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闇色の世界で、禁断の果実をほおばって 3話

「ちぃ……」


 ロシュの胸に開いた温かく湿った穴の奥で、蟲が小さく鳴いた。

 くちゅくちゅという微かな咀嚼音がすると、ロシュは嘔吐くような呻きをあげた。目が裏返り、ビクビクと手足が痙攣する。

 ここまでの一切を見ていたミハイだったが、遂に目を逸らしてしまった。

 あの蟲は、ロシュの心臓の壁を食い破って進入し、寄生する。ダンピールゆえに死ぬこともできず、生きながら味わう苦痛に、憐憫を感じずにはいられない。たとえ殺意を向けた相手であっても、恨みがあるわけでもなければ、なぶるつもりもなかったのだから。

 本人も希望したことであるから異存はあるまいが、ロシュにはもう、リディアの忠実なる下僕として命を捧げる道しかない。

 ミハイの口からため息が漏れた。彼の望むところではないが、これからの道行きは3人連れになる。ロシュという未知の要素は、ミハイを大いに悩ませるのだった。


 ミハイは壁際に移動し、椅子に斜めに腰かけた。見まいとしていたが、やはり気になってちらりと視線を送ってしまう。

 苦痛に悶えても、ロシュは全く抵抗しない。リディアを腹の上に乗せたまま、のけ反って喘ぐような悲鳴を上げていた。その体がガクガクと上下し、絶頂したように震えたあと、動かなくなった。

 苦々しく思いながらも目を離せずにいると、リディアがゆっくりと顔を起こした。唇に笑みを乗せ、目じりをほんのりと赤く染めて流し目をくれるのだ。

 ドクンと心臓が鳴り、息が詰まる。自分にもあの蟲が食らいついているような気がした。

 ミハイの目に映るリディアが二人に増え、三人に増え、そしてぐるぐると回り始めた。ぐったりとうな垂れ、瞼が落ちる。音が急速に遠ざかっていく。息が上手く吸えないと、頭のどこかで考えたような気がした。



 ミハイとリディアには、昼の世界にも夜の世界にも居場所がなかった。人間には化物と恐れられ、ハンターに追われる。ヴァンパイアからは貴種ゆえに求められ追われる。どこにも安住の地はなかった。

 ヴァンパイアは、人間はもちろん猛獣さえも遥かに凌駕する膂力を持ち、聴力、嗅覚、視覚もどんな生物よりも優れていた。恐るべき再生能力を持ち、たとえ飲まず食わずであっても衰えることはなく、永遠の若さを保つ。また、変身能力や、各々に固有の特殊能力まで持っていた。

 彼らは生き血を欲して人を襲うのだが、このとき血を吸い尽くして殺す場合と、眷属に加える場合とがあった。自らの血を与えることで、人間をヴァンパイアにすることができるのだ。

 そして、新たなヴァンパイアが次のヴァンパイアを作りだすことで、次第に増えていったのだった。

 血を分け与えることで、ヴァンパイアの能力も引き継がれていくのだが、代を重ねるごとに、その能力は急速に劣化していった。今では、貴種には遠く及ばぬ劣化種が街に溢れることになっていた。

