう」
「いやいやいや、まぁそれはいいけど、『もし今の仕事が嫌になったら』って……」
「あまり楽しそうに見えない口ぶりだった」
「…………」
「だから嫌なのかと思ったんだが、……違ったか」
男のその真剣な言葉に、彼女はしばし黙り込んだ後、小さく吹き出した。
「『聖女』以外の仕事を頼まれたのは、この人生では初めてだね」
「そうなのか?」
「なにせ私が聖女として働くことで恩恵を受ける者はたくさんいるからね。それにまるで職業選択の自由があるかのような提案も初めてだ」
その言葉に男は何かに気づいたような顔をした後、すまなさそうに眉を下げた。
「責任のある立場だろうに、軽率なことを言ってすまない」
「いやいやいや、謝ることはないよ。ふふふ、検討しておいてあげよう」
彼女はまんざらでもなさそうに笑うと薬と水筒から出した水で溶き、それを男へと差しだした。
「病は治っても失った体力や魔力は戻らない。魔力が暴発しないようにそこそこの魔力を空気中に発散させてもらったからね。しばらくはこの薬を飲んで安静に過ごすといいよ」
「……感謝する」
男はその薬をためらいなく飲み干した。それを見届けて彼女は立ち上がる。
「きみ、隣国の者だろう。この国の者に見つかる前にさっさと行くといい」
「なぜそれを……っ」
「着ている服に聞いてみるといいよ」
そう言って指さした男の服には刺繍が施されていた。それはよく見ると飾り文字になっており、それは隣国、アゼリア王国の文字だ。
「あ……」
「君はもう少し警戒心をもったほうがいい。おおよそ、周囲に被害をもたらすくらいなら自国ではなく微妙な仲の隣国でと思ったのだろうけど。兵士や騎士にでも見つかったらスパイと疑われても仕方がないよ」
「あ、いや……、隣国でとまでは考えていなかったんだが……。人気のないほうへと進んだら国境を超えてしまったんだ。すまない。迷惑をかけるつもりはなかった。謝罪する」
「はぁ……」
男のその『お人好し』な言葉に彼女は目を細めるときびすを返した。そのまま立ち去ろうとする背中に男は声を張り上げる。
「俺はロラン! ロラン・グラッドだ! こっちは相棒のアーロだ! この恩は必ず返す!」
「期待しないでおくよ」
振り返りもせずに少女は手をひらひらと振ってその場を立ち去った。
ーーというのがつい先日の出来事である。




