静かな深緑
森を後にしようと歩き出す。
良い場所には違いないけど、理想とは少し差異がある。
何しろ水場には近いが、人の高さ十人分以上の高低差は地味に面倒くさい。
しかもここはこの黒い獣の縄張りのようだ。
うん?
この?
後ろからたすたす聞こえる足音に、心配しなくても、すぐにここから立ち去るから安心しろと振り向いた。
『おまえ、呪術師か?』
いや、魔女だよ。
『まじょ? まじょってなんだ』
こちらを仰いでいる大犬と、横に並んで一緒に川沿いを歩いた。
朝日に照らされて、きらきらと白い光を跳ね返す。
思わず艶々の毛並みを撫で回したくなって、その背に手を置いた。
つるつると毛並みに沿って、反対向きに逆撫でて、みっしりとした毛皮の感触を繰り返し楽しんでいると、どしりと体当たりをされる。
よろけて倒れると、上からのしかかられた。
太くて立派な尻尾がぐるんぐるん回っている。両耳もぴんと立ち上がって、大きな口からは鋭い牙が見えていた。
これでもかと顔を舐められる。
ちっとも嫌な気がしない。
それで犬派なのを思い出した。
どうして付いてくるんだい?
『いくとこないからな!』
そうかいと首の周りの毛皮をぐりぐり揉む。
『なあ、まじょ! いっしょにいてやってもいいぞ!』
もう一度そうかいと笑って、お互いの鼻先を当てる。
またべろべろに顔を舐められた。
黒い獣は呪術によって作られたものだった。
この大犬は何かしらの血と肉とを媒介にして、呪と術とでこの世に存在する。
術師が明確な理由を持って作り出した。
愛玩用でないことは、この見た目と、力の強さで知れる。闇に紛れる黒、大きな牙と、鋭い爪。なかなか死ねない丈夫な身体。強そうな忠誠心。
用が済んで棄てられた。
ぶつける方向が無くなった忠誠心は、ひとりの小さな女の子に向かい、その後にはなかなか死なない魔女に向かう。
『なあ、まじょ! 俺になまえをつけろ!』
呪術で作られたものには定義が要る。
己が己として在る為に。
この世に存在する証として。
ううんと唸って魔女は笑う。
魔女に名をつけさせるなんて、正気の沙汰ではない。
呪術はそのほとんどが他力本願仕様だ。
材料と手順を知ってその通りに料理するようなもの。
呪術師と魔術師とは根本的なところから違う。
魔術師は己の体の中にある魔力で呪と術を作り、最後の発動にだけ、いくらか世界から力を借りる。
母体が乳を作るようなものだと簡単に説明した。
魔女から名をもらうということは、その名の中にも呪と術が混ざる。
魂は魔女に縛られて、どんなに抗っても逃れることは出来ない。
『べつにいいぞ! おまえとずっといっしょなんだな! おまえ、いいにおいだからすきだ!』
自分の襟元をつまみ上げて、鼻の前に持っていく。
ここしばらくはまともに体を拭くこともしてなかったけどな、と匂いながら首を傾げた。
『草とおいしそうなにおいがするぞ!』
草? ……ああ、いくらか持っている薬草の匂いか。しかし美味しそうな匂いとは? 肉? 肉的な意味でか?
『カッコいいなまえにしろ!』
魔女に名前なんてつけさせたら、使い魔になってしまう。
自分でつけなさいよとわしわし撫でてやる。
『つかいまってなんだ!』
なんでも言うことを聞かないといけなくなる。嫌なことも、嫌だと思いながらしないといけなくなる。絶対にだ。やらない、は、出来なくなると教える。
『いいぞ! 俺、つかいまやってやる!』
尻尾が持ち上がると、ぐるんぐるん凄い勢いで回りだす。
大きな頭がぐりぐりとみぞおちに潜り込もうとしてくるので、軽めに内臓を吐き出しそうになった。
持て余した忠誠心を満たしたいのか。
主人の命令を聞くことが、この大犬の喜びなのかと理解した。
主人が生きている限り、使い魔には尽きることなく魔力の供給は続く。
それと引き換えに主人が死ねば、使い魔は死ぬ。
それでもいいのかい?