 人間にとっては、劣化種も十分脅威なのだが、ヴァンパイアの頂点にして原点である貴種という存在は、減りはしても増えはしないことが、唯一の救いだといえる。

 実際、ハンターによって貴種が滅ぼされた例もある。だが、多くの貴種は健在であり、夜の世界と人間を支配していた。

 リディアとミハイを狙うスタン公爵も、その貴種の一人だった。中でも、高位とされる5大貴種の一人に数えらるほどの人物なのであった。



「ミハイ、大丈夫?」


 リディアに肩を揺すられ、ミハイは目を開けた。全身に冷たい汗をかいていた。意識を飛ばしていたことに気づき、慌てて部屋の中を見回した。

 ロシュが床に胡坐をかいて呆然と天井を見上げている。傷はもう癒えているようだ。気を失っていたのは、数分のことかとホッとする。


「疲れているのね。顔色が悪いわ。この頃、全然休んでないんだから」


 リディアは、不安そうにミハイの額の汗を拭きながら言った。


「お願い。自分の体のことも大切にしてちょうだい。あなたが死んだら、私も生きていられないわ」

「このくらいで死にはしない。それよりアイツが……」

「大丈夫よ。私のワームがしっかり見張りをしてくれるから」


 それでもミハイは安心できない。ロシュは、ダンピールのままでいたくない、リディアのようになりたいと言った。彼は貴種の血を欲しているのだ。

 リディアに言われて簡単に意思を翻しはしたが、信用はできなかった。蟲に寄生されてもなお、彼女の血を求めないとも限らないだろう。それほどにヴァンパイアの本能とは危険なものだった。

 そして今、別の危機も迫っている。

 スタン公爵の黒獅子騎士団を殲滅したロシュがここにいるということは、下手人を追って公爵の手の者が、いや、公爵本人が追ってくるかもしれないということだ。どんなに巧妙にまこうとも、貴種の嗅覚の前では無意味なのだ。

 全く疫病神だなと、ミハイは呟いた。


「小僧、ここに来る前に、せめて目くらましくらいはしたんだろうな。時間稼ぎになるか分らんが」


 陶然としていたロシュが、ぼんやりとミハイを振り返り、屈託のない笑顔で答えた。


「はい、とってもいい気分です。なんだか、新しい扉が開いちゃったみたいで」

「……ふざけているのか」

「なんていうか、生まれ変わったみたいな……いや、リディア様と深く奥までつながって絡み合ってる感覚っていうか……」

「もう、いい」


 ミハイが舌を打つと、リディアがクスクスと笑った。


「酔ってるみたいね。少しすれば正気に戻るわよ」

「放っておいて、移動の準備をしよう。すぐにここを発つ」

「スタン公爵は来るのかしら」

「そう思ったほうがいい」


 ミハイが立ち上がると、リディアも荷物を片付けはじめた。といっても、床に落ちたスカーフやナイフを拾って、棺に納めるくらいしかやることはないのだが。

 リディアの棺には持ち運びができるように取っ手や、ベルトが付いていて背負えるようにもなっている。見ようによっては楽器のケースのようにも見える。ぶ厚い板で作られ、内側には何重にも黒い布を貼って光を通さないようにしていた。昼の移動時にリディアを守るために、ミハイが手ずから作ったものだった。

 リディアは棺の蓋を閉めると、ミハイを振り返った。


「屋敷にはもう行ったのよね?」

「ああ、昼間に。大丈夫だ、ちゃんと持って来てある」


 ミハイは、部屋の隅に置いてあったずた袋に目をやる。パンパンに膨れた袋だった。


「遺体なんか盗りに行かずに、あれを持って昼のうちに発てばよかった……」


 そうすればロシュの襲撃もかわせたかもしれないし、スタン公爵の心配もせずにすんだかもしれないと悔やむのだった。


「あら、久しぶりのディナーを用意してくれて、私は嬉しかったわよ。ま、愚痴っても仕方ないわね。それより、お母さまとはお話できた? 次は、私も一緒に行きたいわ」


 リディアににっこりと微笑まれて、ミハイは愕然とした。

 約10年ぶりに屋敷に戻ったのに、妻のことをちらりとも考えなかった自分に、心底ぞっとしたのだ。妻の墓に花を手向けることさえせず、早くリディアのもとに戻らなければと、そればかり考えていた。

