濁った灰色
色々な国の、色々な街を見てきた。
いくつもの時代も。
街も人も、衰退していく時は大体がこうだ。
濁った灰色に覆われて、湿気た嫌な臭いが纏わりついて離れない。
すれ違う人は皆、下から人を睨めあげる。
相手を値踏みするように、何も掠め取られはしないように、用心深く、怯えを悟られぬように。
見上げれば空は晴れわたった深い青。
街の人々は変わらずそこにある眩しさに気が付かない。
街も人も、廃れていく時は大体そう。
濁った色に目を取られ、近くにある美しさを忘れてしまう。
「てめぇ、何しやがる!! くそ!この……痛ぇな、このクソ女!!」
半分は腐って食べられなくなった果実を、それを売りつけた店主に、全力で投げてぶつけてやる。
籠の中には三つも入っていた。半分以上だ。
山に盛られた売り物の中から、美味しそうに赤く熟れた実を選んで籠に入れてやる。
「……ありがとう」
深く被った分厚い布の奥から、小さな声が聞こえてくる。
冷えた手を取ると、がなり上げる店主を無視して店を後にした。
「……助かったわ。いつもそうなの……ちゃんと料金は渡しているのに」
小走りで後を付いてきているのを見て、大股で歩いていた足を緩めた。
「あなたは良い人なのね」
彼女があまり目が見えていないことは、すぐに気が付いた。
それに乗じて腐ったものを売りつけている店主の、脂下がった嫌な笑い顔にも。
腹が立ったのできちんと腐った部分が当たるように、顔をめがけて投げてやった。
残念ながらひとつしか命中しなかったことを思い出して、今更ながら舌打ちをする。
「……あなたは? 口がきけないの?」
立ち止まって、向かい合うようにして顔を見る。
伸びてくる手を取って、自分の頬に当てた。
頷くと彼女は小さく、そうと言う。
「……私は生まれつき目が見えにくいのよ。明るいか暗いか、何かが有るか無いか……それくらいしか分からないの」
彼女はするりと布を頭から外した。
茶の巻き毛の奥には白っぽい顔がある。
目の周りは焼けて爛れたように、皮膚がくしゃりと寄っていた。
とても正直そうな、働き者の、気持ちのいい笑顔だった。
「どうもありがとう」
小さく首を横に振る。
目深に布を被り直すと、もう一度ありがとうと、腕にかけていた籠を少し持ち上げた。
布の奥に見える口元、にこりと笑っているのだけが見えた。
彼女は通い慣れた道をゆっくりと歩いていく。時折石畳のでこぼこに足を取られつつ、それでも転ばないように、ゆっくりと歩いていた。
背後の気配にため息を吐き出す。
先程から付いて来ているのは分かっていた。
だからあの女の子と早めに分かれることにした。
彼女の声はとてもきれいだったから、もう少しおしゃべりを聞いていたかったのに。
三人の男が周りを取り囲む。
強引に腕を掴んで、細い路地の奥へと押し込もうと歩き出す。
「あの女は骨と皮ばかりだから面白くない……お前は違うな」
「口がきけないんだって?」
「くく……そりゃ好都合だ」
薄暗い路地の奥は、高い木塀で行き止まりになっていた。
塀に背中を向けさせて、そのままぐいと両肩を押さえつけられた。
ひとりが外套のフードを無理に剥ぎ取ると、男たちが息を飲み込む。
「おい……こりゃとんでもない上玉だな」
「どこのお嬢様だよ……こんな下町に何の用だ」
「悪い奴に捕まったらとんでもない目に遭うぞ、俺たちみたいなな」
いやらしく笑う男たちのひとりが、外套の留め金に手をかける。
その手を掴んで、ぐっと握った。
「何してる、そんな力じゃ止められないぞ」
「どうしたよ、叫んで助けを呼べばいいじゃないか……あ、そうか。お前声が出ないんだっけ」
つまらない冗談に、必要以上に声を上げて笑う。耳障りで苛つく声に、気を使う必要は消え失せた。
反対の手で男の首を掴む。
ぐりと喉仏を親指で押してやる。
「声は出ないが、出させることはできるぞ」
男の声は、向かい合っている女の言葉を発していた。
横にいるひとりが気味悪そうに、仲間と女を交互に見やる。
「お、おい……何言ってるんだ、お前」
知りはしないが、頭の奥底では気が付いているのか、喉元を掴んで伸びている腕に、目線を走らせた。
「叫べないが、叫ばせるのは得意だ」
首を掴んでいる男の喉を使って答えてやると、周りのふたりは後ずさって距離を取る。
喉を潰された男は、呼吸もままならず、苦しげな唸りを短く漏らしていた。
男の手がぶらりと横に下がり、膝ががくがくと震えだす。
「お……おい、お前、なに……」
「叫びたい奴から順番に来い……どうした? 最初はこいつか?」
喉を掴んでいた男の腕に視線を落とす。
とんと腕を叩くと、ごきごきと音をさせながら、あらぬ方向に腕が捻れていった。
喉を押されているのに、大きな叫び声が上がる。口からは涎と小さな泡が飛び散った。
「ぐ……ゔああ! 汚いな……!!」
思わず手を離して、男を突き飛ばす。
どさりと倒れた男を除けるように、残りのふたりは飛び退いた。
「……なんだ、どうやったんだ今の……」
「ま……魔女か、こいつ……悪魔の技だ」
魔女と悪魔の違いについて、こいつらに講釈垂れるほどヒマも親切心も持ち合わせていない。
面倒なので笑って見せてやると、男たちは口の奥で悲鳴を上げて、そのまま後ろ向きに走り出した。
倒れた男はそのまま放置されている。
一歩踏み出すと、慌てて前を向き、脇目も振らず、ふたりの男たちは一心に走り出した。
地に伏せている男を踏み越えて、そのままゆっくりと路地裏から出て行く。
街は変わらず濁った色をしている。
人々も何も無関心と通り過ぎていった。
道端に座り込んだやせ細った人たちの中には、子どもが混ざっている。
汚水の臭いが鼻をついて、足元を鼠が駆け抜ける。
道端いにる人間がいつになったら餌に変わるのかと、二本足で立ち上がり、鼻をひくつかせた。
戦はじわじわと国に衰退を呼ぶ。
戦勝国だろうと、関係はない。
一部の上に立つ者が虚栄心を満たすため、国民を蔑ろにした結果がこれだ。
早晩この国は無くなる。
ああ。
やだやだ。
濁って淀んだものばかり。
空気を吸うほど、息苦しくなっていくだけ。
人の多い場所にいることは、人でないものにはしんど過ぎる。
もうこの国にも王にも、返す義理も恩も無くなった。
そもそもこの契約だって、何代も前の王と交わしたものだ。
あいつは面白かった。それなりに良い王だったのに、まったく。残念な話だ。
別の国に行こう。
いっそ、昼と夜とが逆になるほど遠く離れて、誰とも会わなくて済むように、ひっそりと奥に隠れていよう。
……五十年ほどは、そうしよう。
国境の森なら、ずいぶん昔に印を付けてあるから、転移は簡単。そこより向こうは……どうだったっけ……覚えてないな。
記憶を辿ろうとしても、余りにも昔のこと過ぎて、肝心のことは思い出せない。
面倒になったので、とりあえず森までの転移門を開いて、そこをくぐり抜けた。
羈軛から放たれて、そのまま易々と国の境を越えていく。
閑寂の魔女は二度とその国に戻ることはない。
困窮した王がどれほど人を放ち探そうとも。
立ち行かず国を成さなくなろうとも。
支配国から逆に支配され返されようとも。
魔女は戻ってこなかった。