『おまえが死んだら、俺も死ねるんだな! いいぞ! わかった!』
ひとつ頷いて体の中で呪と術を練り上げる。
カッコいい名前か。
どうすっかなぁ。
そうだな。
強くて固い結び目を作ってやろう。
解けたり切れたりしないような、丈夫な繋がりを。
お前の魂を繋いで縛って、己の死を喜びと感じないように、この世界に定着させてやろう。
閑寂の魔女はにこりと笑う。
魔女の名の所以は、言葉を発さないことにあった。
声にすると、音に乗せると、余りに魔力と世界の力が渦巻く。
その力はこの世の全てを無に返すだの、この世に命を謳わせるだの。
本人にすら終に予想がつかない。
人々は魔女を怖れ、畏れて、やっと道具としての彼女を手放した。
人の世は生きにくい。
人でないものには特に。
どうせ人の多いこの世界から外れるなら、楽しく外れることにしよう。
魔女と闇の色の使い魔、とても良いじゃないか。
魔女はこれまでも、これからも、余程のことがない限り、言葉を紡がないと決めている。
これはその余程のことに入れてもいい。
「……私の使い魔。お前の名は ノアル 」
ぴんと耳を立てたノアルに、唇を寄せて囁いた。
獣なら充分に聞こえるだろう小声に抑えて。
主従の証に、魔女の本当の名も告げる。
『おい、ご主人! いっこじゃダメだ!』
うん? なにが?
『ダメだっていってる!』
うん? 誰が?
ノアルはぶるりと一度大きく身体を震わせると、そのまま足先から細かな震えを全体に走らせていく。
水浸しの毛から水を振るい落とすように。
震えると黒い毛があっという間に抜けて、目の前は、黒い霧か煙かと思うほど辺りに散った。
抜け落ちた黒い毛は、すぐに霧や煙のように空気に溶けた。
「……俺にも名前がいるぞ……」
誰だお前。
黒いもこもこどこ行った。
ノアルのいた場所には、にやりと笑う男がおり、ノアルのようにゆったりと詰め寄ると、ノアルのように鼻先を合わせ、ノアルのように首元に顔を埋めた。
べろりと舐められて、耳たぶをかじられる。
「ノアルはノアル。俺は俺……同じ魂にふたりいるんだ。……俺にも名をくれ?」
半獣半人か……聞いてないぞ。
くそ。責任者はどこだ。
「おい違うぞ、半人が先だ。半人半獣……こっちが本来の姿だ」
なんだよ。人とか聞いてないぞ。
返品だ、返品!
本来が人なら本来の姿でいろよ。
なんであんな、黒くてもふもふのかわいい姿で、コノヤロウ。そしたら使い魔になんか!
「……森で生きるにはノアルの姿の方が楽だからな」
確かにおっしゃる通りだよコノヤロウ。
「……しのごの言わずに名前をつけろよコノヤロウ」
いやだ! 人の使い魔なんか!
しかもお前、細かそうだし、口うるさそうだし、面倒くさそう!
「一見しただけでよく分かったな……さすが俺が認めただけのことはある。……いいから早く名を考えろよ。俺とも繋がりを結べ」
っええええ?
ノアルとは良いけど、お前はなぁ。なんかヤだなぁ。
「……おい。そんなこと言っていいのか。お前、俺が獣だと油断して俺に真名を教えただろう……俺がお前を縛ってもいいんだぞ」
うわ、ほら面倒くせぇ!!