 あんなに愛した妻の姿が、今では朧げにしか浮かばないなんて、いつから自分はこんな薄情な男になったのだと、ミハイは奥歯を噛みしめる。

 動揺を隠し、ずっしりと重い棺を担ぎあげた。


「ああ、久しぶりにな……。さあ、急ぐぞ」

「重いものは全部、あいつに持たせればいいのよ。ねえ。ある程度成長したら、ダンピールも年を取らなくなるの?」

「分らん。ヴァンパイアにしてもダンピールにしても、謎だらけだ。本人らも全てを理解しているわけではないだろう。俺たちと同様に」

「それもそうね」

「でも、必ず解き明かす。そしてお前を元に戻してやる」

「……そうね」


 ミハイは強い意志を持って言うのだが、リディアは彼の視線から逃れるように目を伏せた。


「人生には目的が必要だものね」


 ポツリと言ってから、リディアはまだ座り込んでいるロシュの頭をコツコツと叩いた。

 彼はハッと我に返り、立ち上がる。


「ここを出るわよ。あんたのせいでスタン公爵の追手が来るかもしれないんだから」

「あ、すみません。一応、匂いはなるべく誤魔化してきたんですけど。あのですね、まず、俺の血を劣化種にかけて……」

「言い訳はいい。まず上地区へ向う。そこで馬車を手にいれる。行くぞ」


 ミハイは、一旦は担いだ棺をロシュに押し付けると、リディアを抱き上げた。左手一本で彼女を抱き、右手はいつでも剣を振るえるように空けている。そして、膨らんだずた袋をあごで示して、ロシュに持つように命じた。


「これ、なんですか?」

「フロレスク家の墓土よ」

「墓土?」

「棺を埋めた土よ。それを手に入れるためにここへ来たの」


 ロシュはミハイに促され、棺とずた袋を担いで先頭になって階段を上り始めた。相当な重量があるはずなのだが、彼の足取りは軽く、口も軽かった。


「で、この墓土は何のために? 大事なものなんですか?」

「とても大事よ。あんた、私の匂いをたどってここまで来たんでしょう? なんで今なの? どうして、1か月前には見つけられなかったの?」

「……え? リディア様の匂いがしたからここに……。でも、ずっと何も匂わなかったのに、急に……あ、なるほど! 匂い消しですね!」

「正解」


 ロシュの顔が輝いた。どんなに探しても見つけられなかったリディアの足取りが、突然つかめた理由が分かったのだ。


「俺がリディア様の微かな香りに気づいたのは3日前なんですよ! それまでは、墓土のおかげで香りを消すことができてたけど、その効果が薄れてきたってことですね。で、再び消すために墓土を取りに来たと」

「そういうこと。墓土のベッドで一昼夜寝れば完全に消せるんだけど、今はそんなことしている場合じゃないわね」

「街全体にリディア様の香りがほのかに漂ってるのに、でも場所がはっきりしなかったのも墓土の効果なんですか? ってか、なんで墓土にそんな力が?」

「さあね」

「教えて下さいよ」

「また、追々にね。それより、今、あんたは私の重大な秘密を知ったのよ。裏切ったら……分かってるわね?」

「ああ、リディア様の秘め事。なんて甘美な……」


 リディアに蹴りを入れられても、ロシュは楽しげだった。

 3人は廃屋を出た。ひんやりとした風が、彼らの気を引き締める。ピンと神経を研ぎ澄まして、静かに歩き始めた。

 深夜の路地は相変わらず人けがなく、静まり返っていた。細い路地から少し広い道に出た。もう少し行けば橋が見えるはずだ。

 今、彼らがいる下地区と上地区の間には大きな川があり、2つの地区をつなぐ橋を渡れば、ここよりは少しましな街並みになる。そして、上地区の入り口に辻馬車屋があることは、既に確認済みだ。金だけおいて無断拝借するつもりだった。

 朝日が昇るまで、まだ4、5時間はある。今はまさにヴァンパイアの活動時間帯だ。会敵することなく、この街を離れられればいいがと、ミハイは焦りを感じるのだった。

 月明かりの中、前方に吊り橋の主塔のシルエットが見えてきた。門のような形の主塔は、まるでこれ以上は進ませないと、巨人がそこに立ちはだかっているかのようだった。

 唐突に、すみませんとロシュが小さく呟き、立ち止まった。ミハイもそれに続く。ロシュの視線の先を追い、彼が立ち止まった理由をミハイも理解した。一瞬で、全身の血液が凍てついたような気がした。