なんで関係をややこしくさせるんだ。
「……だから俺の方を縛れって最初から言ってるだろ」
うわ、気持ち悪っ。
「……お前は美しいな。前の主人はくっそジジイだった。……楽しくなりそうだ」
やだ、えぐい。
「……さあ、名をくれ」
うーん……ちくしょう。
ノアルの名を考えていた時に浮かんでいたもうひとつの名前があった。
ノアルにはちょっと合わない気がして、つけるのをやめた。
ぜんぜんもふもふしていない男の方には、ブレイユと名を付けた。
ブレイユは嬉しそうにふはと笑い声を上げて、起き上がる。
地面に座り込んだままだったのを、子どものように抱き上げた。
そのまま楽しそうに、再び川辺を歩き出す。
「おい、ご主人……ノアルのように声に出して言えよ」
べろべろべー。
服も着てないやつが贅沢言ってんな。
「ああ、そうだな。このままじゃただの変態だから、服をくれ」
当店には男物の服は取り揃えてねーわ。
「……町で手に入れるしかないのか。よし、町に行くぞ」
その姿でか。筋金入りの変態じゃねーか。
買ってきてやるから、下ろしやがれ。
「……くそ」
おいなんだ、今の舌打ち。
ちゃんと似合いそうな服を用意してやるって。
心配すんな、趣味は良い方だぞ。
「……違う。俺はご主人が選んだものに文句は言わない。……ただ……ノアルは化け物だし、俺はこの成りだし……だから……一緒に町に行けない……」
お。……おおう。
まぁ、そんなしょげるなよ。
すぐ帰ってきてやるからな。
「…………本当か?」
ぎゅむりと抱き締められたので、お腹の辺りにあるブレイユの頭をよしよしと撫でてやった。
そっと地面に下ろすと、またぎゅうぎゅうと抱きついてくる。
小さな子どものように。
まあ小さな子どもは首に口付けたり、かぷりと噛み付いたりしないけど。
それからはふたりであちこち旅をしながら、納得のいく場所を探した。
いく先々で転移門を残してきたので、その甲斐あって世界中のあらゆる場所に転移できるようになった。
見付けるまでに年月はかかったが、そもそもふたりには時間の制限がないので、基本的にのんきな旅だった。
ここだと決めた場所は、やはり深い深い森の中。
ふたりで住むのに丁度良い大きさの家を探して、まるっとそこに移動させる。
間違って人がやって来ないように、周囲に目隠しと、結界を張り巡らせた。
引きこもりは万全の体制になり、やっと穏やかな日々が始まる。
「ご主人……ちょっとこっちに来て、ここに座れ」
え、なに説教?
用事があるならブレイユの方が来てってば。
ふんと鼻息で返事をすると、床に寝転がって本を読んでいた所から、持ち上げられて長椅子に座らされた。
ブレイユに抱っこされたまま。
「なぜ床に寝転がる」
別にいいじゃねーか。
毎日きれいに掃除してるだろ。
「俺がな」
毎日仕事があって良かったねぇ。
ブレイユは生来の真面目さと賢さで、あっという間に家事を覚えて、見事にこなしている。主人よりも手早く、何をするにも丁寧だった。
「……そうだな、それはいい。それはいいが、床ではなくて、ちゃんと椅子に座れ」
ノアルは床でごろごろしても怒らない。
むしろ床に寝そべるノアルを枕と、もたれ掛かって、そのみっしりした毛皮に包まれて本を読むのがお決まり。それは至福でしかない。
ノアルがいいなぁと思いを込めて見上げると、ブレイユは遠慮なく盛大に舌打ちをした。
「……お前……ご主人コノヤロウ。かわいがり倒すぞ」
新しい種類の嫌がらせを発明したブレイユは、抱きしめながら撫で回すという器用な技まで繰り出した。
「なぁ……ご主人……腹が減ったろう? 俺が何でも好きなもの食べさせてやるから……食べさせろ」
甘っちょろい声を元に戻してくれ、それから口付けをやめてくれ、くすぐったいから。
そう睨み返すと、ブレイユは口の端を片方だけ持ち上げる。
「何が食べたいんだ? ご主人」
耳を甘噛みしながら囁かれ、長椅子に押し倒される。
うーんと唸りながら考えている間も、ブレイユは髪を撫でたり指で弄んだりと忙しそうにしていた。
「……早く決めないと俺の方が先に食うぞ?」
本当はひっついているだけで充分だ。
べたべたに触ったり、噛み付いたりしなくても、魔力は充分にブレイユに分け与えられる。
遠く離れていたってそれは可能。何の差し障りもない。
ないんだよ?
「……しつこいな。そんなに何度も説明しなくても解ってるよ。俺がご主人にまとわりつきたいだけなのをいい加減理解しろ」
何度もする説明に、何度も同じ返答をされるので、もう何だか色々を放棄したくなってくる。
それはそれで食事にありつけなくなるので、はと意識を持ち直して、ブレイユをぐいと押し退けた。
食べたいものを伝える。
にこりと笑うとブレイユは、改めてしつこめに口付けをしてから、ゆっくりと起き上がる。
「……分かった、待っていろ。俺の魔女」
頬をつるっと撫でてから、やっと長椅子から離れていく。
かわいくないなと、細くて長いため息を吐き出した。