 リディアの囁きが、耳に流れ込んでくる。


「大丈夫よ、ミハイ。せいぜいロシュに頑張ってもらいましょう。彼の本気がこれで分るわ」

「そうはいっても、あいつには会いたくはなかったな」


 ミハイは唇を噛んで主塔の上を見つめる。

 闇より黒い影がそこにいた。

 遥か上空にいてもなお、その威圧感が薄れることはない。風が彼のマントをはためかせると、コウモリが翼を広げているように見えた。

 夜闇の中でもあり、遠く離れた人物の顔など判別できるはずもないのに、ミハイには彼がニヤリと笑っているように見えた。

 スタン公爵。

 相まみえるのは、これが2度目だ。もっとも、当時とは状況が全く違い、今、彼をかわして逃げることは不可能だろう。そして恐らく3度目の邂逅はない。どちらかの、または双方の死をもってしか終わらない戦いとなるのは必至だった。


「すみません。本当は、こうなるって分かってたんです」


 ロシュはミハイに睨まれて、申し訳なさそうに肩をすくめる。


「信じられないだろうけど、リディア様にお仕えしたいってのは本気なんです。だから、絶対守ります。でも、俺はどうしてもスタン公爵にも会わなきゃいけなかったんですよね。そのために騎士団を潰したわけで」


 棺と袋を降ろし、大剣に持ち替えた。ロシュの中で滾るような怒りの圧が高まっていくのが、ミハイにも感じられた。


「あいつは絶対に俺がぶっ殺します。リディア様の下僕として、ヤツを殺すことに意味があるんで。すみません。個人的な復讐に付き合わせて……」

「復讐だと?」

「申し訳ないって思ってます。でも、利害は一致してますから」


 計算づくで近づいたのかと、ミハイは怒りを覚える。しかし、ロシュを問い詰める時間はなかった。

 天空の月の中に、漆黒の大コウモリが舞い上がったのだ。

 

「久しいな、フロレスク伯爵。そして、かぐわしき我が闇の姫君」


 腹に響くような低音が空から降ってきた。

 そして、ゆっくりと黒衣の公爵が地面に降り、ミハイたちの前に立ちはだかった。紳士然とした壮年の男が柔和な笑みを浮かべているだけなのに、ミハイは総毛立つ。


「不死というのは、気長になってしまっていけないね。のんびりし過ぎて、君が年をとって死んでしまうということを、うっかり失念していたよ。だが、まだ生きていてくれてよかった。それにしても伯爵、老いとは悲しいものだな」


 嘲笑をくれる公爵に、対峙するミハイは無言だった。煽りに付き合う余裕などない。心拍数がひどく上がっている。リディアをしっかりと抱きかかえ、剣を構えた。

 じりじりとロシュが前進し、それに合わせてミハイは後退する。

 公爵はごみを見るように、ロシュに視線を移す。


「犬を飼い始めたのか。だが、そいつは行儀の悪い駄犬だよ。物の道理も分っていない。私が躾をしてあげようか?」


 クソがと、ロシュが吐き捨てると、リディアは愉快げに微笑んだ。


「結構よ。もう調教済みなの」

「それは素晴らしい。ところで、今夜は返事を貰えるのかな? リディア嬢、貴女を我が妻として迎える用意はできているよ」


 ミハイの腕に抱かれた幼い少女は、己の守護者の首に腕を巻きつけ頬ずりをはじめた。ちらりと横目で公爵を見やり、口角をきゅっと吊り上げる。


 「公爵夫人なんて素敵ね。でも駄目。だって、あなた臭いんだもん」


 クスクスと笑いながら、余計なことを言うなと呟くミハイの頬にキスをする。その視線は公爵に向けられたままに。


「本当に臭いわ。ミハイと違って」


 公爵の顔がどす黒く変色していく。

 それを笑って眺めていられるのは、リディアだけだった。

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